第1話 海の見える駅で降りた金曜夜
この秋に資格試験を控えた30歳の会社員の直樹は、今夜も職場近くにある資格予備校の自習室の席を探していた。しかし、金曜の夜は、週末のわずかな空き時間を勉強に充てたい社会人たちで埋まっていた。月曜から木曜の夜なら寒いほどの冷房が、今夜ばかりは人の多さの熱気に負けている。
テキストの紙がパラパラとめくられる音、カリカリとノートに何かが書き込まれる音が、徳山駅近くの雑居ビルの一室に響いている。リスキリングに追われている大人は自分だけではなかった。
窓を通して光に寄ってくる羽虫が二匹、三匹と、ガラスにぶつかるように飛んでいる。その光景が直樹の溜息を深くした。結局、空いた席を見つけられないまま、がっくりと階段を降りた。
ファストフード店は青春真っ只中の中学生、高校生の笑い声が響き、かといって、大手コーヒーチェーン店も毎週行くには出費が痛い。
仕方なく、帰りの電車に乗り、自宅がある岩国方面へと向かう。携帯用の一問一答の参考書を片手に、オーディオブックを聴く。一分一秒のスキマ時間も有効に使おうとするが、山陽本線の単調な揺れは、一週間の疲れが溜め込んだ睡魔を招いてくる。
直樹の体が、電車の動きから少し遅れて左右に動く。帰路の中間にある柳井市を過ぎたところで、手に持っていた参考書を落としてしまい、イヤホンのコードに引っかかって、両耳が引っ張られる。
慌てて、電車の床に落ちた参考書を拾い上げ、口からこぼれそうになった涎を間一髪堰き止めた。
「まもなく、大畠、大畠です。お降りの際は足元にお気をつけください。」
車内にアナウンスが流れる。このあたりは、目前に海が広がっているはずだが、外の風景を包む闇夜と、窓に反射した車内の様子が邪魔をして、その様子は見えなかった。
「そういえば、このあたりに最近気になるお店があったな。このまま帰っても夕飯を作る気力はないな。」
スマートフォンの検索欄に「大畠 ドライブイン」と打ち込むと、午前零時まで開いているようだ。評価を表す星は5.0がつけられているが、肝心の口コミの内容や写真が載っていない。一応、食事はできるようだが、メニューなどの情報も無いため、怪しさしか感じない。それでも、お腹のあたりが、グーグー鳴っている。このままだと、胃のあたりの調子が悪くなりそうだ。重い腰を上げて、十数年ぶりに大畠駅で降りることにした。
最近リニューアルしたばかりの大畠駅。海沿いにある木造のレトロな駅舎は、ノスタルジーを感じさせるものから、半年ほど前にモダンな風貌に変わっていた。情緒ある風景から近未来的な雰囲気へ、無人の駅にも時代の波が押し寄せている。
乗降客がまばらな駅舎を出て、潮の匂いを感じながら、国道188号沿いに歩いていく。どのようなお店なのか期待と不安を感じながら、むくんだ足を引きずるように、遠くには瀬戸内海のおだやかな波音、それを時折かき消す車の通過音。それらを耳にしながら夜道を歩いていく。
数分ほど進むと、駐在所が見えてきた。脇道へ入っていくと、踏切が見えた。大畠の夜空に響いていた、カンカンカンカンという音がちょうど止まり、遮断機が上がった。左手奥のほうに、欄干がところどころ、煌々と輝いている歴史ある架橋、大島大橋が見えてきた。その先には周防大島の漆黒のシルエットが浮かび上がっている。
さらに歩みを進めていくと、ついにお目当てのドライブインが見えてきた。「ふれあいドライブイン」と書かれたネオンサインが屋根に乗っている。大きめの窓から暖色系の照明の光が漏れてくる。その前には乗用車で五十台ほど停められそうな駐車エリアが広がっていた。時刻はまだ二十時を過ぎたところ。夜は更けてきたものの、まだまだ、深夜には遠い。それなのに、駐車エリアには、中型のトラックが一台ポツンと停まっているだけだ。その光景は不気味だったものの、近づくにつれ、アメリカンダイナー風の外観がはっきりと見えてきた。少し勢いをつけて、扉を開けてみる。
カランコロンと昔風の喫茶店にありそうなチャイムが頭上で響く。入口に入ると、ふわっとコーヒーの香りが漂ってきた。ボサノヴァ風のBGMに、天井に取り付けられた扇風機の羽がゆったりと回転していた。
しばらく立ち尽くしていたが、中央のバーカウンターのほうから
「いらっしゃーい!」と声が飛んできた。
「お一人様ですかー? お好きな席にどうぞー!」
よく見るとバーカウンターを挟んで、奥のほうが店主らしき女性、見た目は五十から六十代くらい。手前のほうには、キャップを被った、長髪の小柄な女性が座っていて、コーヒーカップを手にしている。一瞬、こちらを振り向いたが、すぐに視線を外した。
玄関から入って、すぐにテーブル席があった。
「すみません、一人なのですが、ここのテーブルでもいいですか?」
「どうぞ!この時間はお客さんが少ないので、どこでも座ってください。メニューお持ちしますね」
ネットの情報では得られなかった、メニュー表が手元に運ばれてくる。茶色の分厚いカバーが、昔ながらの喫茶店を思わせる。中を開くと、フィルムで覆われた文字と写真が次々と出てくる。メニューには、サンドイッチやフライドポテト、チキンナゲットなどの軽食が並んでいるが、ページをめくっていくと、「定食」の文字が目に入ってきた。唐揚げやハンバーグといった肉系はもちろんのこと、海の近くならではの、魚のバター焼きにも惹かれたが、地元の高森牛を使ったスタミナ焼き定食を頼むことにした。このご時世に八百円で済んでいるのは、ありがたい。少しベルトが汗ばんだ感じの腕時計を見てみると、幸いラストオーダーまで、十分前というタイミングだった。
「高森牛のスタミナ定食、お願いします。」
「はい!スタミナ定食ね。お客さん、今日は魚汁もサービスするよ。ゆっくりしていってね。」
直樹は安堵したのと、ラッキーな気分で、思わずにやついていた。
一瞬また、バーカウンターのほうから視線を感じたが、客の女性は顔がキャップの影に隠れていて、表情を読み取ることができなかった。ジロジロ見るのも失礼だと思って、窓の外を見つめる。相変わらずトラックが一台、だだっ広い駐車場のど真ん中で停まっている。その向こうには、さっきまで乗っていた山陽本線の電車が通り過ぎていく。
「海側からの眺めって、こんな感じなのか……」と声にならないつぶやきをしながら、ぼーっとしていると
「はい!おまたせ、スタミナ定食ね。」
皿いっぱいに盛られた牛肉と玉ねぎがジュウジュウと音を立て、湯気が立ち上り、肉汁とタレが滑り出している。ほのかなニンニクが食欲をさらに盛り上げる。魚汁も出汁の香りで心が安らぐ。最近はコンビニの総菜やインスタントラーメンに頼っていた直樹にとっては、見てるだけで、ご飯を何杯もおかわりできるようなくらい、美味しそうに感じた。
普段一人で食事をするときにはやらない、「いただきます」の動作を手を合わせてやってしまった。箸がどんどん進む、久しぶりのまともな食事。時を忘れて、無言で頬張る。気づいたら、皿いっぱいに盛り付けられていた、高森牛のスタミナ焼きは跡形もなく消えていた。魚汁もお椀には骨だけがきれいに残されていた。
「ごちそうさまでした。」と再び手を合わせたところで、店主らしき女性がお冷のおかわりを持ってきた。
直樹は、「あのー、よければなんですが、ここで勉強してもいいでしょうか? 二時間程度」
「いいですよ、ご自由に使ってください。金曜の夜は、ほとんどお客さんがいないですから」
早速、カバンから分厚いテキストと問題集を取り出す。答えのページには、徳山にある動物園のマレーグマが写った絵はがきで覆う。ひたすら文章を読み、答える。ずっとその繰り返しだ。
時折、バーカウンターのほうから、笑い声が聞こえる。静かに集中できる自習室もいいが、多少ザワザワしているほうが、眠気が襲ってこないので、意外に勉強が捗ったりする。
ふと、テーブルに置かれたアクリル板のメニューが光ったように見えた。よく見てみると、夜9時以降はカフェバーに切り替わり、夜パフェなるものも出しているらしい。
直樹にも、甘いものが入る別腹がないわけではないが、先程のスタミナ焼きで満足している上に、眠気も襲ってきそうな気がしたため、とりあえず注文するのは保留にした。
間違えた問題の選択肢の解説を読むのは、普段は面倒だが、ここでは苦にならない。普段の金曜日よりは、進み具合が良い。時間を忘れて集中していたときだった。
「......で、うちのいとこ、下関って言ってるのかなと思いきや、下田だったらしくて、ウケるよねー、このままじゃ、違う大島のほうに行ってしまうところだったよ。やっぱり確認は大事......あっ! もうこんな時間になってる!」
女性客の声が店内に響いた。直樹が慌てて腕時計を見ると、午後10時を回っている。
終電が迫っているため、会計をしようとカウンター端のレジで、女性の後ろに並ぶ。女性はカバンをゴソゴソと手でかき混ぜていたが、財布が出てこないようだ。
「すみません、ちょっと時間がかかりそうなので、先どうぞ。」
「え? 大丈夫ですか。」
「はい、私、車なので。」
「ありがとうございます。」
急いで、会計を済ませ、店を出ようとしたときに、不意に口から
「ごちそうさまでした! また来ます!」と声が出た。
蒸し蒸しとした空気だが、ドライブインでの爽やかな空気が体を包んでいた。帰りの電車に乗り込むまではもつだろう。
足早に大畠駅へと向かった。




