第六章-4 特別な呼称
中央棟へ向かう道は、もうすっかり静かだった。昼間はあれほど人の気配に満ちていた回廊も、今は靴音だけが響いている。窓の外では、最後の陽が校舎の壁を赤く染めていた。二人とも、すぐには何も話さない。創設祭のあいだ、ずっと近くにいたはずなのに、不思議なくらい言葉が見つからなかった。
教室の扉を開ける。当然、中は誰もおらず、昼までそこにあった熱気が嘘のように、しんと静まり返っている。
アルシオは書類の束を教卓へ置いた。アエラもその横へ重ねる。それで終わりのはずだった。けれど、どちらもすぐには扉へ向かわない。窓から差し込む夕陽が、教室の床を長く染めている。その静けさの中で、アエラがぽつりと呟いた。
「……終わっちゃったわね」
「うん」
「なんだか、あっという間だった」
「長かった気もするけど」
そう返すと、アエラは少しだけ笑った。けれど、その笑みはすぐに消える。しばらくの沈黙のあと、アエラは窓の外を見たまま言った。
「……聞いたの」
唐突だった。けれど、その言葉が何を指しているのか、アルシオにはすぐに分かった。午後の観覧席で、ルークとアルシオに近づいて、縁談を持ちかけたこと。アエラが知ってるのは、誰かしら見ていたものが周囲に話していたのだろう。胸の奥が、少しだけ痛んだ。
「アエラ」
「学園にいると、つい忘れそうになるのよ」
アエラは振り返らないまま続ける。
「図書館で本を読んでたり、教室で言い合ってたり……そうしてると、普通に同じ学生みたいに思えてしまう。でも今日、そういう話が出るのを聞いて、ちゃんと思い知らされた。あなたは皇子殿下で、誰かが縁談を薦めたり、そういうことが当たり前に起こる人なんだって」
そこで初めて、アエラがゆっくり振り返る。緑の瞳が、夕陽を映してかすかに揺れていた。
「……やっぱり、皇子様なのよね」
その言葉は、思っていた以上に深く刺さった。それは、アルシオにとっては当たり前で、けれど学園にいる間は意識せずにいられたこと。けれど、彼女の口からそう言われると、胸の奥にひどく冷たいものが落ちてくる。気づけば、アルシオは一歩、彼女に近づいていた。
「……やめてくれ」
言った瞬間、自分でもはっとする。引き返せない言葉だった。アエラが目を見開く。
「え……」
「今の、忘れて」
「無理よ」
即座に返ってきた声は、かすれていた。教室の空気が変わる。夕陽の色さえ、さっきまでより濃く見えた。
アルシオは小さく息をついた。もう、ごまかせないと思った。
「……君にだけは、そう呼ばれたくない」
今度は、はっきりと言い直す。
「二人だけの時は、皇子はやめて欲しい」
アエラの頬が、みるみる赤くなる。
「二人だけの時って……」
驚くほど自然に、言葉が出た。アエラもいつもならきっと軽口で逃げるはずなのに、今日はそれができないらしかった。
「……じゃあ」
ようやく出た声は、とても小さい。控えめに上目遣いで、アルシオを見上げる。
「じゃあ、何て呼べばいいの?」
アルシオはほんの一瞬だけ迷って、それから真っ直ぐ彼女を見た。
「名前で呼んでほしい」
その瞬間、アエラが息を呑む。沈黙が落ちる。長いようで、ほんの数秒だったのかもしれない。やがてアエラが唇を少し引き結び、かすれるような声で言った。
「……アルシオ」
初めて、名前だけで呼ばれた。まっすぐに胸へと響いてきて、熱を持つ。
「うん」
返した声が、自分でも驚くほどやわらかかった。アルシオは、ほとんど無意識に手を伸ばしていた。指先が、そっとアエラの手に触れる。びくりと、アエラの手が震えた。けれど、振り払われない。アルシオは確かめるように、そのまま細い指を包み込んだ。
「……っ」
アエラの頬が、またたく間に赤く染まる。驚いているのに、受け入れてくれている。そのことが、余計に胸を締めつけた。
「……特別ね」
かすれた声だった。
「うん」
短い返事だけで、十分だった。けれどアエラはそこで少し視線を逸らし、今度はもっと小さな声で言った。
「……じゃあ、私も」
アエラは赤いまま、けれど逃げずに言葉を継いだ。
「父様だけは、私のことを“リーナ”って呼ぶの」
父親しか呼ばない愛称だった。アエラは早口で続ける。
「でも、あまり好きな呼び方じゃないのよ。何だか私らしくないし、ちょっと気恥ずかしいし」
そこでアエラはもう一度アルシオを見る。その目は、ひどく真っ直ぐだった。
「……でも、あなただけには、許してあげる」
息が止まりそうになる。その言い方がいかにもアエラらしくて、なのに差し出されたものは、かけがえのない大切な愛称だった。アルシオは、手を繋いだまま、その名を口にする。今度は、思っていたより甘い響きになった。
「……リーナ」
アエラの肩がぴくりと震えた。けれど、もう嫌がるようには見えない。むしろ、その緑の瞳はますます熱を帯びていく。
「……そんな言い方、恥ずかしいじゃない」
「ごめん」
思わず返すと、アエラは言葉に詰まり、それから顔を真っ赤にしたままふいと横を向いた。
「……もう」
怒っているようでいて、声の端はやわらかい。誰もいない教室には、夕暮れの光が暖かく差し込む。
繋いだままの手のぬくもり。好きだとは、まだ言わない。言えない。けれど、お互いが特別だということだけは、もう隠せなかった。




