59.ハルと薔薇のひと(10)
あまりに夢見がひどくても、商人は朝が来ればいつものように目が覚める。ハルも同様、重い空気を引き摺りながら朝焼けが始まった頃、台所へ立った。
いくら王子殿下の申しつけとはいえ、孤児院へ行ったのは間違いだったと認めざるを得ない。"稀代の大魔術師の夢"以上に、もっと最悪な夢を見た。実際にこの身が受けた現実だから余計に性質が悪い。
無造作に黒髪をおだんごにまとめ、朝焼けを眺めてため息をひとつ。
「……いつまで引き摺ってるんだか」
エプロンをつけて両手で頬を軽く叩く。小気味良い音が響いて、ハルは目をしっかりと開けた。
「――――――って、わあっ!?」
そして、さらに目の前に置かれていた箱の中身を見てますます目を見開いた。
「たっ……卵?」
ずらりと整列した赤茶色の殻をした卵。一面12個。
「はっ、まさか」
ハルはすっと目を細め、真ん中の卵を慎重に取り出し。
「……二段構え。いや、待て」
赤茶色の卵の下にも、可愛らしい湾曲を描いた薄紅色の卵があった。多少、目を輝かせ、けれども思い至った仮説に若干、口元をひきつらせる。
ハルはさらに周辺の数個の卵を取り出し、薄紅色の卵の面積が大分出たところでゴクリと喉を鳴らした。そっと狙いを定めたその一個に手を伸ばす。
「――――――!!!!!」
12×3段。
平底の鉄製のあまり深くないフライパンをあるだけ並べて、パイ用に保存していた生地を綺麗に敷き詰めた。
「ええ、犯人は大体わかってますとも!」
この屋敷にある最大のボウルにガシガシと一段目の赤茶色の卵を割っていく。ほぐして、牛乳をどぼっと加え、先に炒めて冷ましたマッシュルーム、しめじ、しいたけとほうれん草、あまっていたチーズ3種類を残すことなく投入。さらに泡だて器で混ぜ、生地を敷いたフライパンに流し込む。
パチリと音を立てた薪ストーブに振り返り、ハルは口元を引き攣らせた。
「卵ばっかり、どうしろっていうのよーーーーっ!!!」
早朝。
両手にそれぞれフライパンを持って、王城の端正な庭園を何度も往復するメイド服の少女がいたと奇妙な噂がたったのは言うまでもない。
「あはは。でもキッシュ、とても美味しかったですよ」
「おかげで12個消費できました。レイン様は、限度を知らないんですか」
木刀を芝生に置き、爽やかな笑みを湛え、クラウドは鍛錬場の片隅の芝生にちょこんと正座した地味なハルの隣に座った。今日も鍛錬場では悲惨な光景が広がっていた。もはやハルも慣れたもので、それを冷静に眺めている。
三つ編みのおさげに瓶底眼鏡。濃紺のワンピースといつもの恰好でクラウドを出迎えれば「今日はイルルージュ王子が急務だそうで、お休みだそうです」とのこと。早朝からキッシュ作りに精を出していたハルは特段やることがない。それを知ってか知らずか、クラウドが「お見苦しいかもしれませんが騎士団の練習でも見学しますか」と誘ってくれたので、朝からずっと隅の木陰に陣取っている。
クラウドは指導役をレインと代わったらしい。悲惨な光景は今にも無残な光景と化しそうだ。
「どちらかといえば、限度を知らないのはレインの養父母殿の方だと思うけど……でも全部レインを思っての事だからね」
「……養父母?」
「あー……まぁ、知られた話ではあるけど、やっぱり本人から聞いた方が良いと思うから。ごめんね」
「……聞かなかったことにしておいた方がよさそうですね?」
ばつの悪そうな表情でクラウドは両手を合わせる。
「クラウド様は間違ってません。本人の知らないところで流れる噂など良いことはありませんから。それでやっぱりあの卵はレイン様のご実家から?」
「昨日届いてました。受け取って蓋を開けた瞬間、レインが固まってたからどうするのかと思ってたけど。まさか全てハルさんのところへ持っていくとは」
一歩間違えば義理の息子への嫌がらせと捉えかねないところを、ソラマメ同様、レインが"飽きた"以外に思っていないとすれば、レインの養父母は彼にとって信頼できる人達なのだろう。
「……うらやましい」
『ありえないけれど』もし、孤児院へハルを迎えにくる者がいたのなら、違っていたのだろうか。暗く冷たい、悲鳴と嗚咽の上がる扉の中で過ごすことはなかったのだろうか。
「クラウド交代」
低い呟くような声にハルは胸が飛び出しそうになった。
黒髪の青年がドサリとハルの隣に腰を下ろす。一応上司なのにぞんざいな扱いを受け、クラウドの口元が微かに引き攣った気がしたが、彼は木刀を手にするとハルに律儀に挨拶をして、すでに無残な姿となっている部下の元へ軽やかに走って行った。
「レイン様。卵、ありがとうございます。が、多すぎますよ。他に持って行くところはなかったんですか」
「ああ」
「『ああ』じゃありません。まだ24個もあるんですから!――――――ッた!レイン様っ」
ちらりと確認し、レインはハルの額を軽く弾く。
「卵ひとケースで元に戻るなら楽なものだ」
「……っは?」
「いい。なんでもない」
「はぁ」
シュネーリヒトは表情を変えないと噂されていたけれど、どちらかと言えば今隣に座っているレインの思考回路の方がよくわからない。
「ハル」
急に名を呼ばれてびくりと肩を揺らして、窺うように端正な無表情に振り返る。
「オムレツが良いと思う」
本当によくわからない。
真剣な顔で部下とクラウドの鍛錬を見つめていたと思ったのに、どうやら彼の思考は卵の行方だったようだ。
「……良いですけどね。っていうか、レイン様、ちゃんと王城の食事も食べてます?確か、今朝のキッシュをフライパンひとつ分食べてましたよね」
「もちろん。その分動いてるから問題ない。……あの馬鹿、癖直してないな」
思考の片隅に鍛練中の部下の様子もあるらしい。
「――――――ところで……何に気がついた」
……無理だ。やっぱりこの人の思考回路にはついていけない。
「なんの話です。卵と部下はどうしました」
「むしろ、卵と部下はどうでもいいが」
やはり"孤児院"のことだろう。このまま、知らぬ存ぜぬ気付かずで通してもよいが……じっとりと見据えた玉虫色は、それを許してくれそうにない。
「……一般的な意見ですよ?まず子どものいる施設にしては物がたくさんあるなと思いました。装飾品が華美なのも置物が無駄に立派なのも、元が子爵邸だからとのことでしたが。あとは聞きわけの良い子ばかりなんだと思いました」
「なぜ?」
「屋敷内の保存状態が良すぎましたし。それに一度も姿も声も感じませんでした。昼寝に勉強、小さな子どもには継続するのは難しいと思いますけど」
「あとは?」
「一面の花畑でしょうか。体を動かして遊ぶ場所ではないでしょうね。それに花の選択もあまり趣味が良い……」
「ああ、ソムニフェルムか」
それには驚いた。
「知ってらしたんですか!」
「両親が、特に母が詳しいからな……ハルは」
振られて言葉に詰まった。そのあたりは誤魔化しておけばよかったとすぐに後悔する。まさか『"魔術師"なんで』とは答えられない。
「りっ……料理人ですので。植物は大体」
「ああ、なるほど」
あと。一番胡散臭いと思ったのは。
窓に、防犯のためか補修のためかしっかりと板が打ち付けてあり、安眠のためにか暗幕が降ろされていたこと。
……そんなわけないし。つまり『監禁』じゃないかと思うけれど。
そして。
「……視線、ねぇ」
何度もそれを感じ、振り返ったことを思い出して、ハルは小さく呟いた。
読んでくださってありがとうございます。誤字・脱字等ありましたらお知らせください。引き続きよろしくお願いします!(H24.8.15二か所文言修正)