娘は大人になった
お父さんのお店で一緒に働いたら、常連のお客さんは歓迎してくれるだろうなあ。調味料も食材も、冷蔵庫も冷凍庫も電子レンジも、制約なしに使い放題で色んなお料理作れるだろうなあ。悪くないよね。豆太郎と権之助とハチとマルと、また一緒に暮らせるし。家族と一緒にいられるって、すごく贅沢なことだもんね。
「ほら、お母さん。見てみろ、今ならいけるって。急に帰ってきたのも、東京で何かやなことでもあったんだろ。この隙に説得しない手はないって」
「あら、本当だ。何があったのかしらね……お正月に会ったときよか、今日の方が元気そうに見えるけど」
「はあ、でもなあ……」
故郷に帰って暮らす。とても魅力的なのに、どうしても乗り切れない。故郷だからこそ、皆が知ってる。
「名前がなあ……みんなに知られてるし……」
私の本名。それが問題。
「なに、名前なんて今更だろうに。別に恥ずかしがることなんかないだろう。お父さんの愛が詰まった名前だぞ」
うん、知ってる。昔から同じこと言ってる。
「お父さん! あんた、そのせいでプー子がいじめられたの忘れたわけじゃないでしょう」
「そんなん、何十年前の話だ。子どものすることだろうが」
「だからって、プー子が辛かった気持ちまでなかったことにはできないでしょう」
そこまで分かってるなら、なぜ今も私をプー子と呼ぶの、お母さん。赤ちゃんの頃から、そう呼んでたから愛着があるのは分かるけど、プー子って言われると、どうしても思い出すよ、私の名前。お父さんのお姫もそう。嫌がる私を気遣ったつもりで、全然、本名から離れられてない。あからさまないじめは小学生の頃くらいだったけど、専門学校に入るために実家を離れるまで、ずっと皆に冷やかされて、馬鹿にされてた。東京に行ったって、名前を名乗らないといけない場所では同じ。表向きは何でもない顔をしても、皆が心の中で笑ってた。だから自分の名前が大嫌い。だって、この外見で。この、恐ろしく普通の日本人の外見で、別に金持ちでもなんでもなくて。それで。
「俺にとっちゃあ、可愛い娘だ。お姫だ。プリンセスって呼んで何が悪い」
そう。田畑姫。姫と書いてプリンセスと読む。この名前が、どんだけ辛かったか。また皆にプリンセスとか、プリちゃんとか、姫とか失笑交じりに呼ばれる生活には戻りたくない。言葉をしゃべらないワンコ達とは一緒にいたいけど、人間は嫌。
「なあ、お姫。お前も分かってくれるだろ? お父さんの愛」
お父さんの愛、ね。
ねえ、お父さん。あなたの娘はあなたが思ってるよりも、ものすんごく、想像をはるかに超えて、大人になったのよ。だから、もやもやしてた色んなことがちゃんと分かるようになったよ。愛なんて言葉だけではもう誤魔化されない。
「お父さん。お父さんがさ、私のこと大事だと思ってさ、お姫様みたいに大事にしようと思ってさ、名付けてくれたの、今は分かるよ」
言えないけど、私も親になったから。子どものことは宝物みたいに思う気持ち、分かるよ。
「でもさ、それはお父さんが心の中で思ってくれたらいいことで。どうしても言いたいなら、家の中でだけ私のこと、お姫って呼べばいいことで、名前にする必要はなかったと思う。名前はさ、親からもらうものだけど、でも、子どものものだから。私が、これから年をとって、おばさんになって、おばあちゃんになってもプリンセスって名前で生きていくこと、想像した? 私が本当に幸せになれるって考えた?」
就職活動で面接は避けられない。そして面接で名前を名乗ることも避けられない。どんなに準備していっても、「田畑プリンセスです」って名乗った瞬間に、部屋中の人に笑われて、頭が真っ白になった。顔も上げられなくなったこともある。受かるわけない。バイトですら、随分苦労した。実家に帰らないためには何かして自活しないといけないのに仕事が決まらなくて毎日真っ暗だった。今のコンビニの店長は笑わないでくれた貴重な人。
「お姫……」
お父さんが私のこと好きだからつけた名前だって言うから、子どもの頃は、それを嫌がる自分がいけないのかと思って、言い出せなくて余計に辛かった。今、自分が親になって、やっとこうやってきちんと言葉にできるようになった。一緒に私の子の名前を考えてくれたたっちゃんや、雄太郎や彰くんや清人がたくさん教えくれた。
「好きだからってさ、大事だからってさ、何でもして良いわけじゃないじゃん。大事なら、大事にしないといけないじゃん。」
お父さんがじわじわと俯いてしおれていくのを見るのは嫌だ。嫌だけど、止まれない。こっちの一晩のうちにすごい人生経験積んできたからさ、責められて、素直にしおれていくのって、責められる原因を知ってて、しかも納得してるときの反応だって知ってる。私にプリンセスって名前つけたの、後悔してた? 後悔してたのに、認めないでいた? 私には父の愛として受け入れろって言ってたの? それは、それはさ。私は、悲しいよ。
「お父さん、大事にするって言うのは、自分の好きなようにするってことじゃないんだよ。相手のことを真剣に考えるってことだよ、相手の気持ちを」
「プー子、もういい。もう、お父さんもお母さんも分かったから……ごめんね」
お母さんも、気がついてたのかな。そうかもね。私がいじめられてるとき、寄り添ってくれたのはお母さんだもんね。二人とも気づいていたのに、知らんぷりして、私さえこの名前を受け入れたら、名づけの失敗はなかったことにできるって、どっかで思ってたんだろうね。ひどい話。でも。でも。今、ここでしおれている二人は、この名前を受け入れられない私を責めない。私にワンチャンかけてただけで、失敗したって分かってた。認められなかったんだよね。それは私のことが大事だから、余計に失敗なんてしたくなかったからだ。そう考えられるくらいには暑苦しく愛されてきたよ。簡単に嫌いになれなくて、余計に苦しんだ時期もあったけど、全然愛されない方が良かったとは思えない。
よし。もう、いいかな。私が見た目通りの21歳の田畑プリンセスだったら、ここから鍋でも包丁でも振り回して大暴れするかもしれないけど、家族に大事にされてないと思って、絶望したかもしれないけど、今は違うからね。私には本当に私を大事にしてくれる家族がいるから。もしかしたら、もう会えないかもしれないけど。でも、遠いけど、確かに、あちらに私の家族がいるから、私はもう大丈夫。
「ううん、謝ってほしかったんじゃなくて、一度、ちゃんと伝えたかっただけ。どう思ってるか、話せたことなかったから。でも、だから、ごめんね。愛されてるのは知ってるし、大事に育ててくれたことに感謝もしてる。二人のことが嫌いなわけじゃないんだよ。ただ、私のことをプリンセスだと思ってる人たちがいるところに居たくないんだ。一緒にお店は、できないかな」
それに、やっぱりお店をやるなら『草壁』がいい。トオル達が羽目を外すたびにお詫びのしるしにグレードアップしてくれて、今や、とんでもない老舗感を出してる、それでも気取らない喫茶『草壁』がいい。
「なーんか、あれだな。お姫の方が俺たちより大人になっちゃったみたいだな……」
「ふっふっふー。分かる? 私。すんごく大人になったの。ものすんごく成長したからね」
「ダメな父さんでごめんな」
「お父さんは、名付けのダメダメだけど、お料理は上手だと思うよ。たくさん教わっておいて、こっちを離れてから助かったよ」
「でも、うちの店では働かないんだな」
「…お父さん。くどい」
あ、お母さんとはもった。
ずっと胸にひっかかっていたことを吐き出すって、すごいね。すっきりするね。この晴れ渡る空のように、今の私はすっきり爽快。お父さんとお母さんにはお仕事に行く前の遅いお昼兼お夕飯として豪華なお食事を用意したら、少し元気を取り戻してくれた。そして今、私の新しい名前を考えようって延々と言い争ってる。
「あのとき、産後でまいっていたからってお父さんの案を許したのは一生の不覚よ。今度こそ、私の考えた名前を付けさせてもらうからね」
「いや、今度こそお姫に似合う名前を俺が」
「今まで黙ってたけど、そもそもあんたネーミングセンスないのよ。お店のメニューだって」
「なんだと。お前、いつからそんなこと思ってたんだ」
「ずっと! 21年間、ずっと!」
「もっと早く言えよ!」
ホントだよ、お母さん、もっと早く言っておいてよ。
「だからプー子も、ワンコ達にあんな名前つけるんじゃないの」
え、それってどういう……? え? ハチ、マル、権之助、豆太郎。嫌だった? 最高に可愛いと思ってたんだけど。あ、でもめっちゃ尻尾振ってくれてる。ちぎれそうだから、もういいよ。ありがとう、みんな。そうだよ、私はお父さんほどひどくないよね。
二人の話し合いは白熱して、私はワンコ達と遊び疲れて、そろそろ夕方だ。話し合い過ぎた二人の声はガラガラで、作り置きの麦茶はからっぽ。
「ねえ、そろそろお店に行かないといけないんじゃないの?」
「ばかやろう、それどころじゃないだろう」
「お母さん、今度は絶対負けないから」
これ、決着つかないじゃないの。だって、ついでだから言わせてもらえば、お母さんだって私のあだ名をプー子にしてる時点でセンスには期待できないからね。やっぱり、この家族で一番センスがいいのは私。
「ねえ、お父さん、お母さん。あのさ……」
実家に泊まるとずるずるしちゃいそうだから、あえて泊りの用意をしないできた。帰りは家の車で駅前まで送ってもらう。ワンコ達とは念入りにお別れしてきた。体中に沁みついたワンコの匂いがプレゼント。帰りのバスに犬アレルギーの人がいませんように。車の中で一生懸命コロコロして抜け毛はとったけど、完ぺきではない気がする。
車を降りて、お父さんとお母さんを見送る。
「今日、会えてよかった。じゃあ、お仕事行ってらっしゃーい」
車の中からニコニコの二人も手を振ってくれる。
「あんたも気を付けて帰るのよ、ヒカリ」
「うん」
「変な男にひっかかんじゃねえぞ、ヒカリ」
「ははは。それはないから大丈夫。私のことは何があっても全然心配いらないからさ、お父さんとお母さんも身体に気を付けてね。ハチとマルと、あっ車来ちゃった」
夕方って駅前ロータリー混むよね。権之助と豆太郎も任せとけって言いながら慌ただしく二人が去っていく。
「よろしくね~。会わせてはあげられないけど、私の旦那さん、超いい人だから安心してていいよ~」
あ、危ない。車がグラってした。窓閉める前だったかな……。よし、逃げよう。ダッシュだ!