観光客なら車を見れば分かる
■1
「あーあ。とうとう止まった」
サリア・ハーパーは、開いたボンネットを前に腰へ両手を当てた。
見渡す限り、赤い大地が続いている。
乾いた草原。
低い岩山。
空には雲ひとつない。
そして道路には、サリアの古いピックアップ以外、一台の車も走っていなかった。
「今日じゃなくてもいいでしょうに」
サリアは車体を平手で叩いた。
ばしん、と乾いた音が響く。
「いったーい!」
叩いた手を押さえ、その場で二度跳ねる。
当然、ピックアップは何の反応も返さない。
「そっちが悪いんでしょうが」
サリアは運転席へ戻った。
キーを差し込み、もう一度回す。
エンジンが苦しそうな音を立てる。
だが、始動しない。
「お願い。今日だけでいいから」
もう一度。
結果は同じだった。
サリアはハンドルへ額をつけた。
今朝から、牧場のトラクターまで動かなくなっている。
飼料を運ばなければならない。
壊れた柵も直さなければならない。
夕方までには、牛を別の放牧地へ移す予定だった。
そのうえ、町へ部品を買いに出たピックアップまで止まった。
スマートフォンを取り出す。
画面には、無情な表示が出ていた。
圏外。
「最高の一日ね」
■2
サリアは車を降りた。
エンジンのことは分からない。
けれど、ボンネットを開けておけば、少なくとも故障して困っていることは伝わる。
誰かが通ればの話だが。
遠くから、低いエンジン音が聞こえた。
サリアは顔を上げた。
赤土を巻き上げながら、一台の四輪駆動車が近づいてくる。
巨大なブルバー。
車体の横まで伸びたシュノーケル。
屋根にはルーフラック。
後部には予備タイヤが二本。
燃料タンクに工具箱。
使う予定があるのか分からない装備が、車体のあちこちについていた。
サリアは目を細める。
オーストラリア観光の広告を、そのまま車にしたような一台だった。
四輪駆動車は、サリアの前を通り過ぎる。
少し先でブレーキランプが点灯した。
車はゆっくり後退し、ピックアップの横へ止まる。
運転席から、アジア人の男が降りてきた。
年齢は四十歳前後。
短い黒髪。
半袖のシャツ。
足元には、まだ赤土のついていない新しいブーツ。
男はサリアと、開いたボンネットを交互に見た。
「カー……トラブル?」
たどたどしい英語だった。
サリアの口元が勝手に緩む。
「あんた、観光客でしょ」
男は目を丸くした。
「えっ?」
通じなかったらしい。
サリアは笑いをこらえながら、ゆっくり言い直した。
「ツーリスト?」
「イエス」
「でしょうね」
■3
男は不思議そうに首を傾げた。
「ホワイ?」
サリアはついに耐えきれず、彼の車を指差した。
「その車を見れば分かるわよ」
しばらく自分の車を眺めたあと、男は真顔で答えた。
「オーストラリアなので」
サリアは吹き出した。
「そういうところが、もう観光客なのよ!」
男は笑われた理由が分からないらしく、困ったような顔をしている。
その表情が妙に真面目で、サリアはますますおかしくなった。
「こんなど田舎に、何しに来たの?」
男は言葉を探した。
「ドライブ」
「ドライブ?」
「イエス。ビッグロード。レッドランド」
男は、まっすぐ伸びる道路を手で示した。
「行き先は?」
「ノー……プラン」
「何も決めてないの?」
男は少し考える。
「ジョブ、フィニッシュ」
両手を軽く広げた。
「ソー……ドライブ」
サリアはなんとなく事情を理解した。
「仕事を辞めて、もうどうにでもなれって来たのね」
男は眉を寄せた。
「ドウニデモ?」
「あとで教えるわ」
サリアはピックアップへ親指を向けた。
■4
「それより、こっち。動かないの」
男は開いたボンネットへ近づき、エンジンルームをのぞき込んだ。
「エンジン、スタート?」
「しない」
男は運転席を指差した。
「キー。プリーズ」
サリアは運転席へ戻り、キーを回した。
エンジンが弱々しい音を立てる。
男はボンネットの前で、じっと耳を澄ませていた。
「アゲイン」
「もう一回?」
「イエス」
サリアが再びキーを回す。
男は少し位置を変え、車体の下へ耳を近づけた。
「分かるの?」
男は質問を理解できなかったらしい。
サリアはエンジンを指差す。
「ユー、ノウ?」
男はうなずいた。
「メイビー。フューエルポンプ」
「燃料ポンプ?」
今度は男が驚いた。
「英語、分かります?」
「そのくらいはね」
「よかった」
男は少しだけ笑った。
「車の英語だけは、分かります」
「工具、あります?」
「たぶん後ろに」
「たぶんって……」
サリアは腕を組む。
「あなた、名前は?」
■5
男は工具を選びながら答えた。
「久世慎吾です」
「シンゴ?」
「はい」
「長いわね。シンでいい?」
男は一瞬、手を止めた。
「……好きに呼んでください」
「じゃあ、シン」
サリアはしゃがみ込み、男の手元をのぞいた。
「直せそう?」
慎吾は配線を確認しながら首を振った。
「直す、ではないです」
「違うの?」
「テンポラリー。町まで走るだけです」
慎吾は車体の下へ手を伸ばした。
「町で、ちゃんと修理してください」
「町まで走れるなら、直ったのと同じでしょ?」
サリアは反対側からのぞき込む。
「それ、何してるの?」
「コネクター。ルーズ」
「緩んでる?」
「イエス」
サリアは、さっき車体を叩いた自分の手を見る。
「……叩けば直る?」
慎吾が顔を上げた。
「叩いたんですか?」
「少しだけ」
「車は叩いても直りません」
「知ってるわよ。手が痛くなっただけ」
慎吾は何か言いかけたが、やめた。
■6
数分後。
慎吾は工具を置いた。
「キー、プリーズ」
サリアは運転席へ乗り込む。
半信半疑でキーを回した。
エンジンが始動する。
いつもの低い音が、赤い大地へ響いた。
「動いた!」
サリアは窓から顔を出した。
「本当に動いた!」
慎吾はボンネットの前で、音を聞いている。
サリアは車を降り、慎吾の両肩をつかんだ。
「シン、あなた天才ね!」
サリアは目を輝かせる。
慎吾はボンネットを閉めながら言った。
「ただし、町までです。町で必ず修理してください」
「はいはい」
「はいは、一回でいいです」
「はい」
「本当に分かってます?」
「分かってるわよ。ちゃんと直す」
サリアはそう答えながら、別のことを考えていた。
今朝から動かなくなっているトラクター。
部品を買いに町へ出たのも、そのためだった。
■7
「シン」
「はい」
「うちの牧場、ここから十五分なの」
「そうですか」
「トラクターも壊れてるのよ」
慎吾はボンネットへ手を置いたまま、動きを止めた。
「……はい?」
「見るだけでいいから!」
「いや、俺は旅行中で――」
「見るだけ!」
「今、車を一台見たばかりですよね?」
「だから信用できるの!」
「理屈がおかしくないですか?」
サリアは運転席へ飛び乗った。
「あっ、そういえば、まだ私の名前を言ってなかったわね」
窓から顔を出し、満面の笑みを浮かべる。
「サリア。サリア・ハーパーよ」
「久世慎吾です」
「それはさっき聞いたわ。ついてきて、シン!」
「ちょっと待ってください」
ピックアップが走り出す。
慎吾は赤土の道に取り残された。
しばらく遠ざかる車を見つめる。
「えええっ……」
そう言いながら、慎吾はすでに車載工具を片づけていた。
四輪駆動車の運転席へ乗り込み、エンジンをかける。
赤土を巻き上げながら走るピックアップの後ろを、観光客丸出しの四輪駆動車が追いかけていった。




