第46話 閑話 氷の獅子は、その一頁だけを観る
本編完結、ありがとうございました。少しだけ番外編を。
今回は「氷の獅子」ジークヴァルト視点の、静かな夜のお話です。本編のどこか、新聖王国が落ち着いたある一夜。事件も戦いもありません。ただこの男が、腕の中の女をどう見ているか――それだけの話です。
夜というものを、私はかつて何とも思っていなかった。
昼の政務が夜の政務に変わるだけの、意味のない時間の連なり。氷の獅子と呼ばれた男に、眠るべき理由も、起きているべき理由もなかった。世界は私に何も与えず、私も世界に何一つ望まなかった。渇きすら覚えないほど、私は乾いていた。
その私が今、たった一つの寝顔を見下ろすためだけに、夜を明かしている。
新聖王国の離宮、その最奥。月光だけを灯りにした寝室で、エルセは私の腕を枕にして眠っていた。書きすぎた指を労わるように、彼女の右手はゆるく開かれている。銀のペンを握るための、細く白い指。この指先一つが、王国の魔法陣を沈黙させ、国庫を空にし、偽りの聖女のメッキを剥がした。
世界の理を綴る手。管理者の権能。――だが、そんなものはどうでもいい。
私が見ているのは、寝返りのたびに頬にかかる髪と、微かに上下する肩と、時折こぼれる寝言だけだ。世界がこの女を「神の指先」と呼ぼうと、私にとっては違う。これはただ、私の女だ。それ以上でも、それ以下でもない。
ふと、雨の夜を思い出す。
泥濘の中に、彼女は捨てられていた。あの愚かな第一王子ジュリアンと、光をひけらかすだけの偽聖女メリーナが、「記録など無能の力だ」と嘲笑って泥に投げ捨てた女。雨に打たれ、それでも背筋だけは伸ばしていた、痩せた影。
私はその時、生まれて初めて「欲しい」と思ったのだ。
滑稽な話だ。奴らは世界で一番の宝を、その価値も分からず泥に投げた。おかげで――拾えたのは私だった。あの夜、傘も差さずにぬかるみへ踏み込んだ自分を、私は今でも褒めてやりたい。氷の獅子の生涯で、あれ以上に正しい判断はなかった。
「……ジーク、さま……」
寝言だ。彼女は目を閉じたまま、眉を寄せて私の名を呼んだ。何か不安な夢でも見ているのか、私の衣を握る手に力がこもる。
「ここにいる」
私は低く応え、その髪を指で梳いた。安心させるように、けれど本音を言えば――離すつもりなど、端からない。
この女は時々、怯える。自分のペンがいつか世界を壊すのではないか、自分の幸せが誰かの犠牲の上にあるのではないか、と。優しい女だ。優しすぎて、自分を後回しにする。だから私が、代わりに傲慢でいてやる。
いいか、エルセ。お前が何を書こうと、書くまいと、世界がどう軋もうと――私の腕の中の温度だけは、私が保証してやる。神が世界を創ったというなら、私はその神を切り裂いてでもお前を奪った男だ。世界の全部を敵に回しても、私一人がお前を見ていれば、お前は消えない。
誰かがお前を「無能」と嗤ったその日、世界の価値基準など、私はとっくに信じるのをやめている。私が価値を決める。私の女は、世界一だ。それが真実だ。お前のペンで書くまでもなく。
彼女の指の力が、ふっと抜けた。悪い夢を抜けたらしい。寝息が、また穏やかなものに戻る。
私は上体をわずかに倒し、その額に唇を落とした。起こさぬよう、羽根よりも軽く。
――かつて私は、夜を何とも思っていなかった。
今は違う。この静かな一頁を、私は永遠に読み返していたい。数万の民の歓声より、数億の視線より、この寝息一つの方が、よほど価値がある。世界の誰が観ていなくても構わない。私が観ている。この女の瞬き一つ、吐息一つ、肌の温度一分一厘まで、私がずっと、観ていてやる。
それが、氷の獅子が世界に唯一望んだ、たった一つの我儘だ。
「……おやすみ、エルセ」
月が傾く。夜はまだ長い。
私は腕の中の温もりを抱え直し、明けるのが少しだけ惜しい夜を、静かに味わっていた。
ジーク様、本編ではずっと「独占欲の暴走」ばかりでしたが、番外編くらいは静かに甘やかしてもらいました。
派手な戦いも、システムとの決戦もない、ただの一夜。でも、この男の“渇き”の正体が少しでも伝わっていたら嬉しいです。
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