一.
海が見える。
虚の果てにある暗き海。そこには生命の息吹は感じられず、ただ厳かな静寂が横たわっている。
ヤナギは飛び起きた。
こめかみに大粒の汗が伝う。それを拭って、彼女は膝を抱えた。麻で織られた薄い掛け布を握りしめる。
体が小刻みに震える。
このところ、夜毎魘される回数が増えていた。
原因はわかっている。
(月水鏡剣を手放したからだ)
頭に直接響いてくる声たちは、どれもがヤナギを咎め立てするものである。
――どうしてあの剣を、あやつにやった。
――そなたに姫巫である資格はない。
――何のためにお前が在ると思っている。
ヤナギは胸を押さえながら唇を弓形に歪めた。
「後悔など、してないわ……」
抉りとるような痛みが脳に走る。
木戸を叩く小さな音がした。ヤナギは霞む目で木戸の方を見やる。
しずしずと戸が開いた。
「ヤナギ様、気が乱れておいでです」
「……チズコ」
チズコは神妙な面持ちでヤナギの肩を押した。
「取りあえず、目を閉じて下さい」
言われたとおりにヤナギは瞑目した。闇が心地よい。
聴こえるはチズコの息づかいと自然の囁き、それだけ。
神経が緩まる。チズコが言霊を発して空気を和したのだ。
ヤナギの前髪をチズコが掻き上げる。彼女の口より細い溜め息が洩れた。そして、静かに采女の部屋へ戻って行く。
人のぬくもりが遠ざかる。
完全にチズコの気配が室近くより消え去ると同時に、のそりとヤナギは起き上がる。
「…………海が…………」
呼んでいる。手招きしている。
その海に行かなければならない。〝あの場所〟は自分を待っている。
ヤナギは両の掌を合わせ、視線を手と手の間の一点に集中させた。髪が浮き上がる。ふっと体内の循環が止まる。大気にヤナギの姿が溶け出す。
忽然と、ヤナギは寝室より姿をくらました。
ヤナギは記憶の中に鮮烈な印象を残している海を捜し求め、梔子齋森を徘徊していた。
やがて、とうとうと流れる水音が近くから聞こえてきた。人形の目さながらの感情がない瞳で、ヤナギは目の前に広がる常闇洞泉を見つめる。泉には数多の蓮が咲き乱れている。
ヤナギは誰かに引っ張られているかのように泉の中へ体を滑らせた。腰の辺りまである水がヤナギの体に反発して波立つ。
ぬかるむ水底を気に止めるでもなく、彼女は滝壷の方へ歩いていく。
「――――!」
決死の形相でヤナギに向かって叫んだのはカガミであった。
ヤナギの鼓膜や網膜はふやけてしまったのか、上手く彼を認識できない。ヤナギは止めていた足を再び動かし、常闇洞泉の滝裏へ入って行った。
自分の呼び声はヤナギに届かない。
まさか、と思った。つい先ほど見た悪夢と同じ光景に戦慄を覚える。
カガミは嫌な夢を見た。ヤナギが真っ暗い穴に包まれ、自我を喪失する夢を。常ならば夢など気にも止めないのだが、不気味なほどに生々しさを感じて梔子齋森へ踏みいった。
すると、このざまだ。
カガミは黒き泉を注視した。惑う者を誘う常闇洞泉は大きく口を開いている。
カガミは舌打ちし、勢いよく水の中に入った。
じんとした冷たさが体の芯を震わせる。だが、立ち止まっている暇はなかった。ヤナギは常闇洞泉の向こう側へ行こうとしている。
滝の隙間からわずかにヤナギの後ろ姿が垣間見える。
「待てと言っているだろう! 止まれ、ヤナギ!」
懸命に叫ぶが、ヤナギは振り返りもしない。
滝壺の裏側へ辿り着いた。一気に岸に上がり、水を吸って重量を増した衣類の端を絞る。
光はない。
洞窟内に響くのは、カガミの荒い呼吸音と滝の落ちる轟音のみだ。
少しだけ奥へ進むことをためらったカガミだったが、拳をぐっと握って走り出した。
鍾乳洞内部は長い時を経て両脇に水晶を形成しており、うっすらと発光している。
「ヤナギっ」
名を呼ぶ。何度も、何度も。
かりそめの名を。
全力で追いかけ、洞窟を抜けた数歩先でヤナギの肩を掴んだ。
そして、驚きに言葉を失った。
ヤナギの肩越しに見えた景色は深い闇と暗い海だった。浮世離れしたその風景に息が詰まる。
風の啼き声がする。海の唸り声がする。
沈黙し、じっと佇んでいたヤナギが手を伸ばした。すると、どこからともなく薄い白に色づいた、たくさんの手が現れた。それはヤナギに向かって一直線に襲いかかってきた。
「くそっ」
カガミは、白い手たちがヤナギに襲いかかるのを見て、彼女の手を反射的に引いた。ヤナギはカガミに倒れかかる。
はっと、ヤナギの両目に光が戻る。我に返ったのだろう。
ヤナギは恐々と面を上げた。
「カ、ガミ。ここは」
「答えている暇はない。早々に立ち去るぞ」
身を翻して来た道を戻ろうとする二人に、なおも白い手は追いすがってくる。ヤナギは小さく悲鳴を上げる。
カガミの眼が怒りを灯した。
「還れ」
魔を破る矢のごとき一声によって、白い手はゆるゆると力を失い、次第に海へ消えていった。
ヤナギの鼻先に水滴が落ちた。
二人は無言で洞窟を戻る。その途中で、ヤナギはようやくここが常闇洞泉の中だと気がついた。
段々と状況が鮮明になってきた。自分は夢遊病のごとく、ここまで来たのだ。自身の行動に恐れが湧いた。
それと同時に、このような忌み場所とも言える場所へわざわざ足を運んだカガミに疑問を持った。
ヤナギの手を握り、先を行くカガミが声を発する。
「二度と、ここへは近づくな」
「……何故?」
「常闇洞泉は、危険だ」
立ち止まったカガミはヤナギの方に向き直り、神妙に眉根を寄せる。
「ヤナギ、お前も見ただろう。間違いない。あれは亜空間だ。大気も次元も何もかも捻じ曲がっていた。……紛れもない、あれこそ真の神域、常世だ」
言い捨てると彼は前を向く。真っ直ぐに、浮世に向かって。
滝は轟音を立てて水面へ落ちる。飛沫は無数の泡を生み出し、辺りの空気を冷やす。
カガミは躊躇いもせず泉の中に飛び込んだ。瞬く間に彼の全身が濡れていく。
ヤナギは躊躇っていた。行きは本能のままこの滝を抜けたのだ。理性があると、どうしても人は躊躇いを覚えてしまう。
カガミは振り向きざまに、強い力でヤナギの腕を引いた。均衡を崩してヤナギは足を滑らせる。水に落ちると思って目を瞑ったが、それは杞憂に終わった。
一瞬の間に、ヤナギはカガミの腕に包まれていた。彼はヤナギを抱き上げていたのだ。
自分のものでない体温と鼓動に、当惑する。
「何を……!」
恥ずかしさに足をばたつかせるヤナギと打って変わって、カガミは澄まし顔でヤナギを見下ろす。
「濡れるのが嫌なんだろう」
頬が熱い。ヤナギは顔を両手で覆う。
「恥ずかしい」
「何も恥ずかしくなどないだろう」
カガミは大股で泉に分け入る。カガミが動く度に水が撥ねてヤナギの装束の裾を濡らした。
常闇洞泉は意外にも大きい。
到底、数歩では岸辺に辿り着けなかった。
「……どうして私がここにいるのがわかったのですか?」
もうすぐ岸辺に着くという時、ヤナギはカガミへ言葉を投げた。彼は足を止める。
カガミはヤナギを抱え直す。
泉を取り囲むあまたの鬼火がカガミの顔を照らし出した。下から仰ぐように見た彼の顔は美しかった。
「夢を、見た。お前がこの洞泉の中を抜ける夢を。それがあまりに鮮明だったから、まさかとは思ったが一応ここへ来てみた」
先見だ。
カガミは占手の血を引いているのだろうか。だが、そんなこと訊いたこともない。
「不思議な人」
首を傾げて、ヤナギは呟いた。
カガミが現れてから、何故か心が揺れる。不快な揺れではなく、感情の揺れのような。
「……響くは始まりと終わりを告げる、宿運が鬨の声」
ざわり、と肌が粟立った。頭の芯がくらくらする。
ヤナギの異変に気づいているのか気づいていないのかはわからないが、カガミは微笑んだ。
「古代史に残る、有名な一節だ。決して報われぬことのない焦がれんばかりの想いを宿した者が詠んだ歌」
カガミの顔がヤナギの目と鼻の先に迫る。視線を剥がせない。
カガミの長い睫毛が伏せられてヤナギの頬に一つ、口づけが落とされる。
ゆっくりとカガミは唇を外した。
「俺たちの間にあるは、宿命のみだな」
少し寂しげにカガミは呟く。
「あ……」
口づけに驚いて、ヤナギは二の句を繋げなかった。一閃の記憶が脳裏を掠める。
何か、大切なことを思い出しそうになる。だが、どこからか思い出してはいけないという声も聞こえる。
「ヤナギ、お前は――」
カガミが言いかけたことは、草木を掻き分ける大きな音によって立ち消えた。
カガミの腕に力がこもる。真夜中に梔子齋森へ来る者は少ない。緊張が走る。
「ヤナギ様! ヤナギ様! お返事を……!」
血相を変えて目の前に躍り出たのは、チズコだった。突如姿を消したヤナギを探して彼女は梔子齋森を駆けずり回っていたのだ。
カガミは安堵の溜め息を吐き、足早に岸に上がる。
ヤナギは慌ててカガミの腕から滑りおりる。
「チズコ、ごめんなさい。勝手に抜け出してしまって」
「あ、ああ……」
チズコは半ば泣き出しそうな顔をして、ヤナギの装束の裾に顔を埋めた。
「夢であなたが何者かに攫われるところを見ました」
彼女もまた、カガミと同じように不吉な夢を見たのだった。
チズコの乱れようにヤナギは慌てふためき、カガミは苦笑した。
「さすが占手の血を引く娘だな」
賞賛の言葉を贈るカガミに向かって、チズコは深々と頭を下げた。
「カガミ様。貴方様がヤナギ様を救って下さったのですね。本当に、本当にありがとうございます。本来ならば、それはわたくしの役目だったにも関わらず、貴方様はその役目を担ってくれた。ヤナギ様に対する常世の誘いを退けてくれた。何とお礼を申し上げたらいいか」
「よせ、礼など要らない。取り敢えず、寝所にヤナギを連れて行ってやってくれ。俺は一人で帰れるから」
「はい。では、お気をつけて」
再び深く礼をしてチズコはヤナギの手を引く。
カガミを一人で帰したくはなかったが、ヤナギに見つからぬようこっそり涙を拭うチズコに向かって、「カガミを送ってから帰りたい」という我が儘は言えなかった。
ヤナギは振り返り、カガミに小さく「ありがとう」と呟いた。
ヤナギとチズコは手を繋いで神杷山へ戻る。
二人の姿が見えなくなるまで待ってから、カガミは横にある木の裏をひょいと覗き込んだ。
そこにはヤサカニと仏頂面をしたムロが座り込んでいた。
「……お気づきだったのですか」
ヤサカニのばつの悪そうな顔を見てカガミは頷いた。
「気づいていたならば、さっさと声をかければいいものを」
そう言い、忌々しげにムロは舌打ちした。
「――すべて、見ていたのか」
慎重にカガミは訊いた。どこからどこまで彼らが見聞きしていたのか、正確なことが知りたかった。
「はい」
ヤサカニは歯切れ悪く答え、話し始めた。
「常闇洞泉に魂が流れ込むのを見ていたら、突然ヤナギ様が現れたので動揺してしまって。反射的に木の陰に隠れました。そうしたら、間髪いれずカガミが来られて、ヤナギ様と一緒に中へお入りになってしまったので。お二人とも常闇洞泉に入ってしばらく出てこなかった。だから、急いでムロを呼んできて突入しようとしていたら――」
「俺たちが出てきたというわけか」
言葉を引き継いだカガミに向かってヤサカニは、あいまいに笑む。
「出て行く瞬間を逃してしまいました」
ヤサカニは頭を掻いた。カガミは、そうか、とだけ言う。
「……ヤナギ様を泣かせて、驚かせて、助ける」
ムロはカガミを睨んだ。
「お前が一番わからないし、不愉快だ」
殴り殺さんばかりの目をカガミに向けるムロを、カガミは一蹴した。
「子供じみた嫉妬だな」
「馬鹿なことを!」
ムロはむきになって喰ってかかった。
ヤサカニはそんなカガミのからかいに肩を竦める。
三人は帰り道、ずっと軽く言い合いをしていた。しかし、常闇洞泉の奥に何があったかはついぞ話題にのぼらなかった。