act28
先輩にとって、あたしを側に置いていた価値って何だったんだろう。
act28.文化祭まであと少し
中間試験が終わるまでの二週間近く、またしてもあたしの身辺は平和そのものだった。
篠田先輩の顔を見かけることもなく、先輩の取り巻きからの目立った嫌がらせもなく、快適な試験期間を過ごすことができた。試験そのものは、あまり快適ではなかったけれど。週が明けてさっそく返却された答案用紙を見ると、英語と現代社会の点数が少し、いや、かなり落ち込む数字が名前の横にでかでかと書いてある。赤点は免れたけど、何なの。こいつら反抗期なの? それなりに頑張って勉強したつもりだったんだけど。はあ。
「よりちゃん、さすがにその点数はちょっと……」
「あたし文系科目苦手なんだよー」
溜息をつきながら残念な答案用紙を机にしまった。
週が明けて中間試験の答案返却が始まった今日から、文化祭の準備が少しずつ始まる。
クラスごとに支給される予算内で必要な物品の買出しに、大道具や小道具の作成、それを行うための係決め。何より大切なのは、お化け屋敷の内装と演出の決定だ。幸いなことに人員は豊富だ。なんといっても二クラス合同だから八十人強の人材が揃っている。といっても部活がある者もいるし、特に文化部に所属している者はクラスよりも部活を優先させたいのが当たり前だろうから、実際にいつでも動ける人数はもっと少ないわけだけれど。
なんにしても、二クラス分のスペースを使って大掛かりなお化け屋敷を作るには、人は足りているけれど時間が足りない状況だ。話し合いを詰めつつ、できる作業からどんどんやっていかなければいけないから忙しくなるぞと福山くんが目を輝かせながら話していた。
放課後、一年三組と四組はひとまず三組の教室に集まって(それだけでかなりギュウギュウになる)おおまかに必要な作業の書き出しと分担を決めた。さすがに人数が多いとなかなか話もまとまらず、予定していたよりもかなり時間が押してしまった。とりあえず各人の係が決まったところで解散となり、手の空いている者は早速仕事に取り掛かる。
けれどあたしは一度部活に顔を出しておきたかった。文化祭という大イベント前だから、陸上部に限らずどこの運動部も活動はかなり緩やかになる。試験が終わったら文化祭が終わるまで部活は自由参加、自主練にすると部長も言っていたけれど、なんとなく、本当になんとなく、ただ走りたくなった。
さっと着替えて軽く体を解してから、校庭のトラックを回る。校庭には人もまばらで、陸上部は一人もいなかった。一周、二週、三週と、走っていくうちにだんだん頭がクリアになってゆくのがわかる。この二週間、授業以外でまともに体を動かしていなかったのだ。思うままに好きなだけ走れるのは、それだけで気持ちがいい。十月も半ばから後半に差し掛かってきて夏の暑さはとっくに過ぎ去り、ひんやりした空気を体全体に受ける。
こうして一人になると、頭をよぎるのは篠田先輩と最後に話したときのことだ。不本意だけれど。
「傷ついて、あたしに苛立って、怒って、早く嫌いになってくださいよ!」
あの男の言うことなすこと全てに腹が立って、神経を逆撫でされてイライラして、つい感情のままに怒鳴りつけてしまった。あのときの気持ちは本物だし、今でも変わっていない。早くあたしのことなんて飽きて嫌いになってしまえばいいのだ。
なんであたしなんだろう。と考えていた。
ここ最近に限ったことではない。付き合っている振りをしてくれと言われた五月からずっとだ。
あたしはよく気が強いと言われるし、それを自覚している。たとえ相手が上級生だろうと、理不尽なことを言われたり理由もなく傷つけられたりすれば黙っておられずについ反抗する。やられっぱなしで泣き寝入りするのは嫌いだ。
篠田先輩に言われたことを嫌だと思えば思ったことを遠慮せず言ったし、彼の取り巻きの人たちからの嫌がらせだって、少なくとも直接やられた時には毎回反論もした。さすがに靴の中に画鋲が入っていたり、差出人不明の手紙が入っていたりというものに対しては犯人がわからないから黙って捨てるだけだったけれど。内心はかなり腹が立ったし多少傷つきもしたし、それを同じクラスの悠美に漏らすことだってあったけれど、ここで泣いてしまえば一方的にあたしが負けて終わるだけだと思うと悔しかったから踏ん張った。回数を重ねれば重ねるほどにワンパターンな嫌がらせには慣れていったし、夏休みが明けてからはかなり静かになったからさほど気にならなくなった。
先輩の態度が少しずつ変わってきたのはいつ頃からだったろうか。
二人が付き合っていると言うだけでは信憑性が薄いからと、授業以外のかなりの時間を先輩と過ごすことを強いられた。朝も、昼も、部活中から帰りも。それなりに悪くない表情をして並んでいれば、周囲からはそれなりに仲の良いカップルに見えたことだろう。
そうして一緒に過ごしても当の二人はまあ、ドライなものだった。お互いに表面だけ笑顔を貼り付けて、どうせ遠巻きに見てる連中には聞こえないんだからといって会話の内容はまあ味気なく内容のないものばかり。親しく話し込んでいるように見せかければそれで十分だったから。意味のない言葉の羅列をお互いにあさっての方向に投げて、拾うことは稀だった。
いつ頃だったろうか、先輩は突然あたしのことをもっと知ろうとでも言うように質問を交えて話を振ってくるようになった。さすがに学年クラス、部活に委員会は知っていたから、それ以外のこと。得意科目、苦手科目、出身中学校、好きな食べ物、嫌いな食べ物、数え上げればきりがない。言いたくないことは言いたくないと言えばそれ以上聞かないでいてくれたし、意味を成さない会話の振りをしているよりずっと楽だったから、単なる気まぐれだろうと思って彼の話に付き合った。
相変わらず先輩の表情は貼り付けたような嘘っぽい笑顔が多かったし、あるときを境に突然あたし自身に興味を持った先輩に対する感情が変わることはなかった。夏休みにデートと称して一緒に街中を歩いたり買い物したり映画を観たり、花火を見たりさせられることになったときには、あの男が何を考えているのかさっぱりわからなくて混乱した。何が嬉しくて好きでもない男と手を繋がなければいけなかったのか。良くも悪くも一緒にいることに慣れてきた頃だったけれど、あたしの気持ちはあの夏休みを境に一気にマイナス方向に傾いた。
考えてみれば当たり前だ。
あたしが篠田先輩と付き合うふりをすることでの主なメリットは、先輩に近づく取り巻きへの牽制。あたしという「彼女」がいれば、必要以上にまとわりつかれなくなるだろうという彼の読みは当たっていたし、休み時間なんかはあたしの名前を出して「彼女と一緒にいたい」と言えばわざわざついてくる人もいなかった。そして、彼女たちの怒りや嫉妬の矛先はすべてあたしに向くことになり、少しの隙さえあればねちねちねちねち……。その代わり、篠田先輩に接触した他の女子への被害はかなり減ったようで、これも当初の狙い通りだった。
さて、この中にあたしへのメリットはあっただろうか。
一つもない。何一つ、あたしに良いことなんかない。むしろ悪いことばっかりだったわけだ。大切な友達も一人なくしかけたし、見たくもない顔を毎日のように見せられて、逆恨みされて。
無駄に泣かされる罪のない女子が減ることは喜ばしいけど、あたし一人ばかり我慢を強いられるのはいかがなものなんだろう。
葛西さんは強いから、と篠田先輩は言った。
中学生の頃も陸上部だったし、当時の先輩や先生たちからもしごかれてきたから、そういう意味では打たれ強いかもしれない。ちょっとぐらい怒鳴られてもへこたれなかった。でもそれはあたしに問題があったり、もっと前に進みたいという気持ちがあったから耐えてこられたものだし、それをバネにして頑張ってこられたのだ。決して理不尽に「単純に気に入らないから」という理由だけで浴びせられる罵声に強いわけじゃない。それが繰り返し何度も、となればなおさらだ。
慣れてしまったといっても毎回それなりに傷ついたし、ストレスにもなった。自分のことながらよく我慢してきたと思う。そうやってあたしの中に蓄積されたストレスなり鬱憤なりを篠田先輩にぶつけてみても暖簾に腕押しで、改めて彼があたしのために動いてくれることなんてなくて、ああこの人は本当にあたしのことをただの「彼女」という名前の道具としか思っていないんだと、余計に苛立ちが募るばかりだった。
もう限界になって、ついに爆発したのが二週間前の図書室だったというわけだ。
あたしは、道具じゃない。
何週走ったのか、途中から数えていなかった。
気付けばかなり陽が傾いてきていて、あたしは走る足を緩めた。ゆっくりスピードを落とし、呼吸を整える。
下校のチャイムはまだ鳴っていないけれど、周りで自主練をしていたはずの他の運動部員の姿もいつの間にかなくなっていて、しんと静まり返っていた。そんなことにも気付かないぐらい脇目もふらず走り続けていたようだ。
ほんの少し走って、すぐ教室に戻るつもりだったのに、結局ほとんど下校時間になってしまった。クラスの子たちには申し訳ないことをしたけれど、あたしの役割は今日からすぐ動く必要のないものだったからまあ大丈夫だろう。
考え事から頭を戻してみると、息もかなり上がっていたし、全身じんわり汗ばんでいる。やんわり吹き抜ける風の冷たさが心地いい。軽く柔軟をやって、あとは更衣室まで歩きながらクールダウンすることにして校庭をあとにした。
部活の後だろうと、休日だろうと、登下校のときは必ず制服を着用することという校則が、青華高校にはある。だから下校時刻が近づいていても何でも、制服に着替えなければいけない。これが面倒だよなぁ。中学校のときは一日ジャージでいても誰からも注意されなかったのに、さすが進学校ということか。
更衣室は校舎の一階、あたしたちの教室は四階にある。さっと汗を拭いて元の制服に着替えて、鞄を取りに教室まで上がる。こんなに遅くまで走ることになるなら、更衣室に鞄も持ってきておけばよかった。かれこれ一時間走りっぱなしだった足で四階まで階段を登るのはちょっと辛い。溜息も出てしまうってもんだ。
他の学年クラスが文化祭準備を行っている声や物音が階段まで聞こえてくる。と言っても、まだ準備一日目だ。まだ道具も材料も少ないから、できることも限られてくるだろうけれど。
「あ……」
三階には特別棟への渡り廊下がある。だから、三階付近は自然に人通りが多くなるわけだけど。
どうしてこんなに嫌なタイミングで来ちゃったんだろう。
「葛西さん?」
あと数歩で三階というところで、廊下からひょいと顔を出したのは篠田先輩だった。同じクラスの人だろうか、綺麗な女の人と並んでいて、それぞれ手にした書類を指さして確認しながら歩いてきたようだった。きっとこれから教室に戻るのだろう。あたしが上ってきた側の階段に近寄ってくる。
運動着を抱えて上ってきた足がぴたりと止まった。見たくないんだからさっさと通り過ぎればいいのに、上履きが階段に縫い付けられたように動かない。ほんの数歩、前に出れば、何ごともなくすれ違って、それで終わるのに。どうしてそれが今できないんだろう。
この女の人は誰だろう。あたしを見る彼女の瞳は冷静そのもので、過度な好奇心も嫉妬も感じられない。知的で大人っぽい雰囲気をまとったこの人は、あたしよりもよっぽど篠田先輩と親しそうだし、二人の様子もすごく自然だ。それに何より、意思の強そうな瞳がすごく印象的だ。
なんだ。
あたしよりもよっぽど篠田先輩の彼女にふさわしい人がちゃんといるんじゃない。
彼女にするなら綺麗な人のほうがいいと誰でも思うはずだ。実際、あたしみたいな子供っぽい子じゃなくて、この人と並んでいるほうが釣り合いが取れているし、お似合いのカップルに見えるし。
向かい合ったのはほんの一瞬、けれど脳内は急速に冷え切った。二人分の視線を受けてたじろいだのも一瞬だった。強張ったあたしの顔を、先輩と女の人が不思議そうに覗き込む。
なんだ。あたし、知らないうちになかったことにされてたんだ。
反射的にあたしは階段を全速力で駆け上がった。後ろから名前を呼ぶ二人分の声が聞こえたけれど、聞こえないふりをして教室に飛び込み自分の鞄を掴む。何人か残っていたクラスの子に挨拶もせず廊下に出ると、呼吸を整える間もなく、上がってきたとのは別の階段を駆け下りた。
走って、走って、すっきりしたはずの頭の中に、再びもやが広がる。




