100.仙人のソー(ษ)
ワッタジャックのいた村を離れた俺は、イノシシの姿をした陸の兵隊の背に乗った。
パイロとの戦いで消耗していたボックも、俺の頭のなかで休んで充分に回復している。
クマリーを連れ、夜のなかを西進する。
村で休む選択肢もあったが、ワッタジャックを警戒して彼から遠ざかることにしたのだ。
(カードゲームで済ましてくれたとはいえワッタジャックもファの刺客だから油断はできない)
次第に勾配が急になってくる。
俺の前に座るクマリーが首を後ろにかたむけた。
「ちょっとした山みたいですね」
「ああ。近くに火山があるんだよ」
山の名前は「プーカオ・グレット」すなわち「鱗山」と呼ばれる。
この山には上半身が女性で、下半身が魚の姿をした精霊が生息している。
クマリーがまわりを見回し、息をのむ。
「わあ~、みんな楽しそうっ」
ボックに乗った俺たちの周囲で手の平サイズのピーたちが舞い踊っているのだ。
下半身は魚だが、彼女たちは宙を泳ぐことが可能だ。
鱗が淡く光っているため夜中でもよく見える。
だがその光のおかげで気づくことができた。
前方から薄桃色のかすみが漂ってきているのだ。
(このかすみ……覚えがある)
性別不詳の彼あるいは彼女の仕業で間違いない。
ディアオの体を乗っ取ったスーンが都市を攻撃したとき、そのダミーを作成して都市と住民を守ってくれた人物――。
「【ษ】ソールーシー・ジウ、つかさどる字は仙人のソー。いったん停止し、小生と話をしようか」
その中性的な声を聞くと同時に、俺はボックの前進をとめた。
小さなピーたちが見守るなかボックから下りる。
手を合わせ、あいさつする。
ジウの姿は以前会ったときと変わりない。
ひざまで伸びた薄桃色の髪。焦点の合っていない薄桃色の瞳。
年齢も性別も不明な中肉中背の体をおおうものは、ほとんどない。
胸と腰を浅黄色の布で隠し、小さな足を同色の靴に入れている。
先が二つに分かれた焦げ茶の木の杖を右手で立て、それに体重を預けているのも相変わらずだ。
「トータハーン(ท)……」
彼あるいは彼女のまわりに薄桃色のかすみが渦巻く。
「最初に明かしておくが、小生はこれから押し寄せる困難に対抗すべく、トートン・ファと共に貴公に試練を与えるべきと結論づけた」
「困難……リアンゲの縄から解放されたピーやヨムのことか」
焦点の定まらないジウの双眸を俺はのぞき込んだ。
「だからあなたも俺の前に立ちはだかるわけだな」
「さよう。少し戦おうか」
有無を言わさずジウが唱える。
「ウィマーン」
すると薄桃色のかすみがまとわりつき、まるで巨大な手のように俺を捕らえた。
明確な質量を有するかすみと共に俺は上昇し、気づいたら高度二十メートの空中に放り出されていた。
ただし薄桃色のかすみが足場となっているため地上に落ちることはなかった。
ボックは俺の隣にいるが、クマリーはそばにいない。
「トートン(ธ)が言っていたことは覚えているな」
ジウも俺と同じかすみに立ち、杖を足もとに突き刺す。
「同志たちが貴公の追跡を全力で邪魔すると彼女は口にしたはずだ。ゆえに小生も全力を出そう」
「ゲーンタハ――」
闘争の意思を感じ取った俺は「ゲーンタハーン・ロー」と唱えて左手の平から盾を引っ張り出そうとした。
だがそれよりもジウの詠唱は速かった。
「サンウーイ」
途端、俺の左手の甲が切れて血が噴き出した。
隣にいたボックの体も爆発し、薄桃色のかすみと化して空気中に溶けていく。
さらに手の甲の血もかすみに変じていく。
「な……」
「痛覚は殺してある」
ジウの薄桃色の瞳が光る。
「純粋に敗北を味わってもらうために」
「タハーン・ラート」
すかさず俺はホタルの光に似た斥候の兵隊を分裂させ、ジウを取り囲むよう命令した。
負傷した左手の甲にトカゲ姿の医者の兵隊を呼んだのち、唱える。
「プリアントゥア」
ジウを囲んだいくつもの光が消滅し、代わりの兵隊たちが現れる。
右にはコウモリのアーガート、左にはワニのグラジョーム、前には炎の小鳥のプルーン、後ろにはぼたん雪のようなユアック、真上にはシャチのルアがラートと入れ替わって出現した。
「ガーオラーオ・イン」
左手の平のトータハーン(ท)から弓矢を抜いたあと、斧と槍と剣を上に投げた。
タハーンに囲まれて逃げ場を失ったジウめがけて矢を射る。
さらに落ちてきた斧の柄を弓につがえ、引き絞り、飛ばす。
続けて反時計回りに走り、ジウの右後ろから槍を、左後ろから剣を撃った。
それぞれ石突きと柄の尻を弓につがえて矢のように発射したのだ。
ここでジウがつぶやく。
「サーグラ」
ジウを取り巻くかすみがまるで花のように散った。
全方位に広がった薄桃色が剣も槍も斧も矢もルアもユアックもプルーンもグラジョームもアーガートも巻き込み、併呑した。
次の刹那、タハーンたちも武器も内側から外側に向かって花火のように破裂する。
同時にジウの体も消え、俺の右肩にコツンと木が当てられた。
いつの間にかジウが背後に移動し、杖を突き出していたのだ。
とっさに詠唱しようとした俺だったが、そんな隙を与えずにジウが杖でたたいてくる。
俺の体からは血の代わりに薄桃色のかすみが飛び出した。
左脚も右脚も左右の腕も胴体も頭部の大部分もかすみとなり、それでもまだ俺は生きていた。
いや……よく見るとトータハーン(ท)が刻まれた左手はまだ残っているようだ。
(それにしても、ここまで手も足も出ないとはな。ディアオ、ナーグルアと並ぶ最強格の文字保有者なのは分かっていたが)
全身のほとんどがかすみとなった俺にジウが話しかける。
「完敗した味はどうだ」
「すがすがしくて悔しいな」
「ならばさらに強くなれる」
虚空を見つめて言葉を継ぐ。
「おのれの弱さを知らない限り、何者も強くなれはしない。次は小生にかすり傷の一つでもつけることだ。才能にあふれた貴公ならできる。สู้ๆ(スースー)〔がんばれ〕」
そのあとジウはあたりに散っていたかすみを手足のように動かして集めた。
俺の体のかたちに凝集したかすみが、胴体と四肢と壊れた頭部を復元する。
かすみになっていた俺のタハーンたちも、もとの姿を取り戻した。
やり終えた顔になってジウはうなずく。
「これでよし、では地上に戻ろうか」
「ありがとう。でも待ってくれ、あなたは重要なものを忘れている」
復元されたのは体だけで、当の俺は一糸もまとっていなかった。
「服だ」
「……なくてもよくないか」
「あったほうがいい」
「変わっているな」
衣服については認識の隔たりを感じるものの、ジウはすぐにかすみを再集結させて俺の黒い胴衣や赤い上着、黒いズボン、靴を復元してくれた。
* *
薄桃色のかすみの足場が高度を下げ、地上に降り立った。
魚の下半身を持つピーたちがなぜか俺とジウのまわりに集まってくる。
それからクマリーがジウとあらためてあいさつを交わす。
ついで手を合わせ、感謝を述べる。
「――ジウさん、あのときはありがとうございました」
「なんのことだ。小生には覚えがない」
「スーンさんがディアオさんの体を乗っ取って都市のみなさんを攻撃したとき、ジウさんのおかげで誰も死ななかったわけですよね。もちろんスーンさんに取り込まれていたクマリーも無関係ではありません。なのにこの前はジウさんにちゃんとお礼を言えていませんでした。だからコープクンですっ」
「そういう理由か。マイペンライ」
焦点の合わない目をクマリーに向け、ジウが少しだけ相好を崩す。
「ではそろそろ小生の文字を学ぶときだな」
かすみがジウの前に集中し、ษの文字をかたどった。
その薄桃色の字はジウの顔面ほどの大きさを持つ。
「小生のかすみは小生の一部。皮膚であり筋肉であり神経だ。ゆえにそのかすみに直接『仙人のソー』……ソールーシー(ษ)を刻んでいる」
「まさしく仙人ですっ」
宙に浮くクマリーの右人差し指がソールーシー(ษ)に当てられる。
今回は文字保有者だけでなくピーたちもその様子を見守っている。
まず左上に時計回りで小さい丸を書く。
丸の右側から線を下ろし、左下近くに来たら下に張り出す弧を引きつつ右に寄る。
そうして全体の右下よりも少し上に達したところで線をまっすぐ上げて右上でとめる。
ようするに、ここまではワッタジャックのボーバイマーイ(บ)の書き順だ。
ソールーシー(ษ)は一筆書きできない。
いったん筆……クマリーの場合は指を離してから中心に反時計回りで小さな丸を書く。
続いてその丸の下から線を出し、やや右上へと弧をえがく。
一画目の縦線を突き抜けたらその時点でとめる。
これでソールーシー(ษ)という子音字は完成する。
やはり宙に同じ字を何度も書く。
ちなみにあらためて俺は気づいたが、クマリーのウォーウェーン(ว)が覚醒を始めた今になっても文字の練習の段階ではその力は発動しないようで、文字保有者の体は光らない。
「ありがとうございました、ジウさんっ! なかにあいていたスペースにすう~っとかたちを忍ばせるところが、なんとまあ芸術的ですねっ。ところで」
「ソールーシー(ษ)は低子音のソーソー(ซ)とは違い、ソーサーラー(ศ)、ソースーア(ส)と同じ高子音だ」
「なんという先回りっ! 感謝します」
そしてジウという名前をクマリーが書くことになった。
「ジウさんのお名前は『ジ』と『ウ』に分かれるからテーラさんのジョージャーン(จ)とスーンさ……クマリーのウォーウェーン(ว)を使うんですよね。短い『イ』をあらわすためにピンイ(–ิ)をジョージャーンに載せてと……」
「スースーして(とてもがんばって)いるな。ただ、小生の名に含まれるジョージャーンにはとある声調記号を付加しなければならない」
「マーイエーク(◌่)ですか。それともマーイトー(◌้)でしょうか」
「マーイジャッタワー(◌๋)だ、ウォーウェーン(ว)」
そう言ってジウが杖で地面を引っかき、新たな声調記号を書いてみせた。
まず子音字の右上に短い縦棒を引く。
次にその縦棒をつらぬく短い横線を引く。
それで声調記号「マーイジャッタワー(◌๋)」は完成する。
「これをピンイ(–ิ)の上に載せればいい」
「了解しましたっ」
ジョージャーン(จ)、ピンイ(–ิ)、マーイジャッタワー(◌๋)、ウォーウェーン(ว)を順に並べ、ジウ(จิ๋ว)という名前をクマリーが宙に書き上げた。
「お名前の書き方を教えていただき感謝します、ジウさん。『マーイジャッタワー(◌๋)』がひときわ輝いて二つの子音字をみごとにまとめあげている感じがしますね~、ジウさんにふさわしい、とっても大きな雰囲気をかもし出しています!」
ジウという言葉の本来の意味は「とても小さい」なのだが、確かにジウ本人は大物で間違いない。
軽くほほえんだあとジウは俺から鐘のイヤリングを受け取り、進路を南西に向けた。
彼あるいは彼女は戦闘で俺に完膚なき敗北を味わわせて慢心しないように忠告してくれたのだ。その用をすでに果たしたということだ。
(俺もトータハーン(ท)を刻んでから、おごっていたのかもしれない。気づかせてくれて感謝する、ジウ)
* *
夜が明けて、グラジョームの腹のなかで一泊した俺はまたボックにまたがって山の斜面を進む。
(迂回する手もあるがこの先に文字保有者の誰かがいる気がするからな)
なお魚の下半身を持つピーたちは太陽が出たあとも姿を消さずに俺とクマリーについてきた。
(さすがにきのうとは別個体なんだろうけど)
すると前方から熱波が流れ込んできた。
そちらに向かうと、丘の上に湖があった。
ただの湖ではない。
赤い溶岩がたまり、グツグツと煮えたぎっている。
ここでまわりのピーたちが高い声で騒ぎ始めた。
彼女たちのあいだだけで通じる言葉を使い、溶岩の湖を指差している。
見ると、溶岩から青い大きな魚の尾びれが斜めに突き出していた。
しかもその魚は溶岩をものともせず、尾びれを左右に振って悠々と泳いでいるようだ。
次回「101.魚のポー(ป)【前編】」に続く!
ษ←これが「ソールーシー」の文字。意味は「仙人のソー」……ボーバイマーイ(บ)のなかにマーイハンアーガート(–ั)を置いたような形ですね~。
今回出てきたタイ語の元々の意味は以下の通り
ルーシー(ฤๅษี)→仙人
グレット(เกล็ด)→鱗
ウィマーン(วิมาน)→天上
サンウーイ(สังเวย)→生け贄にする
プリアントゥア(เปลี่ยนตัว)→交代させる
イン(ยิง)→発射する
サーグラ(ซากุระ)→サクラ
スースー(สู้ๆ)→がんばれ




