源平の争乱②
都生まれの義経は木曽義仲と違い、都人に人気があった。気を見るに敏な朝廷の官吏たちは掌を返すようにして義経への追従を始めた。
この頃になると、高階経章が平氏の一門であることを吹聴する者が現れた。噂は瞬く間に広まった。源氏の郎党に見つかれば何をされるか分かったものではない。経章は身の危険を感じた。
追い討ちをかけるように、朝廷から俸禄差し止められた。源家に追従する何者かが、言い立てたに違いない。俸禄を止められてしまえば、都での生活は成り立たなくなってしまう。
「何と無体な!」と愚痴を繰り返していても事態は変わらない。
経章は気を落ち着かせようと文机に向かい墨を磨ってみた。何時もなら文机に向かって墨を磨っているだけで、不思議と気持ちが落ちついた。だが、今日はいくら墨を磨っても気が晴れなかった。
ついに決断すべき時が来たことを思い知らされた。
胸に湧いたどす黒い雲霞が、心を蝕みながらじわじわと広がって行く。庭から頬を撫でながら通り過ぎてゆく春風が湿気を含んでおり、京の暑い夏がもう直ぐやって来る。
経章には泰章という兄がいた。
蒲柳の質の経章と違い、同じ腹から生まれた兄弟かと思われるほど粗暴で剛毅な兄だった。血気に逸る兄、泰章は当然のように平氏一門と行動を共にしており、今もどこかで源家と戦っているはずだ。他に頼るべき身寄りはない。戦は無理だが、泰章を頼って落ち延びるしかなかった。
元服前に都の大路で喧嘩を売られた相手を素手で絞め殺し、悪大弐と渾名された泰章だったが、虚弱な弟、経章には何時も優しい兄だった。陣中であっても経章を邪険に扱わないだろう。また、高階家の総領である泰章は周防の国に猫の額ほどの荘園を有していた。当面、そこで暮らしても良い。
経章は下男の逸造を呼び、泰章への文を託した。気が利いて身のこなしが素早い逸造なら、戦火の中、泰章に文を届けてくれるはずだ。
一ノ谷の戦後、屋島に寄る平氏は徐々に勢力を挽回させており、山陽道に出て鎌倉方の御家人を襲っていた。悪大弐・泰章は山陽道でのゲリラ戦に参加し、大いに武威を張っているという噂だった。
戦火の中、逸造は駆けた。そして無事に経章の文を泰章に届けた。
文を読んだ泰章は「心配無用、早々に落ち延びて参られよ」と返書を認めた。逸造は再び戦火をくぐり抜け、返書を都に持ち帰って来た。
「でかした。逸造!」
経章は逸造の手を取って喜んだ。
経章は泰章を頼って落ちて行くことにした。都落ちに当たり、ひ弱な身体以外に、もうひとつ経章の心を悩ませていることがあった。それは最近娶ったばかりの美しい妻、賢子のことだった。
貧乏貴族の娘として生まれ、早くに両親をなく、世捨て人のように暮らしてきた賢子だ。経章以外に寄る辺はない。無論、経章との関係を断ち切ってしまえば、もともと平氏の縁者ではない家柄だ。平氏一門と見なされることはないだろう。一人で都に留まることができた。
経章は美しい桜の木に導かれるようにして賢子と出会った。平氏がまだ都落ちをする前年の春のことだった。
断れぬ歌会があり、滅多に外出することがない経章が外出した。案の定、途中で体調を崩して早々に退席することになった。
帰り道、経章は廃屋のような館の庭に鎮座する見事な桜の木を目撃した。
そのあまりに見事さに目が釘付けになった。不思議と体調は回復していた。経章は導かれるように、崩れ落ちた白壁の隙間から庭に入り込んだ。
天を圧するかのように枝を張り、見事に花を咲かせていた。経章はただ無心に桜を愛でた。
「もし、どちら様であらせられましょうか?」
経章は賢子と出逢った。
童のような婢女と身を寄せ合い、賢子は怯えながら、庭に佇む経章に声をかけてきた。その可憐さに、輝くような美しさに、一瞬で恋に落ちた。
庭先に侵入してきた不審者を訝しんだ賢子だったが、「空き家と勘違い致した」、「誠に申し訳ない」と平身低頭、無断で館に侵入してきたことを詫びる経章を笑って許した。そして経章に煎茶を振舞った。
経章は賢子と並び立、時間が経つのを忘れて、桜花が舞い落ちるのを楽しんだ。
賢子との出会いは運命に思えた。経章は毎日のように賢子に歌を贈った。恋心を歌に詠み、贈り続けた。
やがて、賢子より返歌が来た。
「春霞 たなびく山の 桜花、見れどもあかぬ 君にもあるかな」
紀友則だ。春霞たなびく山桜を見飽きないように、あなたとはいくら逢っても飽き足りないという意味の恋歌だ。
経章は舞い上がった。
賢子の住いは雨露をしのぐのに精一杯の廃屋のような屋敷だった。婢女と二人で暮らすにはあまりに不用心だった。経章は賢子を掻き口説き、我が家に引き取った。妻が夫の家に同居する嫁入婚は、当時、貴族の間では珍しかった。だが、経章は気にしなかった。賢子を独り占めにしたかった。
賢子は婢女一人を連れて、経章のもとにやって来た。
端くれとは言え高階家は平氏一門だ。これからという矢先に、落ち着く間も無く都落ちとなると賢子があわれだった。賢子の美貌だ。都に残れば懸想する者が現れるだろう。
経章は都落ちのことを切り出せないでいた。だが、状況がここまで切迫してしまうと伝えない訳には行かなくなった。




