第一章 『絶望と邂逅 (かいこう)/ 砂上の図面』
1. 黄金の球が落ちる時
「ガラガラ、ガラガラ……コロン」
乾燥した木の擦れ合う音の後に、頼りなく赤フェルトの受け皿を見つめていた。そこに転がり落ちたのは、鈍い光を放つ小さな真鍮製の玉——いや、金色だ。
「……あ」
バイトの女子高生が、持っていたスマホを落としそうになりながら目を見開いた。ワンテンポ遅れて、彼女の手にあるハンドベルが、商店街の寒空にけたたましく鳴り響く。
「お、おめでとうございます! 一等賞、出ましたぁッ!」
カランカランと鳴る鐘の音に、通りがかった主婦たちが足を止めてこちらを見る。
弦は、手元に握られたポケットティッシュを見つめたまま、小さく眉をひそめた。
「一等賞……?」
「はい! 『豪華客船で行く・太平洋ロマンクルーズ二週間の旅・ペアチケット』です!」
女子高生が差し出してきたのは、青い海と白い船体がこれでもかと誇張して印刷された、いかにも派手な招待券だった。
神崎弦、五十歳。一級建築士。
普段なら、この手の街頭イベントには目もくれない。今日だって、設計事務所の買い出しのついでに、画材屋でもらった抽選券を捨てるのも面倒で、なんとなくガラポンを回しただけだった。
「ペア、ね……」
弦は、短く刈り込んだ白髪混じりの頭をぽりぽりと掻いた。
独立して自分の事務所を構えてから二十年、図面を引き続けるだけの人生だった。私生活はとっくに空っぽだ。ペアで行く相手など、この世界のどこを探してもいやしない。
「あの、お一人様でももちろんご利用いただけますよ! すごいですよ、東京発着の一等客室です!」
女子高生が、羨ましそうな、しかしどこか哀れむような目で弦を見つめる。
五十の男が、一人で豪華客船。想像するだけで、居心地の悪い絵面だった。
だが——ふと、弦は自分の指先を見た。
万年筆のインクが染みつき、年中、図面をなぞっているために指先が少し硬くなっている。ここ数年、締め切りに追われ、重力とコンクリート、そして施主の我が儘な要望の板挟みになり、心底磨り減っていたのは確かだった。
たまには、潮風に吹かれるのも悪くない。
どうせ、海の上なら電話も繋がらない。仕事から強制的に逃げるには、ちょうどいい言い訳だ。
「……じゃあ、一枚で」
弦はそう言って、黄金の招待券を受け取った。
手元にある(行き先がサイパン、グアムと書かれた)一枚のチケットを、私は指先でそっとなぞった。
まさか、本当に当たるとは思っていなかった。
日頃のせわしない仕事の合間に、半ば冷やかし半分で応募したものが、見事に手元へ転がり込んできたのだ。都会の満員電車に揺られ、図面とコンクリートに囲まれてすり減る毎日の中で、そのチケットはまるで、異世界への招待状のように鈍い光を放っているように見えた。
「旅、か……」
ぽつりと呟いた言葉が、部屋の静寂に溶けていく。
私にとって旅と言えば、観光地を巡って美味いものを食べ、綺麗なホテルに泊まるような、世間一般のスマートな旅行ではない。
真っ先に頭に浮かぶのは、ただ一人、静寂の中に身を置くあの時間――。
最近では『ソロキャンプ』などと洒落た名前で呼ばれ、便利な『メスティン』だとかいう今風のアルミクッカーが持て囃されているらしい。にわかに巻き起こったブームとやらに乗って、お洒落な道具を着飾った人々が、週末のキャンプ場を埋め尽くしている。
だが、私はそんなものには目もくれない。
私は、はるか昔から、これを『オンリーキャンプ』と称して、一人で各地を巡ってきたのだ。
クローゼットの奥から、使い慣れた頑丈なバックパックを引き出す。その特等席にいつも収まるのは、父親が生前使っていた、黒ずんだ軍隊下がりの飯ごうだ。
あちこちが凹み、幾度となく直火にくべられたせいで、全体が煤で真っ黒に汚れている。洗っても絶対に落ちないその汚れは、父親が、そして私が重ねてきた時間の年輪そのものだった。
日曜や祝日、都会の喧騒が限界に達すると、私はこの無骨な相棒を引っ提げて、誰の目も届かない山や川へと向かう。
お洒落なメスティンで炊く綺麗なご飯など要らない。
煤まみれの飯ごうでコトコトと炊き上げる、少しおこげの匂いが混じった一合の米。それと、夜の静寂さえあれば、私の心は完全に満たされる。
手元にあるチケットと、傷だらけの飯ごうを交互に見つめる。
相棒を置いていくのは少し寂しいが、都会の喧騒を離れるという意味では、海の上も最高の「オンリー」な空間かもしれない。
私はバックパックではなく、クローゼットから久しく使っていなかったスーツケースを引きずり出した。
2. 太平洋のファサード
数週間後、弦は東京湾の岸壁に立っていた。
眼前にそびえ立つのは、青空に映えるガラスと木材を融合させた巨大な建造物――東京国際クルーズターミナルだ。
「片持ち梁で大きく張り出した屋根……波としぶきをイメージした曲線か。悪くない構造だ」
多くの観光客がこれから始まる旅に胸を躍らせて記念撮影をする中、弦だけは建物の構造モジュールや梁の入り方に目を細めていた。職業病というやつだ。
だが、そのターミナルの背後に停泊している「スターライト・プリンセス号」を見上げた時ばかりは、流石にその圧倒的な質量に息を呑んだ。
それは十七万トンを超える洋上の巨大都市。
いざ乗船し、デッキから遠ざかる東京の街並みを眺めていると、エンジンの微かな振動が足の裏から伝わってきた。
「……やはり、基礎が浮いている構造物は落ち着かないな」
彼にとって船とは「水に浮いた不安定な鉄の箱」に過ぎない。しかし、携帯の電波が途絶え、完全に日常から切り離された洋上の時間は、思いのほか穏やかだった。
夕食後、退屈しのぎに船内のフィットネスジムの前を通りかかった時のことだ。
ガラス越しに、一台のランニングマシンが激しく駆動する音が聞こえてきた。
「……!」
弦は思わず足を止めた。
そこには、恐ろしいほどの躍動感をもって走る一人の女性がいた。
短く刈り込まれた美しい金髪が、彼女の激しい動きに合わせて踊る。彫刻のようにしなやかで、無駄のない強靭な筋肉。滴る汗すら、美的な計算のもとに配置されたアートワークのようだった。
女性――エレーナは、狂気的な集中力で自らの肉体を彫刻のように追い込んでいる。
ふと、彼女の鋭い視線がガラス越しの弦を捉えた。
弦は気恥ずかしさを隠すように小さく会釈し、その場を立ち去った。
それが、世界レベルのアスリートである彼女との、最初の一瞬の交錯だった。
3. 崩壊する構造
「――総員、退船基準を満たしました! 急いで救命ボートへ!」
「東京湾を出港して四日目の夜だった。」
けたたましい非常警報と、英語と日本語が入り乱れる絶叫が、暗黒の夜の海に響き渡る。
巨大な低気圧に捕まった客船は、巨大な波の一撃によって横転しかけていた。
船体が大きく傾斜する。重力に逆らえなくなったピアノや重厚な家具が滑り落ち、悲鳴とともにガラスが砕け散る。
「くそっ、傾斜角度はすでに三十度を超えている……!」
弦は手すりにしがみつきながら、崩壊していく空間の力学を脳内で計算していた。だが、自然の暴力の前に、人間の作った構造物などあまりにも脆弱だった。
足元が大きく跳ね上がる。
弦の身体は、氷のように冷たい漆黒の海へと投げ出された。
無慈悲な重力と水圧が、五十歳の身体を容赦なく海の底へと引きずり込んでいく。
酸素が消えゆく意識の淵で、弦の視界は完全に光を失った。
4. 砂上のモダニズム
「ゴホッ、ゴホッ……!」
肺に入った海水を吐き出しながら、弦は激しく咳き込んだ。
掌に触れるのは、湿った冷たい砂の感触。
生きている。
どうにか這い上がろうとしたが、世界がひどくぼやけていた。トレードマークの眼鏡が、荒れ狂う海に流されてしまったのだ。
「……おい、大丈夫か」
掠れた声で呟くが、返ってくるのは波の砕ける音だけ。
ぼやけた世界の中で、頭痛と闘いながら周囲を見渡す。そこは、切り立った巨大な崖が背後にそびえ立つ、荒涼とした無人島の砂浜だった。
その時。
ぼやけた視界の先、白波が砕ける水際で、何かが動いた。
すっ、と立ち上がる、人型のシルエット。
水濡れして頭部に張り付いた金髪が、わずかな陽光を反射して輝いている。
「……あな、た……生き、てる?」
拙い日本語、だが力強い声。
ゆっくりと近づいてくるそのシルエットは、あの船のジムで猛烈に走り込んでいた、金髪の女性アスリート――エレーナだった。
彼女もまたずぶ濡れで、息を切らせていたが、その瞳にはまだ生命の火がギラギラと燃え盛っている。彼女は周囲を鋭く見渡し、英語で早口にまくしたてた。
「風の匂いが変わった。巨大な嵐が来るわ。この開けた砂浜にいたら、高潮と暴風で一晩も持たずに海に引きずり込まれる。今すぐ高台へ避難するか頑丈なシェルターを作らないと……!」
パニックになりかけ、すぐにでもその辺の流木をかき集めようとするエレーナ。
「落ち着きなさい」
弦の低く、しかし芯のある声が、砂浜に響いた。
エレーナの動きが止まる。
弦は濡れたジャケットの砂を手で払いながら、ゆっくりと立ち上がった。視力が落ちてぼやけた世界の中でも、彼には「空間」と「重力」が見えている。焦っても仕方がないことを、長年の現場経験が教えていた。
弦は右手を差し出し、ゆっくりと、しかしはっきりとした英語で言った。
「まずは、お互い無事で何よりだ。拙い英語で俺は神崎−弦。職業は一級建築士だ。……君は?」
突然の紳士的な振る舞いに、エレーナは一瞬ぽかんとした。しかし、弦の落ち着き払った態度――五十年の人生と修羅場をくぐり抜けてきた大人の静かな余裕――が、伝染するように彼女の極度の緊張を解きほぐしていった。
「……エレーナよ。エレーナ・ウエスト。
二十五歳……アスリートよ」
ワイオミングの、見渡す限り荒野と馬しかいないような田舎から来た。
彼女は警戒を解き、弦の差し出した手を力強く握り返した。
「よろしく、エレーナ」
弦はかすかに微笑むと、表情を引き締め、足元の湿った砂浜を見下ろした。
「君の言う通りだ。嵐が来る。だが、その辺の木を適当に積んでも風圧(せん断力)で一瞬で潰される。少し待て」
「何言ってるの!? 時間がないのよ!」
言葉の壁が、二人の間に立ち塞がる。
弦は、ふうと深く息を吐き出すと、近くに落ちていた細い流木を拾い上げた。
そして、濡れた砂浜に、一気に力強く「一本の線」を引いた。
迷いのない、極めて直線的で、美しい線。
続いて、その線を中心として、交差する斜線、そして立体的なパース(完成予想図)を、砂の上に滑らかに描き出していく。
「……!?」
エレーナの動きが止まった。
砂浜に出現したのは、言葉の壁を越える、完璧な「建築図面」だった。
弦が描いたのは、ただの犬小屋のような小屋ではない。
背後にそびえる崖の、せり出した岩盤を主軸とし、重力と風を味方につける、美しく強固な「崖の上の空中シェルター」の設計図だった。
弦は眼鏡のない細い目でエレーナを見据え、砂の上の図面をトントンと叩いた。
「言葉は不要だ。お前のその超人的な肉体を、俺の『図面』に貸せ」
エレーナの美しい口元が、驚きから、やがて不敵な笑みへと変わっていく。
二人の「重力を支配するサバイバル」が、今、幕を開けた。
第二章へつづく




