三章 幽明
微かな灯火が今、掲げられようとしている。
わずかな希望の光が暗鬱なる大地を黄金色に染め上げる日を、ヤサカニは待ち望んできた。
己の左目左耳が失われてから早幾年。
ヤサカニは冴え渡る高天原国の空を見上げ、嘆息する。
祖国である黄昏国ではついぞ見ることの出来ない蒼天。それは美しすぎてやるせない気分にさせる。
「戦はまた、全てを無に還すだろう」
人知れず彼は呟いた。
戦いの向こう側にあると信じてきた未来。それは非常に曖昧で、頼りないものでもある。
ヤサカニの心は揺れていた。
かの忌まわしき姫巫は言った。
「私を殺して」と。
殺してしまえば良かったものを、と今更ながらヤサカニは後悔していた。
たとえカガミから怒りを受けたとしても、殺されたとしても、そうすることが最善だったように思えてならない。
彼女は死を望んでいた。最も神に近く、世を意のままに操ることが可能であるはずの彼女は、暗い暗い深淵の海に一人佇んでいるようだった。
いっそのこと、殺してやった方が姫巫のためだったのだろうか。
近頃、ヤサカニはよく考える。
今となってはもう彼女を手にかけることは難しいだろう。何も彼女のことを知らないままであったなら殺せただろうが、彼女のことを知りすぎた今、刃に躊躇いが生まれるのは間違いなかった。
姫巫はこうも言った。姫巫などいない方が幸せなのだ、と。
「幸せ、か」
憎悪と憤怒の中で生きてきたヤサカニには、まだわからない平和という幸せ。
それは目に見えなくとも、確実に凍りついた心を和すものだと亡父は常々言っていた。
ヤサカニも、心の安寧を望んでいる。
いつか穏やかな世で、皆と笑い合いたいと思っている。
だが、〝皆〟とは誰のことだろう、と一抹の疑問が胸に過ぎる。
その問いは解いてはいけない。彼にもそれはわかっていた。
いつまでもこの高天原国での生活は続かない。終焉はやって来るのだ。
ヤサカニは瞑目し、風の音に耳を澄ました。
どこからか子供達の笑い声がする。
後に、躊躇ってでも彼女を殺しておくべきであったと彼が悔やむことになろうとは、誰が予測できたであろうか。




