七
『バイトが終わる時間、カフェから見える公園のベンチで待ってる』
昼頃にそんなメッセージをもらい、午後はずっとそわそわして過ごした。まだ何時間も前なのに気になって、しきりと窓の外に彼の姿を探してしまう。
図書館の閉館は午後五時。カフェもそれに合わせて店を閉め、清掃作業へと移る。松浦が現れたのはそのさなかで、六時になるや、ナナは着替えて建物を飛び出した。
「松浦さん!」
走り寄って「ごめんなさい、私……」と言いかけたのを遮り、彼は座るように促した。そしてナナに身体を半分向けてぺこりと頭を下げた。
「俺のほうこそごめん。会社に来てくれたんだってね。すっげえ怒られたよ」
「じゃああれ、受け取ってくれたの……?」
「うん。ありがとう。俺が気まぐれで作ってたバラがあんなにきれいな花束になって、すごく感動した」
その言葉に喜んだのも束の間、ナナは沈む気持ちを抑えきれずに尋ねる。
「転勤……するの……?」
「それなんだけどね。何から話したらいいんだろうな……やっぱり最初からかな……」
松浦は困ったように呟き、それから意を決したのか、ふうっと大きく息を吐いて一気に話し始めた。
「決まりが悪くて今まで言わなかったけど……実はね、ナナちゃんがカフェで働くようになってからずっと、可愛いなって思って見てたんだ。でも俺は三十過ぎたおっさんだし、向こうはどう見たって若い、絶対相手にされないって諦めてた。たぶん高校生だから手を出せば犯罪だって、自分に思い込ませようとしてた。
でも俺の存在だけでもアピールしたくて、ストローのバラを作って残していったりなんかして……あのね、飲み会とかであれ作ると結構女の子にウケるんだよ。だからナナちゃんに作り方を教えてって頼まれたとき、すごく嬉しかったけど、すごく恥ずかしくもあったんだ。下心で作ってたんだからね。
でもナナちゃん、『ゴミじゃない』って言ってくれて……あの時は、ホント、俺……ヤバかった」
「ヤバい?」
ナナが訊き返すと彼は慌てて先を続けた。
「と、とにかく、あのことがあってから、ナナちゃんのこと本気になった。途中からはわかってたと思うけど、ストローのバラ教えてあげるなんて口実だよ。キスして『好き』って言ってもらえた時は、このまま死んでもいいって……いや、死んだらまずいけどさ」
松浦の告白をナナはずっと胸をドキドキさせながら聴いていた。憧れのストローのバラの人がそんな風に思ってくれていたなんて信じられない。
「でもいつも気がかりが頭から離れなかった。俺の会社、全国に事業所があって転勤が多いんだ。一年間の長期出張なんてこともある。だからなるべく身軽でいようと思って、本は図書館で借りることにしてるんだけどね。
ここにはもう三年いるから、『秋には覚悟しといて』って上司からも言われてて、俺が遠くに行ったらナナちゃんはどうするだろう、すぐに忘れていつでも会える男を好きになるのかなって不安だった」
表情を暗くしてそう語る彼からは、「十年分の大人の余裕」などはまるで感じられなかった。そうさせていたのはやはり、考えもなしに口にしていたあの言葉だったのだ。
「ごめんなさい、あのとき私、なんにもわかってなくて……でも今はそんなこと思ってないから」
「いいんだよ。ナナちゃんが織姫と彦星の話をしたとき、そりゃそうだよなあって納得したんだ。……実を言うとね、昔、遠距離恋愛失敗したことがあってさ。『側にいてほしい時にどうしていてくれないの』なんて泣かれても、俺どうすればいいのってお手上げ状態になった。その時はまだ結婚は考えてなかったから、『なら別れよう』ってあっさり。俺も結構冷たかったと思う」
そんなことがあったのか……
不思議な感覚がナナの身体の裡に生まれていた。かつて気持ちを傷つけ合う経験をした彼。そのことを真摯に語る彼を、ぎゅっと抱きしめてあげたくてたまらなかった。
「でも今はもう俺もいい歳になったし、また失敗したくない。ナナちゃんを連れて行くって手もあるって自分を励まそうともしてみた。でも嫌がるんじゃないかって思ったらすごく怖くなったんだ。
そのうち転勤の話が持ち上がっていよいよ待ったなしになって……ナナちゃんを俺のものにしたら手放せなくなるのは確実だったから、うかつに手も出せないし。正式に辞令が下りた時にはもう……すごい苦しかった」
「……どうして私が嫌がるって思ったの?」
「ナナちゃん、地元から出たことないだろ?」
「そんなの!」
まるでナナの気持ちを低く見積もられているようで不満が口を衝いて出た。すると松浦はその気持ちがどこまで本気なのかを確かめるように、地元を出るデメリットを次々と挙げていった。
「知り合いが誰もいない土地で暮らせる? いくらネットで繋がった時代だって言っても、家族や友だちは近くにいないんだよ。言葉や食べ物や風習も違う。ナナちゃんの好きなお祭りにも出られない。それにせっかく慣れてもまた引っ越しが待ってる」
「でも松浦さんがいるじゃない!」
それが何よりも大事なのに。
たとえナナ一人がここに残っても、今頃何してるだろうとか、ちゃんとご飯食べてるかなとか、風邪引いてないだろうかとか、きっとそんなことばかり考えて過ごすに決まっている。
「それに松浦さんは私のことばかり言うけど、自分だったら向こうで一人ぼっちでも構わないって言うの?」
松浦はそれを聞くとナナの手を取ってすっくと立ち上がった。
「来て」
「え? どこに?」
「いいから」
そのまま引っ張って公園を突っ切り、駅の方角へと向かう。どこに行くのかと再び訊いたが、「すぐにわかるよ」と教えてくれなかった。
やがて商店が並ぶ通りに差し掛かったところで彼は急に足を止めた。
「ちょっと待ってて」
入っていったのはフラワーショップ。一分もしないうちにまた出てきて、ナナのもとに近づいてくる――その腕に花束を抱えて。
「一日早いけど、誕生日おめでとう」
差し出されたのは目にも鮮やかな真っ赤なバラの花束だった。ナナは胸を震わせながらそれを受け取り、言葉もなく目の前の人を見上げた。
「ナナちゃんに『嘘つき』って言われたまま終わるのが嫌だった。だから誕生日までに戻るつもりであっちの仕事片付けてきた。明日はちょっとムリだから、どうしても今日渡したくて」
バラの数は二十二本でってさっき頼んでおいたんだけど、ちゃんと合ってるよね?
そう言って数を数え始めた彼に、どれほど感動しているかをちょっと恨みがましく伝えてみる。
「……ずるい。いつもはハワイ時間のくせに」
すると松浦は急に真面目な表情になって、二人が新しい未来へ踏み出すための決定的な言葉を口にした。
「すぐにとは言わない。でもいつか、遠くない時期に、俺のところに来てくれる?」
ナナは返事をしなかった。代わりに、心配そうに答えを待つ彼に向かってまるで脈絡のない話をし始めた。
「今ね、図書館に七夕の笹の葉が飾ってあるの」
「え? ……うん」
「願い事を書いた短冊がいっぱいぶら下がっててね」
「うん」
「私も叶うといいなあと思って願い事を書いたんだけど……何て書いたと思う?」
まるで要領を得ない様子の彼。ナナはその耳元に唇を寄せてそっと囁いた。
「彼が転勤先に私を連れて行ってくれますように」
松浦は雷に打たれたみたいにビクッとして、とっさにナナを抱きしめようとした。が、花束が邪魔であることに気づくとその手を掴み、またもやぐいと引っ張って歩き出した。
「行こ」
「え? 今度はどこに行くの?」
さっと振り向いた顔が悪戯っぽく笑っている。
「ナナちゃんが行きたがってたところだよ」
たちまちナナは頬を染め、それから「……うん」と小さく頷いた。
少しずつ暗くなっていく上空では、雲が切れて晴れ間が顔をのぞかせていた。
最後までお読みいただき、ありがとうございました。