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98.モントーのトー(ฑ)【後編】

「……お兄さんっ」


 茶髪(ちゃぱつ)を揺(ゆ)らしてクマリーが俺(おれ)の胸に飛び込(こ)んでくる。


「お兄さんが戻(もど)ってきてよかったです、急に消えちゃったからクマリー、心配しましたよ……っ」

「ごめん、心配してくれてありがとう」


 足もとで、浅い川面(かわも)がピチャリと鳴った。


「ところでクマリーは、なにかされたりしてないか」

「いいえ。ハーチャお姉さんが一緒(いっしょ)でしたし」


 そう言ってクマリーがチャーイハートのほうを振(ふ)り返る。

 チャーイハートは腰(こし)の円盤に両手を載(の)せたまま、樺色(かばいろ)の視線を向かって左に向けた。


 そこに、今までいなかったはずの男が立っている。

 つやめいた漆黒(しっこく)の髪(かみ)と瞳(ひとみ)を持つ。


 性別は異(こと)なるものの、先ほどの空間内でカエルから転生(てんせい)した女の生き写しとも思える美貌(びぼう)だ。


 もみあげから伸(の)びた左右の髪は胸の下(した)にまで届いている。

 長身痩躯(そうく)であり、とくに首筋(くびすじ)がしなやかだ。


 上半身(じょうはんしん)をおおう服は白い織物でできている。

 胴衣(どうい)と外套(がいとう)を組み合わせたような格好だ。


 幅広(はばひろ)の半袖(はんそで)にも見えるが袖の内側は身頃(みごろ)にくっついている。

 服の背面からは外套のような布が垂れ、赤い裏地をさらす。長さは足首まで達していた。


 腰から下には緑がかった茶色の袴(はかま)をはいている。

 横には広がりすぎておらず、スラリとした脚(あし)のラインが分かった。


(チャーイハートが上流方向に俺たちを誘導(ゆうどう)したのは彼(かれ)と会わせるためだったわけか)


 装飾のない漆黒の靴(くつ)を前に出し、彼(かれ)が俺に近づく。

 川面を踏(ふ)んでいるにもかかわらず、まったく音(おと)が出ない。ただ波紋(はもん)だけが生じている。


 彼は一分(いちぶ)の隙(すき)もない所作(しょさ)で礼をし、慈(いつく)しむような声を落とす。


「【ฑ】トーモントー・ダーンナー、つかさどる字はモントーのトー。おまえは先ほどの世界をどう見た、トータハーン(ท)」


 漆黒の髪の男……ダーンナーの表情はまったく崩(くず)れない。

 口角(こうかく)が上(あ)がる様子さえ微塵(みじん)もない。


 ほぼ話(はな)したことのないダーンナーに俺はクマリーと共にあいさつしたあと、質問に答える。


「君が言っているのはカエルが乳(ちち)しぼりしたり人間の女性に転生(てんせい)したりする世界のことだよな」


 口(くち)ぶりから察するに、その世界を見せていたのは目の前のダーンナーで間違(まちが)いないようだ。


「あの世界を俺は、遠い昔のことのように感じた。知らない話であると同時に、どこか懐(なつ)かしさを覚えた」

「貴重(きちょう)な意見、感謝する」


 ダーンナーは無表情のまま、声を優(やさ)しく和(やわ)らげた。

 互(たが)いにしばしの沈黙(ちんもく)が訪(おとず)れたところでクマリーが口(くち)をひらく。


「すみません、ダーンナーさん」

「なんだ」


「アーティットお兄さんが言っているカエルのお乳しぼりとか転生とかって、いったいなんの話なんでしょう」

「オレの頭に降(お)りてきた世界の話だ」


 漆黒の瞳をダーンナーが向ける。


「当のオレにもそれがなにをもとにした物語か見当(けんとう)がつかん。ただトーモントー(ฑ)を刻んで以降、神話のビジョンが脳裏(のうり)に流れ込(こ)んでくる」


 妄想(もうそう)の産物と決めつけるのは早計だろう。

 慈しむようなダーンナーの声には少しも不安定なところがなかった。


「この神話の正体を突(つ)き止(と)めることがオレの目的だ」


 先ほど意見を求めたのも、演劇のかたちで神話を体験した俺の言葉がそのヒントになるかもしれないと思ったからだろう。


 クマリーが両手を胸に当て、浮遊(ふゆう)した状態でダーンナーに近づく。


「よければクマリーにも神話を見せてもらえませんかっ」

「できん。今のおまえがトーモントー(ฑ)の世界に入(はい)り込(こ)めば二度(にど)と戻(もど)ってこられない」


 わずかに身を揺(ゆ)らし、ダーンナーはハッキリ言った。


「オレはトートン(ธ)と協力するにあたってトータハーン(ท)の『精神力』を見ることにした。ゆえに神話の世界にいざない、強(きょう)じんな心でもってそこから無事(ぶじ)に脱出(だっしゅつ)できるかどうかを試(ため)したのだ。神話とは深い森。ウォーウェーン(ว)を真(しん)に覚醒(かくせい)させていない今のおまえでは足を踏(ふ)み入(い)れた途端(とたん)に迷子(まいご)になってしまうだろう」


「……ありがとうございます。ダーンナーさんはクマリーを心配してくれているんですね」

「心配はしていない。オレは面倒(めんどう)をさけているにすぎん」


 ここでダーンナーが左手の平をクマリーに向けた。

 赤いฑ(トーモントー)の文字が手の平――ではなく、中指の腹に刻まれている。


「要望をしりぞけたことでおまえに恨(うら)まれるのも面倒だ。代償(だいしょう)にオレのトーモントー(ฑ)をなぞれ」

「やっぱり優しいんですね、ダーンナーさん」


 礼を言ってクマリーが右人差し指をトーモントー(ฑ)に当てた。

 ほかの文字保有者の字よりも小さく書かれているため、クマリーの指の動きも最小限である。


 書き出しはチュアモーンのコーラカン(ฆ)やガムランのソーソー(ซ)と同じだ。


 まず左上よりもやや下(した)の位置で小さな丸を時計回りで書く。

 ついで丸の左側から線を持ち上げ、弧(こ)をえがきつつ右に寄る。


 途中(とちゅう)で右斜(なな)め下に方向を転換(てんかん)したあと、すぐに右斜め上へと軌道(きどう)を戻(もど)す。このときできる「へこみ」が丸の右端(みぎはし)の真上(まうえ)あたりに位置するといいだろう。


 さらに曲線を下ろしながらすでに書いた丸に近づく。

 丸よりも低い位置に来たあとは俺のトータハーン(ท)の書き順をなぞればいい。


 線をまっすぐ下へと引いて左下に達したら右斜め上へと直線を引く。

 全体の右上に届いたら一気(いっき)に線を下ろして右下でとめる。


 これでトーモントー(ฑ)は完成だ。


「とても高貴(こうき)な字ですっ! 左上のマークは神秘を思わせ、そのあとの流れるような軌跡(きせき)は気品をあらわしていますっ」


 自分の手の平ほどの大きさのトーモントー(ฑ)をクマリーが宙に書き始める。

 同時に俺は予想する。そろそろクマリーは「トーモントーの音はトータハーンの音と同じなんでしょうかっ」といった質問をするに違(ちが)いない……。


 果たしてクマリーは続いて口(くち)にする。


「そして見抜(みぬ)きましたよ~。トーモントー(ฑ)の音はトータハーン(ท)、トープータオ(ฒ)、トートン(ธ)の音とまったく同じ低子音(ていしいん)ですねっ!」


 いつもの質問をするかと思いきや、的確に文字を分類した。


「ふふ……クマリーは文字保有者のみなさんの発言から推理したんですっ。まずカヤンさんは『トータハーンとトープータオとまったく同じ発音で同じ声の出し方を持つ文字はあと二種類存在する』とおっしゃっていました」


 確かにクマリーがトープータオ(ฒ)を学んだあとカヤンがそんなことを言っていた。


「次にファさんが『自分のトートン(ธ)はアーティットお兄さんのトータハーン(ท)の音とまったく同じ』と言っていたことも記憶(きおく)に新しいですっ。よってトータハーン、トートン、トープータオは同じ種類の音に分類され……残るはあと一種(いっしゅ)。そこにダーンナーさんのトーモントー(ฑ)を当てはめたんですよー」

「でもクマリー」


 どこまで理解しているのか知りたくなって俺はあえて聞いてみる。


「トーの音を持つのはトゥアムのトートゥン(ถ)やレックのトーパタック(ฏ)やユアユのトータオ(ต)も同じじゃないか」

「ふふんっ、お兄さんがクマリーを試しているのは分かっていますよっ。トーパタック(ฏ)やトータオ(ต)は息を出さない『トー』ですが、トートゥン(ถ)は息を出す『トー』です。そしてトゥアムさんによると『トータハーンとトープータオは低子音(ていしいん)だけど、トゥアムさん自身のトートゥンは高子音(こうしいん)』とのことでした」


 自信満々に胸をそらし、クマリーが笑顔(えがお)で結論を述べる。


「低子音がなんなのかはまだ分かりませんが……以上のことからトータハーン(ท)、トープータオ(ฒ)、トートン(ธ)、トーモントー(ฑ)の四文字が同じ低子音であるとクマリーは確信したんですっ。よく聞いたらトーモントーも息を出すトーのようですし」

「すごいじゃないか、クマリー」


 心の底から俺は拍手(はくしゅ)していた。

 実はまだ、息を出す「トー」を示す字として「トーターン (ฐ)」の文字が存在するがトーターンはトートゥンと同じ高子音なのでクマリーが導き出した答えは正しい。


(トーモントー(ฑ)を学習した時点でクマリーが学んだ子音字は三十五文字。全四十二字のうち六分の五を達成したわけだ。ただ字を覚えるだけじゃなく、ちゃんと自分で考えて文字を分類することもできるようになったと思うと……熱いものが込み上げてくるな。なんなんだこの感覚は)


 ここで俺はダーンナーが俺をじっと見ているのに気づいた。


「トータハーン(ท)、おまえはなにを喜んでいる」

「クマリーの勉強が順調に進んでいることを喜んでいる」


 ウォーウェーン(ว)覚醒のために必要とかそんなことは関係なく、クマリーが文字を学んで世界を広げていくさまを見るのが楽(たの)しい。


(そういえば殺される前にリアンゲが「無垢(むく)な存在が知恵(ちえ)を獲得(かくとく)していくさまはとても素晴(すば)らしいもの」と言っていたな。俺もその意味が分かってきた気がする)


 あくまで無表情でダーンナーは質問を重ねる。


「他者を称(たた)えて喜ぶのか。おのれが褒(ほ)められたわけでもないのにうれしいのか」

「誰かに褒められると気分がいい。そして誰かを褒めるのもまた案外気持ちよかったりする」

「そうか、ならば――」


 ダーンナーがクマリーに向きなおる。


「素晴らしいな、ウォーウェーン」


 意外だが、彼が普通(ふつう)に拍手を始めた。

 これまで俺たちの様子を遠くから見守っていたチャーイハートもクマリーへと拍手をしている。


 クマリーは赤面して身もだえする。


「えへへ……っ、恥(は)ずかしいけどうれしいっ」


 そのあとはダーンナーがクマリーに名前の書き方を教える流れとなった。

 といっても今までの知識ですぐに書けるものだ。


 使用する基本的な子音字がドーデック(ด)、ノーヌー(น)であり、あとはドーデックと二番目のノーヌーに声調記号の「マーイトー(◌้)」がつくことを教えればいい。


(マーイトー(◌้)に関してはフルンフリン(ฟรุ้งฟริ้ง)の名前を書く際に学習しているからな)


 かつ二番目のノーヌーには声の出し方を変更(へんこう)する記号としてのホーヒープ(ห)すなわち「ホーナム」を添(そ)えることもダーンナーは伝えた。


 以上を押(お)さえただけで、クマリーは彼の名前を書ききることができた。

 長母音の「アー」をあらわすためにラークカーン(า)を使うことも忘れなかった。


 そして今までよりもさらに速いスピードでクマリーは「ダーンナー(ด้านหน้า)」としるすことに成功した。


 ダーンナー自身の左手の平に指をすべらせ、書いたのである。


「お名前を書かせていただき、本当にありがとうございますっ! ダーンナーさんの名前についてはホーナム(ห)を中心とした左右対称(たいしょう)のノーヌー(น)とラークカーン(า)の並びが美しいと思います。それでいて最初のドーデック(ด)も存在感を放(はな)っているのが絶妙(ぜつみょう)ですっ」

「それをスラスラ書けたウォーウェーン(ว)もたいしたものだ」


 表情は変えないものの、ダーンナーは慈しむような声で称賛(しょうさん)した。

 俺は彼に鐘(かね)のイヤリングを渡(わた)してから、こっそり聞く。


「ダーンナー。君はなぜファに協力を?」

「助けになりたかったからだ」


「もしかして昔、ファに助けられたことがあるのか」

「違(ちが)う。彼女が困っているから助けたいのだ」


「じゃあ今のところ君が困っていることは?」

「この機会に仲間の心のケアをおこなおうというわけか。だがオレにはトーモントー(ฑ)の神話の正体を突き止める以外に究極的な目的はない。差し迫(せま)った状況(じょうきょう)とは言えん」


 ここでダーンナーはちらりとクマリーを目に入(い)れた。


「しかしトータハーン(ท)、自分のためにも称賛を実行するおまえと会って少し見えた。神話とはただ受け取るものではなく、賛美されるべきものかもしれん。神話に対峙(たいじ)する者は神話そのものを賛頌(さんしょう)し、おのれ自身を陶酔(とうすい)に置く。そしてまた賛頌を始める。オレ自身はその盲信(もうしん)に懐疑(かいぎ)を挟(はさ)む。このサイクルこそが神話と向き合う際に必要とされると仮定してみよう。本来は自身に関係のない話が遠い昔のことのように懐(なつ)かしく思われるのも、その運動があってこそだろうな」


「……すごいな。俺だとそこまで考えきれない」


 言っている意味はよく分からないが、彼が自分の目的のために前に進んでいることは分かる。


* *


 ダーンナーとチャーイハートのいた川をあとにし、俺とクマリーはファを追ってまた西を目指す。

 神話の世界に引きずり込んで俺の精神力を測(はか)ったというダーンナーは、今(・)は(・)これ以上の測定は必要ないとして俺たちを行(い)かせた。


 二人と別れてからクマリーがなにかに気づいたように声を漏(も)らす。


「あ……ダーンナーさんに聞くのを忘れてました。トーモントー(ฑ)の『モントー』っていったいなんのことなんでしょう」

「俺もそれは昔から疑問だったけど、たぶん誰(だれ)かの名前だと思う」


 思えばトーモントー(ฑ)も特殊(とくしゅ)な文字だ。

 全四十二個ある子音字のうち四十一字はすべて一般(いっぱん)名詞を文字の名に含(ふく)む。


 たとえばゴーガイ(ก)だと「ガイ(ไก่)〔ニワトリ〕」を含む。

 トータハーン(ท)だと「タハーン(ทหาร)〔兵隊〕」を含む。

 ホーノックフーク(ฮ)だと「ノックフーク(นกฮูก)〔フクロウ〕」を含む。


 しかし子音字のなかのたった一字(いちじ)……トーモントー(ฑ)だけは一般名詞を含まない。

 モントー(มณโฑ)という固有名詞で構成される例外中の例外。


(ダーンナーは、その特殊な文字の保有者になったことをどう思っているんだろう)


 そこに孤独(こどく)を思うか、誇(ほこ)りを見いだすか――あるいは。

 トータハーン(ท)の文字保有者の俺には推(お)し量(はか)れない思いもあるのかもしれない。


* *


 ともあれ、ちょっとした林を抜け、小さな村に到着(とうちゃく)した。

 意外にも時間はそんなに経過していないようで、まだ日は沈(しず)みそうにない。


 だが、どこかに食事をとれる場所がないかと村を見回っているときだった。


 村の休憩所(きゅうけいじょ)のあずまやで休んでいる男が手招(てまね)きしているのに気づいた。


 俺とクマリーを呼んでいるようだ。

 こちらとしても知っている顔だ。彼が文字保有者の一人(ひとり)ワッタジャックであることはすぐに分かった。


 あずまやには正方形のテーブルとそれを囲む四つの長方形のベンチが取り付けられていた。

 ワッタジャックは左手にカードの束(たば)を持ち、右手でその一部(いちぶ)を抜いて上に置く行為(こうい)をくりかえしている。


(念入りにシャッフルしているようだな)


 カードとカードがこすれる音(おと)が風(かぜ)に乗って飛んでくる。

次回「99.葉っぱのボー(บ)」に続く!


ฑ←これが「トーモントー」の文字。意味は「モントーのトー」あるいは「モントー夫人のトー」……左上の部分がトータハーン(ท)よりも複雑なところが特徴ですね~。


今回出てきたタイ語の元々の意味は以下の通り

モントー(มณโฑ)→モントー夫人/『ラーマキエン(รามเกียรติ์)』の登場人物。ラーマキエンはインドの叙事詩『ラーマーヤナ』をもとにしたタイ文学だそうです。

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