171.高子音字(ข ฉ ฐ ถ ผ ฝ ศ ษ ส ห)の十人【中編】
「ジウ。あなたは鱗山で俺に対して詠唱してみせたな。『ウィマーン』と」
トラニーを背負ったまま、俺はジウと歩調を合わせる。
「それはスカティの婚約者にして竜である『彼女』の名前と一致する」
ギンガー海域制圧作戦で出会ったスカティとウィマーンの情報については、すでに文字保有者全員に共有されている。
「天を意味する『ウィマーン(วิมาน)』自体は一般名詞。詠唱と彼女の名前がたまたまかぶったところで不思議じゃない。だからゴ・ナーム内部で俺はわざわざあなたに連絡しなかった。でも、こうして顔を合わせたからには念のため聞いておきたい。あなたはマンゴーンのウィマーンと会ったことがあるのか」
「ウィマーン自身は覚えていないだろう」
道の左右に広がる金色の稲穂を見やりつつ、ジウが答えた。なおウィマーンという言葉を単体で口にしているわけではないため、ソールーシー(ษ)の力は行使されない。
「小生はマンゴーンの王のもとで修行していたことがある。そのとき産まれたマンゴーンの姫に名をつけてくれと王に頼まれた。姫の美しい青い鱗を見た刹那、小生の頭には『ウィマーン』という名が降りてきた」
「あなたはウィマーンの名付け親なのか」
「さよう。しかし小生はそれ以降ウィマーンと顔を合わせていない。小生の知るウィマーンと貴公たちの会ったウィマーンが同一のマンゴーンであるとも限らないだろう。そして小生が詠唱の言葉に『ウィマーン』を選んでいるのは、そう名づけたマンゴーンの力にあやかるためだ」
「今、唱えてみてくれないか」
「ウィマーン」
薄桃色のかすみが出現し、それが巨大な手に変じた。
(確かに、よく見るとマンゴーンの手に似ている)
手に捕らわれた俺はトラニーを背負ったまま二十メートほど上昇し、かすみの足場に着地した。
足場のへりから真下に目をやり、パイロとクマリー……そしてジウの顔を見る。
「コープクン。いろいろ追及したようで悪かった、ジウ。もう下ろしてもらっても……ん?」
言葉を切り、俺はとっさに真上へと視線を移した。
直径二メートほどの分銅が頭上にいきなり落ちてきたのだ。
よけようとしたが、体がまともに動かない。
見ると、オレンジ色のミツバチが俺の左手の甲を刺していた。
(ルディのミツバチ……!)
なんとかあお向けに倒れ、背中のトラニーを直撃から守る。
(この分銅は蓋の形状にも似ているな。ロップか!)
分銅の表面が俺の顔面や腹部にふれる。
しかしまったく痛くない。
心地いいクッションに押されているような感覚である。
(อย่างนี้นี่เอง(ヤーンニーニーエーン)〔そういうことか〕……アーナージャック・グレープの入国審査が存外甘かったのは、すでにルディやロップが防衛網を敷いていたからだな。現在発動しているのは上空から侵入を試みた者に対するトラップ。だが敵兵を一人も殺すなとカヤンに指示されている以上――)
即座にパイロが動こうとしてくれたのが分かったが、その前に俺とトラニーの真下に大きな袋が出現した。
(これはトゥアムの)
袋には空気が詰まっているようで、激突の衝撃は感じられなかった。
トラニーを下敷きにしないよう、俺は腹側を真横に向けている。
「平気か、トラニー」
「むにゃあ……ぽよぽよしてて気持ちいい~。ほどよい圧迫感も最高……んっ」
上の分銅と下の袋に挟まれた状態で、トラニーは寝言を返した。
そんな俺たちに、浮遊状態のパイロが声をかける。
「アーティット、トラニー。貴方たちにケガは?」
「ないよ。ただミツバチに刺されたせいか、俺の体がほとんど動かない」
「……すまないトータハーン(ท)」
申し訳なさそうにジウが言う。
「不用意に小生が力を使ってしまったせいで」
「いや、俺が頼んだことだ。あなたは悪くない」
「と、とにかくクマリーたちで、このおっきな蓋みたいなものをどかしましょうっ」
クマリーも助けてくれるらしい。右人差し指を宙で動かす。
チョーチン(ฉ)とソールーシー(ษ)を交互に書いてパイロとジウを強化しようとした。
が、その場合どちらの体も中途半端に光ってしまい、あまり意味がないように見える。
ジウが杖で分銅をつつくと、たちまち分銅全体が薄桃色のかすみと化してあたりに散った。
さらに俺の手の甲からミツバチが飛んで逃げようとしたが、パイロの一対のチンに挟み込まれて捕らわれた。
ジウが鐘のイヤリングを出してルディに連絡を入れる。
「ポープン(ผ)か。上空のトラップにかかってトータハーン(ท)が動けなくなった」
『あ、ジウ。ごめん。トラップについては僕から事前に伝えておくべきだったね』
しっとりとした少年の声がイヤリング越しに響く。
『今から体のしびれをとるミツバチをアーティットのもとに向かわせる』
「頼む。それとチョーチン(ฉ)がトータハーンを刺したミツバチを捕らえたが、そちらはどうする」
『食べなよ。よごれとかは常時落としてるから』
「……そういえば貴公のミツバチの体はハチミツでできていたな」
ルディとの通信を切ったジウは、その内容をあらためて俺やパイロに伝えた。
ハチミツでできたミツバチとはいえ、さすがにパイロは食べるのをためらった。
しかしミツバチはオレンジ色の体を震わせて飛び、パイロの口のなかにみずから飛び込む。
これでパイロも動けなくなるのではと俺は心配したが……そんなことはなく、彼の真鍮色の瞳は幸せそうにたるんでいる。
(ハチミツが好きなのか。なんていうか……かわいいな。ちょっとドキッとしてしまった。これも俺の知らなかったみんなの新たな一面と言える)
ここで軽快な足音と共に、籠もったような少女の声が近づいてきた。
「おうおう、みなの衆。おそろいでなによりじゃないか」
桜色の髪と瞳を持つ彼女は、トートゥン(ถ)の文字保有者トゥアムである。
黒いオーバーオールスカートの隙間から、自身の腹部にある育児嚢に両手を突っ込んでいる格好だ。
「ジウくん、パイロくん、クマリーくん、トラニーくん、アーティットくん。これはご機嫌うるわしゅう」
そうしてみんなとあいさつを交わすトゥアムだったが、相変わらず彼女は自信に満ちている感じがする。
続いて、俺とトラニーが載っている空気の詰まった袋を見つめた。
「なかなかのものじゃないかい? 上空からの敵に対してはルディくんのミツバチで動きをとめたうえでロップくんの分銅で真下に押しやり、最後はわたしの袋でふわりと受けとめる寸法さ」
「体験してみて分かったよ。これなら殺さずに相手を無力化できるな」
俺は袋の上で横向きに倒れたまま感想を述べた。
本当のことを言えば後ろから執拗に背中をなでまわしてくるトラニーをなんとかしたくもあるのだが、今はなにもできない。
それほどまでに、ルディ・ロップ・トゥアムの張ったワナは強力だ。
クマリーがトゥアムのまわりをぐるぐる飛行する。
「トゥアムさんトゥアムさん、今のトゥアムさんのお体は本物のお体なんですかっ」
「いいやクマリーくん。この体も本体じゃないのだよ。やっぱり遠隔操作で動かしているんだ」
本体を隠してダミーを操作する点で言えば、ロージュラー・エーンにも似ている。
「さてみなの衆。久しぶりに会ったことだし、誰かわたしの育児嚢で休んでいかないかね」
「では小生が」
まさかジウが進み出るとは思わなかった。
トゥアムは笑顔でうなずき、オーバーオールの隙間を両手で広げた。
育児嚢の内部に刻まれた赤いトートゥン(ถ)をさらして唱える。
「サット・ミー・グラパオ・ナー・トーン」
比較的長めの詠唱だ。
するとジウの体が浮き上がり、少しずつ小さくなった。
服や杖も共にサイズを縮ませており、ジウはそのまますぽんとトゥアムの育児嚢に飛び込む。
(ヨムと戦ったあと俺もそこに入れてもらっていたが、そのときもこんな感じで入ったのか)
「……やはりこのなかは素晴らしいな、トートゥン(ถ)」
「そうだろうジウくん。ニウフアメーくん的に言えば魔力が高まるって感じじゃないかね」
慈愛を感じさせるまなざしでトゥアムが育児嚢内のジウを見下ろしている。
そうこうしているうちに、ルディのよこした新しいオレンジ色のミツバチがやってきて俺を刺した。
急に動けるようになったので、俺はトラニーを背負いなおす。
俺たちの下にあった袋から空気が抜ける。
その袋は溶けるように消えた。
このタイミングでルディから「ミツバチについていくように」という指示があったので、俺たちはオレンジ色の小さな体を追って道を進む。
* *
ミツバチは、白くて大きな石造りの建物に俺たちを案内してくれた。
そのあとはクマリーの口に入ってみずから消化される道を選んだ。
俺たちはグレープ国の兵隊に迎えられ、大部屋の一つに入る。
室内では、黄土色の髪と瞳を持つ少年――ルディが待っていた。
手を振って俺たちにあいさつする。
「来たんだね、みんな」
小柄な彼は左ほおにポープン(ผ)の字を刻んでいる。
黄色と黒を基調とする服が特徴的だ。黄色のスカートと黒い長ズボンを組み合わせたようなボトムスにも個性がある。
「アーティット。僕のミツバチが刺してしまったようで、あらためてすまなかったね」
「むしろ刺されてよかったよ。ルディたちのトラップが文字保有者さえも封じるものであると身をもって理解できたから」
事実このトラップを利用すれば、敵兵を一人も殺さずに勝利するという夢物語の実現に一歩近づくだろう。
そしてルディの近くに、水色の髪と瞳を持つヤーンロップが待機していた。
フォーファー(ฝ)の文字保有者であるロップは、左右非対称の体を有している。
ロップに右耳はない。その部分は髪で隠れている。
左半身のほうがやや大きく、肌が露出している面積も大きい。
右腕には袖があるが左腕はノースリーブ。
左のわきの下にフォーファー(ฝ)の文字を刻んでいる。
「……どうも、みんな。あの、わたしもがんばりますので」
骨に響く冷たい声だ。
暑期に聞くと、より心地いい気がする。
「ついては……ちょっと一人一人、わたしの耳穴にささやいてほしい」
そういえば前にロップは声フェチを自称していたな……。
つまりロップは人の声にこだわりを持っているということだ。
さっそくクマリーがロップの左耳にふにゃふにゃしたささやき声を流し込む。
「お久しぶりですロップお姉さんっ。相変わらずおきれいですねっ」
「クマリーの声もさらに磨きがかかってる」
まるで笑いをこらえるかのように、ロップの左の口角が持ち上がる。
次は俺が呼ばれたので、俺もささやいておく。
これでロップの士気が上がるなら、作戦上重要な行為と言えるだろう。
「ロップ。君の仕掛けていた分銅はとてもよかったよ」
「いいですね、アーティット。本当にりりしい声……っ。ロップと呼んでくれるのも幸せ」
ロップはまた同じ表情を浮かべている。
そのあとはパイロやトラニーのささやき声にも耳をかたむけて顔を赤らめていた。
それぞれの声には、それぞれのよさがあるらしい。
ここで、新たな人影が部屋に入ってきた。
「ほわ~、ワタシ遅れちゃったかなあ」
「そんなことはないさミーくん」
トゥアムが真っ先に返答した。
「今は準備の段階だ。そしてミーくんの食料はわたしが確保する。さっそく石炭、食べるかい」
「コープクン、トゥアムちゃん。あっつあつなのお願いねっ!」
言うまでもなく戦争において兵糧の確保は絶対である。
シーフーハーターのミーとその食料である石炭を用意できるトゥアムはかなり相性がいい。
そんな二人が同じ高子音字組に属しているのは、偶然なのだろうか。
次回「172.高子音字(ข ฉ ฐ ถ ผ ฝ ศ ษ ส ห)の十人【後編】」に続く!
今回出てきたタイ語の元々の意味は以下の通り
ヤーンニーニーエーン(อย่างนี้นี่เอง)→なるほど
サット・ミー・グラパオ・ナー・トーン(สัตว์มีกระเป๋าหน้าท้อง)→有袋類/直訳すると「おなかの前面にポケットを持つ動物」になります。




