第六章-1 晴れの日の礼装
創設祭の朝は、まだ空気の冷たさをわずかに残したまま始まった。
けれど、学園の中は夜明け前から静かに動き出していた。中央棟の回廊には早くも教員たちの足音が響き、広場では使用人たちが長机や飾り布の位置を整えている。普段はどこか厳粛さの方が勝つ石造りの学舎も、今日ばかりは祝祭のための顔をしていた。
窓辺に掛けられた深い青の布。白と銀で揃えられた花飾り。各棟を繋ぐ回廊の柱にも、控えめながら華やかな意匠が施されている。成り立ちとしてはあくまで公的な式典だが、それでもどこか浮き立つものがあった。
ソルフラン国際学園創設祭。創設を祝い、学園の理念と成果を外へ示す、年に一度の晴れの一日である。アルシオは寮の自室で、鏡の前に立っていた。着ているのは普段の制服ではない。創設祭に合わせた式典用の礼装だ。白を基調とした上着は学園の紋章を胸に戴き、襟と袖口には深い青が差されている。
鏡の中の自分を見つめながら、アルシオはゆっくり息をつく。創設祭そのものへの緊張もある。けれど、それだけではない。今日は、父が来る。皇国の王配として、来賓の一人として。その事実が、胸の奥にじわじわと落ち着かない熱を生んでいた。むしろ会えることは嬉しい。けれど、学園での自分を父に見られること、その意味を思うと、どうにも気持ちが静まらなかった。扉が軽く叩かれる。
「入るぞ」
レックスの声だった。
「うん」
入ってきたレックスもまた、式典用の正装に身を包んでいた。普段より髪をきちんと整え、襟元もきっちり留められている。いかにも窮屈そうな顔をしているところだけが、いつものままだった。
「……なんだよ、その顔」
「どんな顔?」
「神妙な顔」
アルシオが少しだけ笑うと、レックスは肩をすくめた。
「今日はちゃんとしないとまずい日だろ。大丈夫か」
「分からない」
「分からないって何だよ」
「緊張してるのか、落ち着かないのか、自分でもよく分からない」
正直にそう言うと、レックスは一瞬だけ黙ったあと、ふっと口元を緩めた。
「まあ、王配殿下が来るんだもんな」
その言い方があまりにも自然で、アルシオは少しだけ目を見開く。
「……やっぱり顔に出てる?」
「分かるに決まってるだろ。何年一緒にいると思ってる」
そう言われると、少しだけ肩の力が抜けた。レックスは窓の外へ目をやる。
「それに、俺もちょっと落ち着かないしな」
「そう?」
レックスは少し照れくさそうに鼻を鳴らした。そのとき、寮の遠くで鐘が鳴った。創設祭の開始を告げる最初の鐘だろう。アルシオはもう一度鏡の中の自分を見る。そして小さく頷いた。
「……行こうか」
「ああ」
二人は並んで部屋を出た。
*
学生たちは、各担任の引率のもと、中央広場へと集められていた。いつもの整列よりも列は長く、服装も華やかだ。普段の講義の日とは明らかに違う。その中央に設けられた式典壇の周囲には、すでに教員役職者たちが並び始めている。来賓を迎えるための空気が、広場全体に満ちていた。
ノア・ヴェルデンは今日も片眼鏡をかけ、少し猫背のまま生徒たちを見回している。けれど普段より幾分か服装が正式で、柔らかな印象の中にも公的な緊張があった。
「皆さん、列を崩さないように。今日は外部の方々も多くご覧になりますので、どうかいつも以上に“普段通り”を心がけてください」
「普段通りが一番難しいんですけど」
誰かが小声でぼやき、周囲に控えめな笑いが起こる。
ノアはそれを咎めもせず、ただ片眼鏡の奥で軽く目を細めた。
「その通りですね。ですが、無理に背伸びした姿というのは、案外よく分かるものです」
それだけ言って、すっと視線を前方へ向ける。どうやら来賓が到着したらしい。広場の空気が、目に見えて変わった。まず現れたのは、創設者たるユリウス・アルタイルだった。落ち着いた深色の正装に身を包み、威圧感よりも人を納得させる静かな威厳を纏っている。彼が歩くだけで、その場の空気が自然に整うようだった。
その少し後ろに、エストリアの有力貴族たちが続く。ユフィーリアの父であるタリーズ卿、ゲイルの父であるセバイン卿の姿も見えた。どちらも公の場に相応しい洗練を纏っているが、やはり子を持つ親として学園を見る目も混じっているようだった。
そして、その中に。黒髪の男がいた。アルシオの胸が、どくりと鳴る。ルークだ。皇国の王配としての正式な礼装は、学園の華やかな飾りの中にあっても少しも埋もれなかった。落ち着いた色合いの装いの中に、無駄のない威厳と、抑えた華がある。派手ではないのに、目を奪われるのはたぶん、その立ち姿そのものに力があるからだ。普段知っている父の顔とは違う。けれど、その面影はたしかにそこにある。
思わず見入っていると、隣でレックスが小さく息を呑んだのが分かった。
「……やっぱ、迫力すごいな」
その呟きに、アルシオは答えなかった。答えられなかった。
来賓たちは学園長と教員役職者の出迎えを受け、式典壇の前へと進む。学生たちは一斉に静まっていた。やがて学園長が前へ出る。
「本日は、ソルフラン国際学園創設祭にご列席賜り、誠にありがとうございます」
開会の宣言は簡潔で、それだけに重みがあった。続いて、創設者代表としてユリウスが進み出る。
「本日この場に、第一期生諸君、教職員諸氏、そして多くの来賓を迎えられたことを、心から嬉しく思う」
よく通る落ち着いた声だった。その一言一言が確かな熱を持って広場へ落ちていく。
「この学園は、ただ知識を授けるためだけの場ではない。異なる国、異なる立場、異なる価値観に触れ、それを理解し、時にぶつかり、なお未来へ繋げる場であってほしいと願っている」
挨拶が終わり、一日の予定が告げられる。午前は来賓向けの公式視察と公開展示、ならびに創設祭決議案の正式報告。午後は演武と実技披露が予定されていた。アルシオも、これから自分が前へ出ることを強く意識していた。
*
開会式が終わると、学生たちはいったん持ち場や見学位置へ散り、来賓向けの公式視察が始まった。中央棟の一室では、公開講義の一部が来賓にも見られる形で行われている。別室では学園の理念や各国統治制度をまとめた展示、図書館の一角では稀覯書や史料の紹介も用意されていた。
アルシオは、学生代表として学園長のそばに立っていた。その場には、アエラもいる。模擬評議会勝利クラスの代表として、二人で決議案の趣旨を来賓に報告する役目が与えられていたのだ。
アエラはいつもよりきちんとした姿勢で立っていた。けれど緊張で縮こまるようなことはなく、むしろ目にはいつもの強い光がある。そういうところは、本当に彼女らしいと思う。やがて学園長が一歩引き、アルシオへ静かに視線を送った。その合図を受けて、アルシオは前へ出る。
「第一期生を代表し、このたびの模擬評議会において可決された決議案についてご説明いたします」
来賓たちの視線が集まる。ルークもまた、その中にいた。今は来賓の一人としてこちらを見ている。そのことに妙な緊張を覚えながらも、アルシオは声を整えた。
「私たちは、創設祭によって得られた収益を、学園が今後も外に向けて価値を示し続けるための基盤づくりに用いるべきだと考えました」
ゆっくりと言葉を置いていく。
「創設祭は、その場限りの祝祭ではなく、この学園の理念と成果を外へ伝える最初の機会です。公開講義や展示、来賓向け記録の整備を通じて、その価値を継続的に示せる形を整えること。そしてそれを一時的な華やかさで終わらせず、来年以降へ繋ぐため、一部を基金として残すこと。これが私たちの決議です」
そこで、アルシオはいったんアエラへ視線を向ける。アエラは一拍遅れずに前へ出た。
「この学園はまだ始まったばかりです。だからこそ、ただ中にいる私たちだけが満足するのではなく、外から見て“必要な場所だ”と思われることが大切だと、私たちは考えました」
来賓席の中で、ユリウスの目がわずかに和らぐのが見えた。アエラもまた、父の視線に一瞬だけ気づいたようだったが、すぐに真っ直ぐ前へ向き直る。その姿は頼もしかった。同時に、ひどく眩しくもあった。
説明が終わると、来賓の中から二、三の質問が投げられた。配分の優先度、基金の割合、公開対象の範囲。ユフィーリアが整え、ゲイルが削り、レックスがぽつりと落とした一言まで含めて仕上げた案は、ちゃんとそれに耐える強さを持っていた。
そして最後に、ルークが静かに口を開いた。
「ひとつ、よろしいでしょうか」
低く落ち着いた声が響く。その瞬間、なぜだかアエラがぴくりと肩を揺らしたのが見えた。アルシオは父へ向き直る。
「はい」
「君たちの案は、学園の価値を外へ示し続けることを目的としている。しかし、外へ示すことと、外へ迎合することは時に近く見える。そこをどう区別するのですか」
鋭い問いに、一瞬会場が静まる。その中でアルシオは、妙に落ち着いていた。
「私たちは、広く知られることそのものを目的にはしていません」
はっきりとそう答える。
「学園の理念や成果が、正しく理解されることの方を重視しています。多く集めることより、何を伝えるのかをぶらさないこと。そのための整備と記録を残すことが大切だと考えました」
ルークは黙って聞いていた。そして、ほんのわずかに頷く。
「なるほど。ありがとうございます」
それだけだったが、伝えられたことを、たしかに感じた気がした。説明を終えたあと、来賓一行は次の展示へと移っていく。公開講義、図書館の展示、創設祭のために整えられた各国文化紹介の一角、そして実技棟の見学。来賓たちはそれぞれの関心に応じて立ち止まり、学園長や教員へ質問を投げる。アルシオとアエラも学生代表としてその流れに付き従い、ときに決議案の意図を補足し、ときに第一期生としての所感を求められた。
父であるユリウスの前では、いつもよりどこか娘らしい表情を見せた。けれど説明の場に立てば、途端に目の奥がきりりと冴え、淀みなく言葉を返していく。その切り替わりが、アルシオには新鮮だった。
そしてもう一つ、気づいてしまったことがある。ルークが何かを問うた時だけ、アエラはわずかに反応が違った。視線を向ける角度も、声の調子も、ほんの少しだけ硬い。敬意から来る緊張だと片づけるには、どこか違うものが混じっているように見えた。――気のせいだろうか。そう思いながらも、胸の奥に小さなざわつきが残る。




