26.鎖のソー(ซ)【後編】
クルムが出ていったあと、スープパンも館長室を去った。
キアは、部屋の左手にあるカラの本棚のなかに入って眠り始めた。
ついでソーソー・ガムランが静かに唱える。
「……サーイ・サドゥー」
直後、ガムランの全身に巻きついていた黒い鎖の一つがジャラジャラと外れた。
続いてその鎖が槍のように動き、館長室の窓に突進する。
そのまま鎖は部屋の正面にあるはめ殺しの窓をすり抜け、左に伸びた。
しばらくたったあと今度は窓の右から鎖が現れる。
ここで右の鎖と左の鎖がからまり、ギュッと固定された。
ガムランは固定された部分を引っ張って強固にからまっていることを確認し――。
ゆかに投げ出されている鎖の先端を持った。
それをホーノックフーク(ฮ)の背中に近づける。
「失礼するよ、ラートリー」
「遠慮は無用」
ホーノックフークはすでに浮くのをやめ、灰色の机のそばに立っている。
上着の背面を左右にひらき、そこに刻まれた赤い字をさらす。
「ササッとわしの文字の中心に結ぶのじゃ」
「な……なんか照れるな」
了承を得たガムランがはにかんだ。
そしてホーノックフーク(ฮ)の文字に鎖が当たった瞬間、その周辺が銀色に光った。
「――よし、図書館塔とラートリーをつなげることに成功した」
ホーノックフークの背中の光が収まったところでガムランが息をつく。
「これで鎖が外れない限り、外に出ても危険はねーよ」
「ちょっと待った、ガムラン」
俺は少し不可解な点について質問する。
「鎖はゴーガイ・ディアオのいるところまで届くのか? いや……仮に届くとしても途中でからまったりしそうなんだが」
「その点は問題ねーよ」
ガムランがホーノックフークのひらいた上着の背面をそっと閉じる。つながれた鎖はホーノックフーク自身の背中に固定されているようで外れる様子がない。
「ボクの鎖はどこまでも延長できる。加えて、ジョットマーイのジャンク船みたいに外部からの視認と干渉を拒絶することも可能なんだ。一般の人たちには見えないしさわれないから迷惑にもならねえし、建物とかもすり抜ける。つーわけで気兼ねなく出発してきな」
「分かった。……あ、そうだ。念のため」
ガムランの目の前で俺は斥候の兵隊を呼び出す。
ラートが俺の右手の上でぼんやり光る。
「こいつはホタルの光に似た精霊だ。いつもは斥候を担当している兵隊なんだが、もし外出先で危険なことに巻き込まれたら鎖を伝わせてこのラートを君のもとに向かわせる」
「……ああ、安心しなよ、アーティット。そんときゃボクが対処する。あとオマエのピーにも鎖が見えるようにしておくさ」
「助かる」
ともあれ外出前の確認は終わった。
俺とホーノックフークとクマリーはガムランとキアを残し、館長室から退出する。
このとき、ホーノックフークの背中に結びつけられた鎖が俺の目からは見えなくなった……。
* *
下降気流に乗って図書館塔の一階まで移動し、あけっぱなしの出入り口から外に出る。
石畳を踏みつつ、サラサルアイのいる馬小屋に向かう。
途中でクマリーが悲しそうな目で俺に話しかけた。
「あのう、お兄さん……」
声を抑え、俺の右耳にささやく。
「さっきまでの話を聞く限り……ンゴーングー(ง)のリアンゲさんこそがスーンさんを殺した犯人だったんですか……」
「そうだな」
俺は前を歩くホーノックフーク(ฮ)の後頭部を見ながらうなずいた。
クマリーが震え声でささやきを続ける。
「しかもリアンゲさんも……すでに殺されたんですよね……」
「やつは仲間を殺したんだ」
小声で俺は答える。
「当然さ」
「なんか……悲しいです。もちろんクマリーはお兄さんたちの決定に文句は言いません。ただ、お兄さん……」
クマリーが俺の右肩に両手を置く。
「お兄さんはスーンさんのかたきをとるという夢を達成したんですよね……。それなのに、どうして難しい顔をしているんですか……?」
「え……俺、そんな表情だったか」
俺は思わず、自分の顔を両手ではたいた。
「……いや、スーンさん殺しの犯人が死んでもスッキリしていないのは事実だな。殺したのはキアとはいえ本来俺は喜んでいいはずなんだ。それなのに、なぜかその気になれない。なにかまだ今回の事件に関して俺の知らないことがあるような気がする。だから大部屋に来ていなかった唯一の文字保有者……ゴーガイ・ディアオに会いに行くんだ」
「そのディアオさんこそが、なにか重大なものを握っているんですね……っ!」
「確証はないな。ただ、いそがしくて来られなかっただけかもしれない。いずれにしろホーノックフークに直接見てもらえば、はっきりすることだ。だろ? ホーノックフーク」
「まあ、そうだのう……」
ホーノックフーク(ฮ)はあまり話さず、俺の前をすたすた歩いている。
クルムに言われたことを気にしているのだろう……。
「ところでホーノックフーク。もしものときに備えて、キアも一緒に連れていくべきだったかもしれないな」
「それはせぬ。というか、できぬな」
振り向かずにホーノックフークが即答した。
「万一ゴーガイ(ก)と敵対することになった場合、ノーヌー(น)は確実に殺される。わしらと違ってノーヌーは自身が拘束されていても標的を暗殺する能力を持つからの。ゴーガイが事件の黒幕であったなら、ノーヌーを始末せんわけがないんじゃ」
「ディアオが黒幕だと俺は思ってないが……」
俺はホーノックフークのボサボサの銀髪に視線を這わせる。
「招集を無視したからには疑われても仕方ないか。しかし警戒するなら大人数で訪ねるという選択肢もあったな」
「そのほうはゴーガイ(ก)の真の強さを知らんようだのう」
ホーノックフークが首を後ろに倒し、俺を見た。
「あやつは文字保有者のなかでも最強格じゃぞ。まともに戦って勝てる可能性があるのは、すべてをなぎ払える剛力を持つヨーヤック(ย)と、あらゆるものの『かすみ』を作り出すソールーシー(ษ)くらいじゃろな」
「ゴーガイ・ディアオはそこまでの人物だったのか」
いや……まあ納得できることではある。
俺たちの使う四十二個の文字を羅列する場合、だいたいはゴーガイ(ก)の字を最初に書くことになっている。
そのゴーガイを有するディアオはいわば文字保有者の「筆頭」や「代表」とも言える。そんな彼が弱いなんてありえない。
「だったらディアオの前で中途半端に数をそろえても無意味だな」
* *
……こうやって話しているうちに、俺たちは薄茶色の馬小屋の前に着いた。
だがサラサルアイのいる一番奥の部屋に行く必要はなかった。
モーマー・サラサルアイが四つ足を折り畳み、小屋の出入り口のすぐ外でうずくまっていたからだ。
「ま~、待ってたぜ。アーティ、ピーのお嬢ちゃん」
サラサルアイは俺とクマリーを見上げたあと、ホーノックフーク(ฮ)に目を移した。
「……で、ラートリーのばあちゃんもおれに乗るようだな。なるほど……ガムランがばあちゃんと塔を鎖で結んでくれたんで、外出も問題ねえってわけだ」
「お察しのとおりじゃよ、モーマー(ม)」
ホーノックフークがひざをつき、サラサルアイの栗毛に老婆のような視線を送る。
「ゴーガイ(ก)のところまで、よろしく頼む」
「いいや。その要求は足りねえな」
ケタケタと笑い、サラサルアイが首をかく。
「おれがよろしく頼まれるのは――ディアオのもとを訪れて、ここに帰ってくるまでだ」
「ほっほ。モーマー(ม)は本当にいい子じゃの」
そう言ってホーノックフークがサラサルアイの背中にまたがる。
俺はホーノックフークの前に座った。ついで、ひざの近くにクマリーを呼んだ。
サラサルアイの見えない手綱をクマリーと握る。
ついで俺たちを背中にまたがらせたサラサルアイが野性味あふれる声を響かせる。
「んじゃ、おまえら、ゴーガイ・ディアオのところに行くぜ! おれは、においをたどるからよ!」
鼻をひくつかせたサラサルアイが俺たちを乗せたまま石畳を疾駆する。
ほかの通行人や馬車などの邪魔にならないよう、石畳の上を国の指定する法定速度で進んでいく。
後ろの図書館塔が見えなくなり、まわりに人がいなくなってから――サラサルアイが手足をとめずに口をひらいた。
「エーンのからあげ、さっき食ったぜ」
顔を俺に見せることなく、サラサルアイが続ける。
「プリアちゃんにスーンじいちゃんが無理に文字を刻んだんだってな。これを耳に、いや口にしたとき……おれは正直ショックだった。でもラートリーばあちゃんが確かめたことなんだろ? じゃあ、真実として受け入れるしかねえ」
「サラサ……」
俺は、ほかに言うべきことが見つからなかった。
サラサルアイが走りながら、少々自嘲的に笑う。
「へへっ……でも今のおれは、死んだスーンじいちゃんとどう向き合えばいいか分っかんねーんだわ」
「俺もだよ、サラサ」
手綱を強く握りなおし、ぽつりと俺は口にした。
「俺たちに文字を刻んだウォーウェーン・スーンは、本当はどんな人物だったんだろうな……」
次回「27.ニワトリのゴー(ก)【前編】」に続く!
今回出てきた単語の元々の意味は以下の通り
サーイ・サドゥー(สายสะดือ)→へその緒




