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6-8

 ――ヒロミの中で、何かが途切れたように感じた。


 婚約者クロード・バルローは、ヒロミのことを愛している。それは言葉でも幾度となく投げかけられてきたものだ。感情としても十分に伝わっている。しかし、それは必ずしも受け容れなければならないという類いのものでもないだろう。甘いのだろうか。贅沢だろうか。いや、愛情が決してそんな量的なものの手続きのように片付けられるべきではない。少なくとも、今のヒロミにとって、彼が送ったどんな愛の言葉も、そこにどれだけの物量が、どれだけの熱量が込められていようとも、それを理由に、だから嬉しい、だから私も愛している、と、そういった感情には繋がりようがなく感じられた。むしろその重みが伝わるがゆえに、許容し難かった。クロードからのビデオレターは、ヒロミの望むものとはあまりにもかけ離れていた。そう、望む、という思いと、相応の重みが、ヒロミにもあったのだ。


 分かってほしい、という、単純な気持ちなだけかもしれない。自分からはこの数ヶ月何も伝えていないのだ。それで互いに理解し合えるというのも虫がよすぎるだろう。身勝手なことは十分に承知している。理屈ではないのだ。ただ感情的に、どうしても、強い拒絶感が拭えなかった。湿度の増した部屋の熱気のせいだろうか。違う。ヒロミは分かっていた。映像の片隅に映っていた、あの女性のせいだ。ヒロミの直感は当たっていた。当たってしまっていた。以前クロードが語っていた対象であろうあの上官の存在が、ヒロミ側にある非や負い目を、どうしても認めたくないものにしていた。


 二人がどんな関係なのかは無論知らない。距離や時間が近ければ、そんな疑問や疑念は簡単に解消できることなのかもしれない。だが、今は違う。ここはネーリで、どんな些細な言葉も、届くのは何日も何週間も先だ。ヒロミの内に湧き上がる、この卑しい感情は、ヒロミ自身をより惨めにし嫌悪感を掻き立てた。では、この上官の存在がなかったらどうだっただろうか――?


 またバカなことをして、と笑ってやり過ごせただろうか。


 ……笑って――?そこまで考えて、ヒロミは急に悔しさや悲しさが入り混じった感情に襲われた。涙が数滴、頬をつたい、握りしめたままの拳の上に落ちた。笑えるわけがない。ヒロミは歯を食いしばった。こんなことで泣くことすらも腹立たしく感じた。


 もとより、これまで2人の間に揉め事がなかったわけでは当然ない。傍目にはじゃれ合っているようにしか見えなかったかもしれないが、両者ともに我慢できず、衝突することは幾度となくあった。ヒロミには強情なところがあり、クロードにも流されやすく見えるところがあった。時に、強引に迫り、引っ張るタイプの女性に惹かれるところがある、とクロードという人物はヒロミの目にはそう映っていた。特に決定的な事態に陥ったという事実があるわけでもない。ヒロミが寛容すぎるということも、独占欲が強すぎるという自覚もない。ただ、何か後ろめたいことがあるときにする、彼のクセが、前回の便りでも見せた、目を逸らして照れ笑いをするというあの仕草が、ヒロミの感情を一気にネガティブな方向へと引き寄せるのだった。本人に自覚があってのことなのか、何らかの気遣いのつもりなのかは分からない。ヒロミもそこはあえて指摘してこなかった。クセを発端にして責めるというのも理不尽だろう。だがヒロミにはどうしてもそれが――何かをごまかし、笑って済まそうとでもしているかのように見えて仕方がなかった。彼が口にする「前向きに」という言葉も同様だ。苦しい時によく発せられる自己暗示のようなものかもしれない。励みになることもあるが、自分を正当化するように、さもそれが正しい解決の道だとでもいうように聞こえることもある。繰り返されるその言葉もヒロミを刺激する要因の一つだった。ただし、それらが決して悪意によるものではなく、彼の根が正直であることに起因するということも、また確かだと、ヒロミは分かっている。それゆえに――、彼は多くの者に好かれ、仲間の輪の中で誰とでも親しく接してきた。それゆえに、ヒロミは――


 いや……


 ――いや、今はそんなことはどうでもいい。


 ヒロミは通信機器を視界から遠ざけるように手で押しのけた。そんなことはどうでもいい。


 感情のぶつかり合いは、その関係の修復と、互いに寄り添い続けることを願うがゆえに起こったものだった。今は――、今はどうだろうか。何か杭のようなものを打たれ、決定的にその道が絶たれたように感じられた。両腕の中にあった身近なものが、まるで無関係な異質の遠い存在にしか思えない。道を再び切り開き、その存在がかつての温度を取り戻すまで慈しみ育もうという意欲は湧き起こらなかった。


 ――そうして、今日の回想の冒頭に至る。


 窓の外にはかすかに暮れかける日の光が見えた。だが下層からは相変わらず豪雨が降り続く音が響いている。黒い雲がもくもくと流れ、この周辺の天気も再び荒れるであろうことが予想された。


 ヒロミは憮然として、一人ベッドの上で膝を抱え座っていた。2人を隔てる距離のせいだろうか。あるいはすっかり変わってしまったこの部屋の環境のせいか、天候のせい、もしくは――、もしくは”ユスの呪い”のせいだろうか?心の内からこみ上げる怒りと苛立ちの感情は一向に収まらなかった。何かに当たり散らしたい、そんな気分に満たされた。感情は高ぶり、論理的な思考ができない。何か未知のもの、ヒロミのせいではない、他のもの、他の人のせいにはできないだろうか。その原因、はけ口を求めていた。そうでもしなければこの感情は説明がつかない。背後にぽとりと、また虫の落ちる音と感触があった。ヒロミは視線を向けることなく、頭を掻きむしった。あらゆるものに無性に腹が立つ。クロードのせいか、そもそも返事も何もしてこなかった自分のせいだというのか――!


 ――落ち着こう


 少し冷静になる必要がある。考えていても何も進まない。ヒロミはベッドから立ち上がり、階下へと向かった。


 一階に置かれたテーブルはその脚の部分をほぼ植物に包まれ、椅子は背もたれまで蔓に絡まれつつあった。先程は動かすのをためらわれた椅子だったが、今はそんな気配りをする余裕はない。ヒロミはキッチンに置かれていたトワから貰った酒の入ったスキットル状の容器を手にし、強引に椅子を引いて腰を下ろした。多少ちぎれたところで、これからは頭上のヴォイミが世話をし、植物にとって良好な状態を維持し更に茂らせてくれるだろう。座面にいた虫を押し潰してしまったかもしれない。しかしそれも些細なことだ。ヴォイミが適量を処理し、適量の個体数を残しつつ育てていくはずだ。望んでいたこととは大分違う。しかしもうふっ切れた気がしていた。


 ヒロミは酒を口へと運んだ。相変わらず豊かな香りの広がる、高そうな度数のわりに飲みやすい酒だ。飛び回るヴォイミをぼんやりと見上げ、ヒロミは考えた。――もし、あの機体が散布するのが酒だったらどうなるだろうか……?部屋はこの熱気に加えさらに酒の芳香が立ちのぼる、むせるような空間となるだろう。常に酩酊状態で思考も楽観的になるかもしれない。植物にも影響があるだろうか?……いや、実験したわけではないが、高濃度のアルコールは植物細胞を脱水状態にさせるだけだ。少なくとも好影響ではありえないだろう。――くだらない妄想に急に論理的な思考が入り込んだことにヒロミは苦笑した。


 ヒロミは一つ、深く呼吸をした。


 先程までルルアからおかしな話をされていたせいで、刺激されたということもあるのかもしれない。ヒロミは振り返り、部屋の奥、キッチンの脇に積み上げた荷物の上に置いたままの、フォトスタンドをじっと見つめた。オスの存在が性的な興奮を呼び起こすだろうか。


 ――いや。改めて、そんなことはまったくなかった。ヒロミは顔をしかめた。馬鹿なことをした。余計に気分が悪くなった。


 これからのことを考えよう。ここで明日以降、どのような生活を、どうやって生き抜いていくかを考えたほうがいい。ヒロミは思った。


 まずヴォイミだ。――これは必要だろうか?いなかったら今以上に虫の量が増えると考えると、いたほうがいいのかもしれない。さらに、もし今後研究場所をここに移すのであれば、環境の維持にも役立ってくれるだろう。水道の使い方などを教えれば、雨水を頼らずとも自動で給水も行ってくれるだろうか。どの程度のカスタマイズが可能なのか、確認が必要だろう。


 そして、肝心の研究活動についてだ。それはヒロミがネーリに居続けるためにも必要になる。6区の第三研究室は、今どうなっているだろうか……。サンプルのうち何種類かは暴走するように巨大化したが、まだ苗の状態の試料もいくつかはあるはずだ。キュイオが勝手にかけ合わせて作ったであろう個体もある。なんとか、あの植物だけでも、一部でもいい、持ち出すことはできないだろうか。安全な環境で、より研究を深めたい。おそらくはまだ事件後の処理や修復作業で施設自体に立ち入ることが出来ないだろう。少なくとも地球人の感覚ではそうだ。実際に危険な場所もあるだろう。ユーフの襲来が迫る可能性もある。だが様子を見に行くことだけでもできないものだろうか……。キュイオはきっと無事だろう。足の再生には時間がかかるのかもしれないが、あの持ち前の旺盛な研究心が、きっと彼女を大人しくさせておかないはずだ。何らかの方法で身体を改造し、そしてまた両手をバタバタさせながら笑ってくれるだろう……。


 さらに一口、二口、ヒロミは飲み進めた。


 ――すっかり、目的が変わってしまってはいないか……?


 ネーリにいるために研究をする……?逆だ。研究をするためにネーリに来たのだ。確かに、このままもし活動をストップするようなことになれば中途で投げ出すかたちになる。ヒロミにとってそれが不本意なことなのは間違いない。そうではないだろう。


 ――ヒロミも内心気付いていた。一番に会い、事の次第の報告をし、話をしたい人がいる。会えていない人がいる。


 さらに飲み進めた。ヒロミは体の芯が熱くなるのを感じた。浅く座り、椅子に埋もれるような格好で、ヒロミはヴォイミの小さな羽音を聞きながら、ゆっくりと目を閉じた。


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