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逆トリップ

「世界を始めます。」の続編です。前作を読んでからでないと話が全く通じませんのでご注意ください。

 ここで死ぬんだと、もう日本に帰ることもないんだと、覚悟してた。

 異世界原住民のヒカリとして天寿を全うして静かに死ぬんだと、覚悟しているつもりでいた。

 それなのに「おやすみ」と言って部屋を出ていく背中を見送って、一人きりになった部屋で「ああ、あと何回この優しいおやすみを聞けるかな」と思ったら。「あと何回、おはようと言えるかな」と思ったら。駄目だった。突然に、猛烈に、死にたくなくなった。絶対に死にたくないと、思ってしまった。


 だからかな。




 次に私の目を覚ましたのは、いつもの鳥の声でも、家族の声でもなく、スマホから流れるJ-POPだった。そのことを理解するまでに、お気に入りだったその歌のサビをすっかり聞ききった。震える手で枕元のスマホに触れてアラームを止めて、辺りをじっくり見まわして、それからまじまじスマホに浮かぶ日付を見つめて。息を吸って。そして叫んだ。


「どえええええええええ!」


 そこは、もう記憶から消えかけていた一人暮らしの狭いアパートで、間違いなく、日本の我が家だった。異世界トリップを起こした日付はぶっちゃけ忘れていたけど、スマホで直前までのメッセージのやりとりを確認できたから、分かった。時間は一日もずれてない。あの日、いつも通り目覚めるはずだった場所に、私は戻ってきてしまっていた。こういうの、なんて言うの? 逆異世界トリップ? 逆トリップ? ハットトリック? いや、ハットトリックは三回目までとっとくか。


「あっぶね。パスワードだったら100%忘れてて、ここで詰んでたわ。指紋認証マジ神。失われた記憶を全部残しといてくれるササヤイッターも神。全部ささやいといた私も神」


 何せ、長いこと異世界人生活を送っていたのだもの。現代日本のことなんて学生時代に習った日本史と同じ位おぼろげにしか覚えてない。少ない友達の名前、バイト先の人の名前。名前、名前、名前。全然覚えてない。やばい。バイトのシフトも覚えてないし、もっと言ってしまえば仕事の仕方もほとんど覚えてない。スマホをスワイプ、スクロール。こういう手の動きとかは体が覚えてるのね。自転車もまだ乗れるのかも。意識はあれだけど体は昨日の続きなんだし。そう、身体、これ絶対若返ってるっていうか、トリップ前の状態になってる。このお肌。嬉しい。すべすべ。すべすべ。じゃなかった。真面目にスクロール。メールチェック、メッセンジャーチェック、SNSチェック。着信チェック。

 え、嘘。今日、これからバイト入ってるじゃん。思い出してる暇ないじゃん。まずい、まずいよ。休むか? 休んじゃうか? 体調不良って言っても、そんな間違ってないんじゃないの? 嫌な汗かいてきた。

「あーあ、思い出せなさ過ぎて怖い。行きたくない……でもなぁ」

 人の名前は忘れていても、自分の暮らしぶりは忘れてない。異世界トリップしてあちらで充実したお仕事ライフを営む前、こちらの世界の私は就職できなくてバイトでなんとか生活してた。今日一日のバイト代を失うことは、リアルな生活を営む上でかなり痛いはずだ。


「どんな世界でも先立つものは必要よね」


 深く悩まないことにかけては異世界仲間たちから魔王の城のてっぺんよりも高い評価を得ていた私だ。

 なんで異世界から戻ってきたのかとか、明日からもこの世界で過ごすのかとか、あちらの世界ではどういうことになっているのかとか、そういう大事そうなことは全部、考えても分からないから放っておくことに決めた。今、考えて、意味があることは遅刻せずにバイトに行くためにはどうしたら支度が間に合うかってこと。そして、やっぱり覚えてないバイト先への道順。それだけ。だって、こちらの世界は続いていて、私の生活も続いていくのだから。




 人間、やればできるなあって。

 滑り込んだ控室で制服に着替えながら感動してる。自転車も漕げたし、なんとなくで選んだ道でちゃんとお店にも辿り着いた。何食わぬ顔で「ピッ」てカードキー使いこなして扉もあけられたし、ロッカーの場所はちょっと迷ったけど、名前を書いておいたおかげで不自然になる前に判明した。

「あっ、田畑さん。おっはよー」

「おはようございまーす」

 控室に入ってきた女性。一見すると20代にしか見えないけど実はお子さんが高校生になったから早朝バイトを始めたっていう美魔女の工藤さん。最初に再会した知り合いがインパクトの強い人で良かった。割とよく覚えている。今日も隙の無いメイクが美しい。

「工藤さん、今日はもう上がりですか?」

「ううん、お昼まで続けて入るの。林くん、お熱だっていうから代打よ~」

「お熱……」

 そういや、ママさん美魔女らしく、ときどき飛び出す幼児語が妙にエロいと評判だったな、工藤さん。

「やだ、ごめんなさい。お風邪。うふふ。いつになっても子どもが小さかったときの癖が抜けなくて。うちの子にも、よく怒られるのよ~」

「ははは。分かりますよ~」

 あ、つられて語尾が延びた。

「え~、田畑さんったら。独身なのに、ベテランママに寄り添ってくれて優しい~」

「あ、いや、あははは」

 しまった。異世界ライフでは子どもも育てたり、産んだりしたけど、ここでは絶賛独身、恋人なしの田畑21歳だった。気を付けなきゃ。よし、これ以上ボロが出る前に話を逸らそう。

「工藤さん、そしたら、あの、休憩のときでもいいんで、ちょっと教えてもらいたいことがあるんですけど」

「何なに~?」

「美魔女の秘密です! 一体、どうしたらそんなにいつまでも若々しくいられるんですか? 特にお肌! 美容法、教えてください。できれば高級化粧品とかなしでやれるヤツ」

 工藤さんは目をぱっちり見開いて、それはもう隙の無いアイラインとおそらく自前の長いまつ毛を披露してくれた。いや、驚かれ過ぎだろう、自分。どんだけ美に興味ないと思われてたんだ。

「どうしたの~、田畑さん。もしかして、恋? コイバナ?」

「いやあ、恋っていうか……こう、お相手の方が、ずっとお肌がきれいとか地味に落ち込むなって思って」

「きゃあああ、恋じゃない! 田畑さん! 素敵! ついに、ついに! 何々、どこの誰? 今どんな感じなの? 聞かせて、聞かせてえ~」

 食いつき方がすごいな。話を聞こうとしたのはこっちなのに、完全に攻守が入れ替わってる。

「あの、アレですよ、ほら……」

 追い詰められた私の目に映ったのは誰かが置きっ放しにしていた女性誌の表紙。おきれいな顔がじっとこっちを見つめている。うん、彼が言ってる。困ったら、俺がここにいるよって。

「あの人。韓流アイドルの……」

 指さしたら、工藤さんが表紙の彼を振り返った。

「あ~、C-HEMのRED? 意外~でも確かに綺麗よねえ」

 あ、そうだ。そうそう、C-HEMのRED。そんな名前だった。人気のK-POPグループのボーカル。綺麗な顔と沁み一つない白い肌が女性誌の表紙をドアップで飾ってしまう理由の一つ。美肌に目覚める理由としては完璧な人。私の目をひいたのはどっちかっていうとずらっと並んだピアスとか、綺麗な形の眉毛の方だけど、それは黙っていれば分からないことだから言わないでおこう。異世界での夫が不老不死だったから老いる自分が気になったとか、口が裂けても言えない私を救ってくれてありがとうRED。これでただのオタ属性から痛い電波系にクラスチェンジしないで済んだよ。

 工藤さんは期待が外れたのか、ちょっとテンションが下がったみたいだけど、すぐに笑顔を取り戻してくれた。

「うん。憧れが三次元になったのは進歩だよ。二次元よりずっとリアルの恋に近づいてるもん。今はちょっと画面の向こう側かもしれないけど、いつか会えるかもしれないし。ファイト、ファイト!」

「そうなんですよ。いつか会えるかもしれないから、努力しようかなって思って」

「きゃ~! 応援するわ~!」

 よし。知り合いの中で最強の美魔女の秘密ゲット。せっかく若返ったんだから頑張るぞ! 

 いつか会えるかもしれないから、ね。



 その日のコンビニバイトはミスを連発しながらも、なんとか乗り切った。工藤さんのおかげでK-POPのアイドルに突然夢中になった色ボケのせいだって皆に思われてるけど、クビにならないで済むならなんでもいい。とにかくお金を稼がないといけないから。

 私はこれからも引き続き、どこでだって、生きていく。

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