【電子書籍3巻&コミカライズ1巻配信記念SS】
電子書籍3巻 コミカライズ1巻配信記念!
ハンネス視点の小話です。
「ベルタ」
呼ばれて、振り返る。
鈴の付いた髪留めが、チリリと小さく音を立てた。
艶の増した黒髪。肩に触れるほど伸びた毛並みは細く、指通りが良い。痩せこけていた頬はまだ十分ではないが、かさついていた肌は改善されている。
不格好だった制服姿も、ゆっくりと馴染んできていた。
ハンネスは小さな変化を確かめながら、振り返ってじっとこちらを見上げる紫色に笑みを返した。
外見が変化していっても、彼女の目は変わらない。
「ベルタ……何をしているんです?」
「花を見ていた」
学園の中庭。昼休憩。
伯爵令嬢に成り上がり、学食も利用できるようになったベルタは、癖なのか中庭に現れる。
「アレは食用ではありませんよ」
中庭の、食べられるらしい花が咲く花壇の前に。
にっこり微笑むハンネスから、ベルタはさっと視線を逸らした。
人と話すときは視線を合わせるベルタが、視線を逸らす。
それだけで後ろめたいと言っているようなものだった。
ハンネスは笑みを深めた。
ベルタは一歩後退った。
しかしいつの間にか腰を抱かれて逃げられない。
「ベルタ。あなたはどこの誰でしょう?」
「……ルンベック伯爵家の、ベルタ……です」
「伯爵家のご令嬢が、学園の中庭で、何をなさるおつもりで?」
「……しょ、植物観賞……」
「花を愛でるのは大変よろしいことですが、それだけお腹を鳴らしながらすることですか?」
「……」
ベルタの薄い腹からは、小動物が切なく懇願するような音が響いている。
「違う。違うんだこれは……」
「はい」
「前はこんなに可哀想な音とかしなくて」
「はい」
「最近は朝と夜にしっかりご飯が食べられるから、それが当たり前になっていて」
「はい」
「昼も、その、マルガレータ様やハンネス様とご一緒することが多くて、食べない方が珍しくなってしまって」
「はい」
「だから一食抜いたくらいでとても可哀想な音がするようになっただけで、慣れればならなくなるはずで」
「ベルタ」
「う」
「三食おやつ付きに慣れるべきです」
ハンネスの断言に、ベルタは猫のように目を丸くして硬直した。
これ幸いと、固まるベルタの腰を抱いてエスコートする。
勿論、学食へ。
「食事の時間は食事をする。そのための休憩時間なのですから、無駄にしてはいけません」
「……!」
そういえばそのための休憩時間だった、と言わんばかりの表情に、ハンネスは苦笑する。
この仔猫はまだまだ小さくて細いのだから、しっかり食育しなくてはならない。
齧り付くなら本ではなく、パンにして欲しい。
「本日もマルガレータ様がお待ちですよ。デザートにレモンパイをお持ちです」
「れもんぱい」
甘味の誘惑には勝てず、ベルタはソワッと浮き足だった。
高貴な友人や甘味を餌にしないと乗り気にならないのは相変わらずだ。少しは、婚約者の誘いに乗って欲しい。
しかし簡単に靡かないのが、ベルタなので。
(ゆっくり慣れてください)
このやりとりを繰り返し、日常にする。
警戒心の強い仔猫に近付くために、ハンネスは手間を惜しまない。
(でももっと、私のことを警戒してくださいね)
捻くれた狐はそんなことを思いながら。
いっぱいいっぱいの仔猫の手を引いて、高貴な虎たちの元へと誘った。