第二話
司馬懿、字を仲達。河内郡温県孝敬里の人。
司馬氏は代々高官を輩出している、後漢のなかでも名門中の名門の家系と言える。
その先祖は項羽と劉邦が覇を競った時代、その時期に殷の王を務めた男まで遡る。言ってしまえば王族の子孫であり、その誇りは数百年経った今でも着実に受け継がれていた。
現在の当主である司馬防もまた誇り高く、その誇りに見合わせた能力を持った人間であり、祖父や父親と同じく高官まで登り詰めた人間である。
その彼の、八人の子供――全員の字に『達』が付き、全員が非常に優秀であったことから後の人々に『司馬八達』と呼ばれた子供達もまた、彼と同じく、もしくはそれ以上に優秀な人間であった。
その中でも特に司馬防が目を掛けていた物はと言えば、その子供の中でも唯一の男子であり、一際才も飛び抜けていた、長男――司馬懿であろう。
一を聞いて十を知り、一を見て十を覚える。年が十もいかぬ頃には既に四書五経、孫子、孟子といった殆どの有名どころの書物は諳じることが出来、碁を打たせれば大人に石を置かせるほど。
麒麟児だと司馬防をして言わしめ、彼自身の姉妹達をこれは勝てぬと感服させた彼は、間違いなく時代の傑物の一人であった。
そして、そんな彼が仕官先を探す際に、同じく英傑たる曹孟徳を選んだことは、ある意味運命とも言えるかもしれない。
英雄は英雄を知る、という言葉がある通り、司馬懿は曹操の能力を非常に高く判断していた。
人脈、政治力、先見性、判断力。君主として必要な能力を高い水準で持ち合わせていた曹操は、自分が主君として戴くに相応しい人物だと、司馬懿は曹操にただならぬ関心を抱いていたのだ。
それ故に彼は、成人を迎えると直ぐ様曹操のもとへと仕官して。
彼女と、そして彼女の周囲に集まるであろう綺羅星のごとき人物達と共に国を動かす自身の姿を夢想しながら、文官の一人として仕事に精を出していた。
それから一年ほど、後。
――――曹操は未だ、彼の名前すら知らない。
陳留の城にある、非常にこじんまりとした部屋。
人が三人も入れば狭く感じるであろう程度のその部屋は、下っ端から少し上程度の文官に与えられる、個人用の執務室である。
武将用のものと比べて明らかに小さなそれは、机と椅子を置いてしまえばろくな空間も残らない、仕事をするためだけの部屋であり。
ヒラの文官から見て、その部屋を任せられるというのは確かに出世の証ではあったが、四六時中仕事と向き合わさせられる――仕事以外の何物からも隔離されるそこは、ある種の拷問部屋と言って差し支えなかった。
つまりそこは、現代風に、率直に言ってしまえば、“窓際”。
何らかの理由で出世を阻まれた人間が次々に左遷される、人間のゴミ箱のような執務室である。
その執務室の中に、司馬懿という人間はいた。
「……」
すらすらと、筆を動かす。
ひたすらに無言で、眼前の木簡へと一心不乱に筆を走らせる。
彼が処理しているのは、仕事として与えられた、大量の書類。
各部署で出た雑務を書類として纏めたものであり、内容自体は簡単なものが多いのだが、種類が多岐に渡るが故に、全てを終えるには時間がかかる。
それでいて雑務であるが故に重要度はゼロに近い、労力に見合わないことこの上ない仕事であった。
普通の人間ならすぐに投げ出してしまいそうなそれも、司馬懿は表情一つ変えずに取り組むと、そのまま弱音も吐かずに仕事をしている。
それを一年弱繰り返しているのだから、彼の精神の強さは推して知るべしであろう。
そして彼が仕事を始めてから、三刻ほど経った頃。
ようやく動かしていた筆を止めた彼は、終わらせた書類を一纏めにすると、それを持って部屋の外へと歩み出た。
手の中に大量の書類を抱え、柔らかな表情をしながら歩く彼と廊下ですれ違った際の、人々の反応はおよそ二通りに分かれる。
「おや? 仲達殿ですか、相変わらず仕事がお早いですなぁ」
「ああ、伯寧殿。いえいえ、私などまだまだ……」
一つは、彼に好意的なもの。
仕事を労ったり、他愛ない世間話を振ったりとその内容は様々ではあるが、彼と顔を合わせて嫌な顔をしない人間はそれなりにいた。
多くは男の文官、武官がそうで、特に下っ端の人間は殆どが彼に好意的、あるいは中立的である。
彼が同僚の男達に対して上手く立ち回っている、という面ももちろんあるのだが、閑職に回された彼に対しての同情があることが、その理由としては大きい。
が、勿論と言うべきか、彼にとって好意的な人々ばかりではなく。
「――――おや、キミか」
もう一つの反応は、彼に否定的なもの。
表面的には人それぞれではあれ、その心内では彼に唾を吐きかけるような人間は、確かに存在していた。
「……子桓様。これはこれは、真に奇遇ですね」
「ああ、そうだね仲達。本当に奇遇だ。
下っ端のキミとボクが出会うことなんてそうそうないし、前に会ったのは――だいたい十日くらい前だったか」
そう考えると久しぶりだ、と。そう言ってにこりと彼に笑いかけたのは、一人の少女。
絹糸のような金髪を肩口まで伸ばし、藍色を基調とした衣服に身を包んでいる。
パッチリとした目からは未だ幼さを感じるものの、身に纏う雰囲気はその幼さすら覆い隠す、どこか覇気すら感じさせる重厚なものだった。
彼女の態度は一見、友好的で。彼に向ける表情は柔らかな、親しみすら醸し出すような笑顔である。
それに対する彼もまた、朗らかな笑顔を浮かべていて――――
「ははは、そうですね。私に用事でもあれば違ったのでしょうが……まあ、しょうがありません。
今の役職では、上の方にお目通りする機会すらほぼありませんから、ね」
――――しかしその目は、全く笑っていなかった。
嫌悪、というわけではない。むしろ何の感情も表れていない、無感情の瞳。黒い硝子玉のような一対の目を、司馬懿は彼女に向けている。
それを受けた彼女はじっとその目を見つめ返し、浮かべた笑みを崩さぬまま、彼と視線を混ぜ合わせ続けた。
「おや、そうかい? なら早く出世したまえ、仲達。君がボクやお姉様の支えになってくれる日を、ボクは心待ちにしているんだから」
「いやいや、私などが、畏れ多い……」
「謙遜するなよ、キミ。ボクはキミの才をちゃんと理解しているのだから」
「ははは。それはそれは、ありがたいことです」
共に笑顔で、穏やかな内容の話を、交わしている二人。
事情を知らない人間から見れば、友人同士の語らいにも見えるかもしれない。
しかし見る人が見れば、それは中身のない、上っ面だけの友好であることが容易に見てとれるだろう。
事実、彼女は「ああ、でも」と前置くと、司馬懿に今度は意地悪げな笑みを向けて、
「キミが出世したとしたら、同僚との関係の改善が大変そうだね。
なにせ、“どうしてだか”この軍の武将達は、殆どがキミのことを嫌っているみたいだから」
その言葉を耳にした途端、司馬懿の口は思わず、真一文字に噛み締められていた。
司馬懿は、確かに曹操軍の武将達、彼にとっての上司達に嫌われている。
内政を任され、文官達の頂点に位置する少女、荀彧。
曹操に昔から付き従う親類であり、その武によって将軍の地位を任せられている姉妹、夏候惇と夏候淵。
まだ子供ながらも、一騎当千の武を誇るが故に曹操の親衛隊に配属されている少女達、許緒と典偉。
その他色々な武将がいるが、その殆ど――率直に言って女性の武将のほぼ全てが、司馬懿に良い顔を向けることはない。
彼が何をした、ということはないのだ。少なくとも彼自身には覚えがないし、彼が彼女達に初めて会った時から既に、彼女達から敵意や警戒心を向けられていた。
廊下で偶然会った際には無視されるか、ごみ溜めに沸く蛆虫を見るような視線に晒されるか、あるいはわざと肩をぶつけられたりする。
仕事で顔を合わせた際には最低限の対応はしてくれたが、それすらも嫌になったのか、閑職に回されてからは彼女達に会うような仕事は全く回ってこなくなった。
どう考えても、彼を鼻つまみものにしている、ということがよく分かる対応である。
いったい何故、このような状況になっているのか。その理由はわざわざ推測せずとも、以前に武官の一人が罵倒の最中に口にしていた。
その言葉を聞いているがため、彼は笑顔を浮かべながらも内心、熱く怒りをたぎらせていて。
「いや、彼女方との間に、どうにも誤解があるようでしてね。誰に吹き込まれたのか知りませんが、私についての根も葉もない悪口を信じていらっしゃるようなのです」
「おや、そうなのかい? それはいけないな、随分とその犯人に嫌われているようだ」
「ははは、まったく。何かした覚えはないのですが……困ったものですよ」
そう言って軽く溜め息を吐いた司馬懿の視線は、相も変わらず、眼前の少女へと注がれている。
それは言葉にしないまでも、明らかに意思を込められた、彼女に対して自身の意思をぶつけるものであった。
それ、即ち。
――お前の仕業であろう、と。
「まあ、人の噂なんていずれ消え去るものさ。キミが真面目な仕事を続ければ、きっと彼女達も自然に誤解を解くんじゃないかな」
「そうだといいのですが、ね。荀彧様なぞ私を見た途端に罵詈雑言を並び立てるものですから、早いところ誤解を解いてくだされば嬉しいのですが」
「……彼女は、ほら、あれだよ。別にキミに対してだけじゃないから」
しかし、彼の意思に気づいているのか、そうではないのか。彼女は特に反応を示すこともなく、他愛もない彼との会話を続けた。
三分ほどしてからだろうか、会話が切れた時を見計らうと、司馬懿は「ああ」と思い出したように口にして。
「御仕事の途中に、長話を申し訳ない。子桓様もお忙しいでしょう、話はこれまでということで」
そう言って一礼した彼に、彼女も「ああ」と一つ頷くと、軽い別れの挨拶を告げた。
その場で一礼したまま、彼に背を向けて去って行く彼女の後ろ背を、じっと見つめる司馬懿。
その目は先程の無感情なものとはうってかわって、彼女に見られる心配がなくなったからだろうか、内心に抱いていた敵意を微かに滲ませていた。
やがて彼女の姿が見えなくなった頃、ようやく顔を上げた彼は、くるりと周囲を見渡して。
「――――――ッ」
彼女と歩いているうちにやってきたのだろう、険しい表情で彼を睨んでいる少女がいることに、彼は視線を受けて気がついた。
その少女は、彼のいる廊下と中庭を挟んだ、反対側の廊下におり。
彼に近づくでも、声をかけるでもなく、ただただ厳しい視線を向けている。
彼女は彼に対して否定的な人間の一人であり、尚且つ先程の少女に心酔していた。
自らが慕う上司と、多くの人間に嫌われている人間が親しく――少なくとも表面上は――話しているように見えたのが気に触ったのだろう。
少女が去るまでは敵意を抑えていたようではあるが、少女の姿が見えなくなった途端に敵意は膨れ上がり、針のような視線となって彼にぶつけられている。
「……」
対して、彼はうんざりだとばかりに溜め息を吐くと、彼女から視線を逸らして。
何か反応することもなく、元々向かおうとしていた書類の提出先へと、彼女を無視する形で歩みを進めた。
するとさらに敵意が強まるのを感じたが、彼は足を止めずに、早々とその場を立ち去る。
やがて彼女の視線も感じなくなった頃、彼はふと空を見上げると、もう一度溜め息を吐いて。
『――――風は程立、字を仲徳と申します』
昨日出会った、この職場に仕官するという少女。
彼女もいずれ、自分に先程のような視線を向けるのだろうかと、そんなことを考えた。
主人公の現状説明と、伏線を張るための回。
え、突っ込みどころ? それ伏線ですし(震え声)