第二章 『知性と肉体の融合 / 崖の上の空中テラス』
1. 砂上のモダニズム
エレーナは砂浜にしゃがみ込み、弦の描いた図面を凝視していた。
彼女の知る「家」の概念とは、あまりにもかけ離れていたからだ。
「……柱は? 下から支えるウッド(柱)がないじゃないの。これじゃ重さで落ちるわ」
怪訝そうに眉をひそめるエレーナに対し、弦は視力が落ちた目で崖を見上げ、流木で図面の一部をトントンと叩いた。
「大工なら下から柱を立てるだろう。だが、ここは足場が悪い上に波が来る。なら、重力の下を支えるのではなく、奥で『相殺』すればいい。——キャンティレバーだ」
「キャンティ……レバー?」
弦は砂の上に、テコの原理を示す単純な図を描き足した。
「あそこに見える崖の水平な『割れ目』を使う。あそこに太い流木を楔のように深く突き刺すんだ。突き刺した丸太の先端に床を張る。当然、人が乗れば先端は自重で下に落ちようとする。だがな、エレーナ」
弦の指先が、砂の上の丸太の「奥側(崖の内部側)」を強く指した。
「先端が下がろうとする時、崖の隙間に挟まった奥側には、逆に『上へ跳ね上がろうとする力』がかかる。その跳ね上がるポイントに、島にある一番重い岩をこれでもかと敷き詰めて押さえるんだ。シーソーの原理だよ。先端にかかる人間の体重なんて、奥に乗せる数百キロの巨岩の質量に比べれば誤差に過ぎない」
エレーナの目が丸くなった。
彼女はアスリートだ。己の身体を効率よく動かすため、重心や力学の基本は感覚的に理解できる。弦の言っていることは、奇論でもなんでもない。緻密に計算された物理の法則そのものだった。
「下から支えるんじゃない……奥で押さえつける……」
「それだけじゃない」
弦の流木が、今度は屋根のラインをなぞった。流れるような美しい曲線。
「ただの四角い小屋を作れば、これから来る嵐の風圧で崖から綺麗に剥ぎ取られる。だから屋根は流線型にする。新幹線の頭部や、飛行機の翼と同じだ。下から吹き上げる暴風がこの屋根にぶつかった時、風は上へと受け流される。その瞬間、シェルター全体には崖の壁面へと強く押し付けられる力――ダウンフォースが発生する」
弦は不敵に、だが老練な建築士としての絶対的な自信を込めて微笑んだ。
「嵐が強くなればなるほど、この家は崖に強く固定される。俺たちは風に守られることになるんだ」
エレーナは息を呑んだ。
目の前にいる、眼鏡を失って目を細めている冴えない東洋人の中年男。なまりきった体で、丸太一本まともに運べそうにない男が、頭脳一つでこの無人島の重力と暴風を完全に「支配」しようとしている。
「……You are crazy(あなた、狂ってるわ)」
エレーナはふっと引き締まった唇を綻ばせ、彫刻のような美しい二頭筋を誇示するように両腕を軽く回した。
「でも、そのクレイジーな図面、形にする価値はある。重い岩の運搬も、崖へのクライミングも、全部私の担当ね」
「話が早くて助かる。よし、施工主――いや、共同作業者。まずはあそこの割れ目に適合する、直径三十センチ以上の強固な流木を探すぞ。ミリ単位の狂いも許さんからな」
言葉の壁は、完全に崩壊していた。
砂浜に描かれた一本の線が、知性と肉体を繋ぐ最強の設計図となったのだ。
2. 物理の魔法(動滑車システム)
「おい、エレーナ。そこの太い蔦を、あの二又に分かれた丈夫な大木の枝に通してくれ」
「オーケー。でも、神崎。こんな生木を何本もあそこまで引き上げるなんて、私のパワーでも限界があるわよ?」
エレーナは額の汗を拭いながら、弦が選定した直径三十センチほどの流木を見上げた。
水分を含んだ巨木だ。大人三人で抱えても持ち上がるかどうか怪しい質量である。
対する弦は、落ちていた滑らかな丸石と、Y字型の頑丈な枝を組み合わせた「即席の滑車」をいくつも作りながら、不敵に笑った。
「言ったろう、力学の支配者は俺だ。……よし、これでいい」
弦は、崖の上の大木に固定した固定ロープ(定滑車)と、丸太側に結びつけた即席の滑車(動滑車)に、器用に蔦を編み込んで複雑なルートを通した。
「エレーナ、その蔦の端を握って、あっちへ走れ」
「え? ここで上に引っ張るんじゃないの?」
「いいから走るんだ。お前の全力をそこへ注げ」
エレーナは怪訝な顔をしながらも、弦の指示通りに蔦の端を肩にかけ、砂浜に向けてダッシュした。
十種競技のメダリストの脚力が、一気に砂を蹴り崩す。
次の瞬間、信じられないことが起きた。
「……っ!? うそ、軽い……!」
エレーナの驚愕の声が響く。
大人が数人がかりでもビクともしないはずの巨木が、まるで重力を失ったかのように、崖の上に向かってするすると滑らかに引き上げられていくのだ。
「これが『動滑車』の仕組みだ」
弦は眼鏡のない目を細め、丸太の軌道を見つめながら淡々と言った。
「動滑車を二個組み合わせれば、引っ張るのに必要な力は単純計算で三分の一になる。その代わり、引っ張る距離は三倍になるが……そこはお前のその、有り余るスタミナと脚力でカバーしてもらう」
エレーナは走りながら、崖の上で冷静に指示を出す弦の横顔を見た。
体はなまりきっている。自分より力もない。なのに、この男が少しロープを組み替えただけで、世界の物理法則が書き換わってしまったかのような錯覚に陥る。
「You are a wizard...(あなた、魔法使いね)」
「ただの一級建築士さ。さあ、そのままキープしろ。そこが『設計図』のジャストの位置だ!」
弦の鋭い声が響く。
崖の亀裂に、完璧な角度で一本目の主梁(丸太)がガチリと噛み合わさった。
3. 迫る濁流と「メダリストの備え」
「神崎、ダメよ! 波が上がってきたわ!」
エレーナの悲鳴のような叫びが、豪雨のノイズを突き破った。
さっきまで砂浜にあった長くて立派な流木は、みるみるうちに満ちてきた荒波に呑まれ、漆黒の海へとさらわれていく。残されたのは、激しく波が打ち付け始めた険しい崖の岩肌と、2人の身体だけだった。
足元まで波頭が迫る。文字通り、時間切れだ。
「流木がない……! これじゃシェルターなんて作れないわ!」
「待て、エレーナ! 骨組み(フレーム)が無理なら別のアプローチだ。あそこに落ちている『平らな岩の塊』と、波打ち際に残った短い木の切れ端を集めろ!」
「岩と、そのクズ木でどうするの!?」
弦はエレーナが岩を抱え上げる手元を見て、目を見張った。彼女の手には、いつの間にか頑丈なサバイバルナイフが握られていたからだ。
「……エレーナ、そのナイフはどこから出した?」
「トップアスリートを舐めないで! 船の警報が鳴った瞬間、客室のセーフティバッグからこれとライトだけは引き抜いてスポーツタイツのポケットに仕込んだわ。最悪の事態を想定して動くのはメダリストの基本よ!」
「なるほど、頼もしい施工主だ。ならそのナイフで、そのクズ木の先端を尖らせて『楔』を作れ! 急ぐんだ!」
弦のただならぬ気迫に、エレーナの魂が点火した。
彼女は驚異的な跳躍力で崖のわずかな足場へと飛び移り、ナイフで木片を鋭く削りながら、指定された天然の窪み(岩棚)へと岩を運び込み始めた。
4. 重力で重力を制する
弦の指示は、素人目には狂気の沙汰だった。
モルタル(セメント)などの接着剤は一切ない。ただの石を積んでいるだけだ。しかし、弦が指示する石の配置は、奇妙な曲線を描いていた。
左右から斜めに石をせり出させていき、中央を高くしていく「迫持構造」――アーチだ。
「神崎! 崩れる、崩れるわよ!」
「左右のバランスを均等にしろ! そして石の隙間に、さっき削った木の楔を打ち込むんだ! 三角形を作るように!」
弦の狙いはこれだった。
石を湾曲させて積むだけでは、激しい振動でずれてしまう。そこにエレーナがナイフで削った木の楔を「三角形」を描くように石の接合部に力強く打ち込むことで、辺の長さが完全に固定され、どれだけ強い力がかかっても絶対に歪まないトラスの強度が生まれる。
「これで……どうだッ!」
エレーナが最後の、そして最も重要なアーチの頂点となる楔形の石を叩き込み、その隙間にトラスの楔をグッと突き刺した瞬間だった。
ガラガラ、と不穏な音を立てていた石の山が、嘘のようにピタリと動きを止めた。
「え……?」
エレーナが呆然とつぶやく。
接着剤など一滴も使っていないのに、石と木片が互いに押し付け合い、下に落ちようとする重力そのものが全体の結合をさらに強固にする「無敵の石造シェルター」が完成したのだ。
「レンガもコンクリートもない時代、人類はこれで千年も持つ建造物を作った。……さあ、中へ入れ!」
弦がエレーナの腰を押し上げ、自身も最後の力を振り絞るようにして波が届かない高さのシェルターへと滑り込んだ。
外を薙ぎ払う波の音が、シェルターの厚い壁に遮られて遠い地鳴りのように響く。
危機を脱した安堵感と、激しい運動による疲労が、どっと二人を襲う。
立ち上がることすらできないほどに狭く、暗い空間。
濡れて肌に張り付いた服越しに、エレーナの柔らかい身体のラインが、容赦なく弦の肌に押し付けられていた。暗闇のせいで視覚が奪われた分、互いの匂いや、触れ合う皮膚の熱さが、驚くほど生々しく五感を刺激してくる。
もし、この暗闇の中で、彼女が震える声で私の名を呼んだら。
その潤んだ瞳で見つめられ、引き寄せられるように唇を重ねてしまったら――。
外は世界が滅びるかのような大嵐。しかし、この千年のシェルターの中だけは、二人だけの独立した宇宙……。
――などという甘い幻想(妄想)が頭をよぎったのも束の間。
「……いたたた……」
弦は心の中で、全力で自分の頭を小突き回した。
何を考えているんだ、俺は。
久しく女性の温もりから遠ざかっていたからといって、よりによってこんな極限状態のサバイバル中に、しかも相手は、眩しいほどに若くて美しいエレーナなのだ。下手をすれば犯罪的ですらある。
「あ、あの……弦? 大丈夫ですか……?」
暗闇の中、すぐ近くからエレーナの本気で心配そうな声が聞こえ、弦は我に返った。
「ああ、すまない。なんでもない。ただ、少し呼吸を整えていただけだ」
どくどくと高鳴る心臓の鼓動が、恐怖によるものなのか、それとも今の妄想のせいなのか。エレーナに悟られぬよう、弦は暗闇の中で必死にポーカーフェイスを貫くのだった。
直後、彼らがさっきまでいた砂浜を、獣のような大波が完全に押し流していった――。
(第三章へつづく)




