44.ハルと不遇の王(10)
リリアンベイリスの毎日は変わらなかった。
窓から差し込む光に一日の始まりを覚え、女が二食目の食事を運んできて夜を知る。格子窓から覗いた空の色も、ああそういえば随分日差しが強くなったとリリアンベイリスは女がカップに注いだばかりの水を啜った。
「ああ、そうだ」
質素な食事をベット脇に置いた女は、珍しくいつもとは違った動作をした。エプロンのポケットから何かを取り出し、食事のトレイに乗せた。不意に、横になったままのリリアンベイリスの生気のない顔を一瞥し「可哀相な子だよ」呟いた。
「エル王子殿下からお預かりものだ」
視線だけをリリアンベイリスは向け、初めて見るそれに僅かに目を見開いた。
王家の者が親書として使うシンプルでいて高貴な封筒と、それに添えられた一輪の花。女は封筒の端を破り、便箋を開く。"憐れみ"それだけのことだ。
「――――――親愛なるリリアンベイリス王子殿下。わたくしは現王弟の子、エルと申します。無知とはいえ、先日の浅はかな行為をどうかお許しくださいませ」
女はわざわざ口に出して読み終えると、丁寧にその手紙を仕舞い、リリアンベイリスの枕元に置く。そうして何事もなかったかのように小部屋を出て行った。
「――――――……え、ル」
ある日、また手紙がリリアンベイリスの枕元に置かれた。
久しぶりに窓の外は薄暗く、湿気を帯びた石の小部屋の天窓に雷光がきらめくのを、リリアンベイリスは珍しく楽しみながら見ていた。女はリリアンベイリスの口にミルク粥を何度か含ませ、水差しで水を与える。小さくむせたリリアンベイリスの口元を拭ってやり「ああ、そうだ」、そう言ってエプロンのポケットから手紙を取り出す。
「――――――親愛なるリリアンベイリス王子殿下。いかがお過ごしでしょうか。わたくしは、あなたをそんな処遇に追いやった現王と王妃、そしてわたくしの父上を恨みます。もし、わたくしが浅はかゆえ王城内の噂を真に受け、塔へと上がらなかったならば、リリアンベイリス王子殿下のことを知らずに生きていかなければならなかったことでしょう。この間お贈りした花は、リリアンベイリス王子殿下のお名前の薔薇です。一輪だけ薔薇園に咲いておりましたので、ぜひあなたにお渡ししたくて手紙をしたためた次第です。リリアンベイリス王子殿下、どうかお気を落とさず、どうか……」
女はカサカサに枯れ果てた一輪の薔薇の花を大事に取ると、読み終わった手紙の上に置き、静かに扉を閉めた。このころになると扉に鍵はかかっておらず、牢番もまた女と同じように不遇の王子に憐れみの目を向けていた。
「は、ナ?」
誰もいなくなった小部屋で、リリアンベイリスは久しぶりに口を動かした。長く伸びた銀糸の髪が背中に流れる。
初めてみるそれは、はな。花。ばら、という花だと彼は言う。
「エ、ル」
金髪の美しい少年が、自分に"贈る"と。
「リ、リアン…………――――――は、ナ」
自分の名前と同じ薔薇の花。
とうに枯れ果てたはずだった。
涙など存在を知らないはずだった。
けれど。
いつの間にそれは溢れたのか。艶をなくしたリリアンベイリスの皮膚に一筋の涙が落ちる。温かいそれに再びリリアンベイリスの眼から涙が零れ落ちた。
次の日。
リリアンベイリスは昨日よりもミルク粥を多めに食べた。むせるリリアンベイリスに女は苦笑いしながら「ゆっくりお食べ」とどこか嬉しそうにスプーンを運んだ。
しばらくたってある日。
リリアンベイリスは震えながらも手を自分の顔に翳した。
しばらくたってまたある日。
リリアンベイリスは震える手でカップを掴み、少しだけ持ち上げて水を口に入れた。
「エル王子殿下から、お花が届きました」
いつか見た淡い白に近い緑色の八重の薔薇。リリアンベイリスは女からその花を受け取ると、しっかり胸に当てた。爽やかな外の匂いがした。目を瞑ってそれを感じているリリアンベイリスに女は頬笑み、小部屋を去って行った。
これは枯れないだろうか。
美しく咲き誇ったままでいてくれるだろうか。
リリアンベイリスの心を占めた薔薇の花に、拍手と喝采が起こる。全身を熱いなにかが駆け抜け、リリアンベイリスは声を出す。
言葉も文字も知らない彼にとっての唯一。
鎮静の歌。
その声に反応してそれは大きく伸び始め、部屋中に蔦を伸ばしていった。蕾がつき膨らみ、そしてリリアンベイリスの歌に反応するように喜びさらに広がる。
どうかわたしが死ぬまでこのままで。
そう願い、リリアンベイリスはさらに歌う。
その光景を、部屋から声が聞こえたことに驚いた牢番が扉を開け見つけ、戻ってきた女がそれを驚嘆とともに見ていた。
しばらくして満開のリリアンベイリスの花に部屋は覆われ、中心部にいて歌っていたリリアンベイリスからは声が聞こえなくなっていた。
「申し訳ありません」
暗く遠いどこかで涙声が聞こえ、リリアンベイリスはゆっくりと目を開けた。目の前に大粒の涙を隠そうともせずに零しながら、それは嗚咽とともに謝罪を繰り返す。
「申し訳……リリアンベイリス王子殿下っ!お気づきになられたんですね!」
美しい珠玉の瞳に映る、痩せこけ屍のような自分に嘲笑を浮かべながらも、リリアンベイリスは、使い果たしたその魔術によってまだ火照る体を心地よく感じていた。しっかりと抱きとめられたエルの体からは迷いない謝罪とぬくもり。
「お体に痛みはありませんか、どこか痛みは……リリアンベイリス王子殿下」
静かにそっと触れられた手もまた。
エルからはただのひとつの憐れみも悪意もなく。
ただただそこにあるのは、リリアンベイリスにだけ向けられる愛情だけだった。
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