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五.

 突きささる視線を全身に感じながら、カガミは真っすぐ前を見据えて西門を目指していた。

 夕刻。もうすぐ飯時であろう。魚の焼ける香ばしい匂いが辺りに漂っている。

 クルヌイ王子の室前で番をしていたカガミに、ようやく交代の声がかかった。カガミは早々にヤサカニと王子の見張りを交代し、西門に戻ってきた。

 庭を通っていると、池の周りにいた女官や台王お抱えの女たちから艶やかな目で見られる。

 ――まるで、獲物を狙う女郎蜘蛛。

 カガミはひっそりと口角を吊り上げてわらった。自分が目立つらしいというのをカガミは心得ていた。皆、毛色の違う動物を愛でる目をしている。カガミは解き放っていたざんばら髪を束ねる。この髪が陽にさらされて金色に見えるのも人の目を集める原因なのだろう、と思った。

(今はいい)

 悪意を感じる視線は微々たるものだ。台王が大っぴらにカガミやヤサカニを信じているから、誰も悪意を表向きにできない。

 この王宮へ来て三年。もうそろそろ、台王の気まぐれは翻るだろう。その時、今全身に突き刺さっている好意の視線さえ容易く悪意に傾くことをカガミは重々承知していた。

 たとえ何年この地に住みつこうとも、この地の者にはなれないのだ。いや、なろうとも思わなかった。

(俺は、黄昏国の者。高天原国の者ではない)

 強固な想いは決して折れることはない。

 鍛錬場に着いてみると、人の影は一つもなかった。皆、夕飯を食べに表通りにある店や飯所へ行っているのだろう。

 ふと、微かに動くものが目に入った。西門兵の屯所のすみに胡坐あぐらをかいているその人物の顔は、苦しげに歪んでいた。夕日が赤く全てを染め上げていても、その人物が青白い顔をしているのは一目瞭然だった。袖をたくし上げて、しきりに両腕を強く擦る彼の異常な様子を見て、カガミは目を見開く。

「ムロ……お前」

 カガミの気配に全く気づかなかったのだろう、ムロは慌てて袖を下ろす。

 しかし、時既に遅かった。

 カガミはムロの手首を握った。そして、一気に袖を捲り上げた。

「…………」

 ムロは無言でカガミを睨み据える。その頬には脂汗が伝っていた。呼吸も荒い。こうしている今にも、ムロは倒れてしまいそうだった。

 カガミの瞳が冷たくなる。

まじないか」

「黙れ」

 鋭い拒絶の言葉を受けてもなお、カガミは言葉を止めなかった。

「常々、お前からは妙な気配を感じていた。まさか、呪いで成長を促進していようとはな」

「――くっ」

 悔しげにムロは目をそむける。

 ムロの両腕には黒い墨で描かれたような模様が入っていた。肩には大輪の禍々しくも見える花が咲き誇っている。墨が入っていない皮膚は壊死えししているのか、赤紫色に変色していた。

「黒き拯溟しょうみょうの花」

 呪いだった。黄昏国に古より伝わる己の身を犠牲にした呪いの一種。呪いには様々な種類があるが、黒き拯溟の花柄は成長を促進させて強大な力を付与させるというものだとカガミは記憶していた。

 しかし、呪いは禁忌中の禁忌。下手をすれば媒体を死に至らしめるもの。

 その呪いの彫り方を知っている者も今や数人程度しかいないはずだった。

 もともと、戦に子供らが駆り出される際に彫られたといういわくつきのものである。無理な成長促進は大きな負荷になる。

 こうして、ムロが生きていることさえ奇跡に近いことであった。古文書には、子供らは気が狂うか体に走る痛みに耐えきれず一年も経たないうちに命を絶ったと記されていた。

 ムロはカガミが呪いのことを知っているのがわかった刹那、苦虫を潰したような表情を垣間見せて脱力したように顔を伏せた。

「ヤナギは、知っているのか」

「言うな!」

 悲鳴に似た怒鳴り声が上がる。

 全てが朱に染め上がる刻限、大禍刻おおまがどき。静まり返った辺りが空恐ろしさを増加させる。

 ムロの体が小刻みに震える。

「ヤナギ様は、何も知らない。これは俺の独断でやったこと」

「そこまで姫巫が大事か」

 カガミの問いに、ムロは怪訝な顔をしてカガミを見る。その顔は当たり前だろうという表情をしていた。

「お前は黄昏国の民だろう」

 思わず口をついた言葉に、ムロの動きが止まった。

「黄昏国の、民……」

 ムロは剣呑けんのんな光を目に宿した。その目は見る者全てを震撼させるものだった。

 カガミはわずかばかりたじろいだ。

「その事実のおかげで俺がどれだけ泥水を飲んできたか、貴様にはわかるまい。その不遜な物言いに立ち振る舞い。カガミ、貴様は黄昏国の中でもさぞ温かで幸せな位置に身を置いていたのだろうな」

 カガミは困惑した。予想だにしていなかった物言いに上手く言葉を取りつくろえなかった。

「そのようなことは」

「ないわけがない! その朽葉色をした髪が艶やかなことで容易に想像がつく!」

 返す言葉が見つからなかった。何を言っても、今はムロに届かない。

「……凄惨だった」

 ゆっくりと、噛み締めるようにムロは語り出した。

「黄昏国での生活は、常に飢えと渇き、そして死との隣り合わせだった。俺の村は小さな村で、蜘蛛の廻廊の近くにあるがために幾度も戦の舞台になっていた」

 情景がまざまざと浮かんでいるのか、ムロはしきりに左肩を右手で強く押さえている。

「物心ついたとほぼ同時に母は黄昏国の兵に殺された」

「黄昏国の兵だと?」

 まさか、とカガミは心中で吐き捨てた。

 黄昏国の兵が同胞であるはずの民を殺したというのか。信じがたい話に、カガミは耳を塞ぎたい衝動を必死に堪えていた。

 ムロは重々しく頷いた。

「娼婦にされたんだ。体の弱かった母は、その屈辱と兵たちの欲望に命を落とした」

 ムロは小さく嘆息した。

「……何度目の戦だったろう。俺とサコ――ヤナギ様の元付き童だ――は運悪く高天原国の陣へ迷い込んでしまったんだ。そこで、サブライ元武官長と出会った。彼は俺たちが孤児だと知ると、優しい眼差しと涙をくれた。それが、どれだけ温かったことか。サブライ元武官長は俺とサコを引き取ってくれた。飢えと渇きのない場所へ連れてやると彼は言った。まあ、俺もサコも信じていなかったがな」

 ムロは固く祈るように指を組んだ。

「けれど、いつしか彼を師範と呼ぶようになった。そして彼の言ったとおり、俺とサコはこの命を賭けても惜しくない者を見つけた」

 一旦、間を置いてムロは安らかな表情を見せた。

「それがヤナギ様」

「――……」

 カガミは言葉を紡ぐことができなかった。

「……誰にも文句は言わせない。ヤナギ様の幸せはサコへの弔いの光となり、俺の心の安息となる。この呪いはその誓いの印。誇りだ」

 まだ身体中、痛みがあるだろうにムロは果敢にも立ち上がる。二人の間を生温い風が吹き抜ける。

「俺は、黄昏国の民などではない。立派な高天原国の民だ」

 燃える瞳を見つめるに耐えられず、カガミは思わず踵を返した。

 飯を食べ終えて満足げに屯所へ戻ってくる兵たちと入れ違いに、カガミはその場を去った。



「近頃はとんと〝神のかいな〟の噂、聞かなくなりましたね」

 日照りが続いていたため催された雨乞いの儀を済ませ、神杷山しんはやまへ帰ろうとしていたヤナギの耳に、そのひそひそ声は届いた。思わず振り返る。

 いたのは二人の兵だった。古ぼけたゆがけをしているところから推測するに、西門兵であろう。

「ああ、〝ハルセ〟だろう。どうせ、油断を誘っているだけだ」

「地下の国々最後の救い、〝神の腕〟、でしたっけ。でもここ数年、噂も聞かないのはおかしな話だ」


 ――地下の国々の最後の救い、〝神の腕〟。

 ――〝ハルセ〟。


『俺は、ハルセという』


 ヤナギは口許を押さえた。

 いかに自分が無頓着に戦場にいたか今ならわかる。敵の名すら知らなかったのだ。

 ヤナギは動揺しつつも平静を装いその場を去る。

 ヤナギがいることに気が付いた兵たちはふかぶかと礼をした。

 脈が速くなっていく。

 あの時――カガミが自らを〝ハルセ〟と名乗ったあの時、気が付いていたら。

 ヤナギは自分の凡庸さにほとほと嫌気がさした。〝神の腕〟の手腕は知っている。彼のおかげで戦場にて何度も苦渋を呑んだ。それは先代姫巫も同様である。

「カガミを……カガミを知らない?」

 王宮の中央部にある庭園で、燈の灯った池回りを散歩しているクルヌイとヤサカニに、ヤナギは息も絶え絶え尋ねた。

 その緊迫感が伝わったのか、ヤサカニは早口で答える。

「カガミ様ですか? 西門の修練場にいると思いますが……」

 ありがとう、と礼を言いヤナギは西門へ駆け出した。

 砂利が草鞋わらじと足袋の間に入ってしまい、痛いと感じたが、立ち止まる気にはなれなかった。

 王宮は広い。どうしてこうも似た建造物が敷地内にあるのかと不満を洩らす者もいるくらい、様々なものが建っている。

 急いでいる時に限って西門への近道である通路が見つからなかったりする。ずっと、この宮内にいる者だったら迷わないのかもしれない。だが、年の大半を戦場か神杷山にある社殿で過ごすヤナギにとって、王宮の勝手はいまだにわからなかった。

 仕方なしに庭園からぐるりと東門へ出てから西門を目指した。

 いざ訓練所に着いてみると、そこは夕飯を済ました兵たちでごった返していた。カガミがいないか、せわしなく視線を動かしていると屯所のすみに積まれている角材の上に腰を下ろしているムロを見つけた。

 一目散に彼へ近付いていくと、相手もそれに気付き、立ち上がった。

「ヤナギ様――」

「ムロ、カガミを知らない?」

 ムロの言葉を遮って、開口一番ヤナギは訊いた。

 ムロはそれに答えず、無言で背を向ける。

「ムロ――……?」

 様子がおかしいと思い、そっぽを向いたムロの前へ回り込む。

「……知りません」

 彼は一言だけ告げると、ひどく思いつめた顔をして屯所の中へ入っていった。

 どうにも様子がおかしいムロを気にしつつ、ヤナギは鏡月池の近くまで来ていた。カガミと話さず、このまま社殿へ戻るのもなんとなく気が引けたが、いないものは仕方ない。池の水で手を洗い、口をゆすいでいると、山菜の入った籠を持ったチズコがひょっこり現れた。

「ヤナギ様、どうかされたのですか」

 楊は安堵した。彼女ならば何か知っている気がした。

「チズコ、あの、カガミを見なかった?」

「ああ」

 心得たようにチズコは頷き、梔子斎森くちなしさいのもりを指差す。

「つい今しがた、梔子斎森へ駆け込んでいかれました」

 ようやく彼のいる方向を聞き出せた。ヤナギは胸に手を当てて小さく頭を下げた。走ったせいで頬が蒸気している。

「ありがとう、チズコ」

 まったく、森に入るなら体を清めろと口を酸っぱくしていっているんですけれど、と彼女は眉をねた。

 ヤナギは薄暗い森の中へと足を踏み入れた。



 ヤナギはカガミの気配を探りながら森の中を歩く。梔子齋森はヤナギの神経をより研ぎ澄ましてくれる。過敏なほどに全ての息吹を感じる。

 カガミの気配は森の神聖な中で浮いていた。〝強い生命力〟や〝体温〟を感じようと試みれば、一本の糸が道を示してくれる。

 どんどん進む。木の根が剥き出しになっているところでは足元に注意を払いながら進んだ。

 まだカガミの姿は一向に見当たらない。

(これ以上進んだら……森を抜けてしまう)

 ヤナギの読みは当たった。

 黒い大地がヤナギの前に姿を現した。ここが宮殿のちょうど反対側に当たる場所だということはわかるが、この場所へ足を運んだのは初めてのことだった。

 遥か昔、この地に蜘蛛の廻廊があったという話は聞いたことがある。そのため戦が起こり、都は一時壊滅状態まで陥ったことも教えられた。

 ヤナギは頭を押さえて座り込んだ。立ちくらみと共に、まざまざと戦の情景が浮かび上がる。

 赤々とした炎。悶え苦しむ人々。むせび泣く女子供。懸命に戦う兵たち。

『いやよ、やめて。もうこれ以上、この国を痛めつけないで! あなた達の国に、あたしたちが何をしたというの!』

 悲痛な叫びが脳内に木霊す。姫巫に代々受け継がれる、記憶れきし

 ヤナギはそれを振り切るために頭を左右に振った。そして、立ち上がる。

 左右に広がる青々とした竹林は赤い夕陽に照らされて美しく黄金色に照り輝いている。

 わずかなカガミの気配を手繰りながら、竹林のやぶへ分け入る。鋭い葉がヤナギの頬や腕に細い赤線を作ったが、それに怯むことなく彼女は先へと進んだ。

 やがて、拯溟しょうみょうの花が咲き誇る焼けた竹林の一角に出た。驚くべきことに、拯溟の花は水々しく艶めいており、枯れているものはない。奥手にある蜘蛛の廻廊より漂う地下の国々の匂いが、拯溟の花を育てているのだろうとヤナギは思った。

 見るも無惨に岩戸に覆われた蜘蛛の廻廊は苔むしており、長い時を経て、ただの過去の遺物となったことを窺わせた。

 その蜘蛛の廻廊の前に佇む人影を見つけたヤナギは声を上げる。

「カガミ」

 名を呼んでも、カガミは目をやるだけで答えない。

 この前と逆だとヤナギはふと思う。

 ヤナギとカガミの間にある拯溟の花々が、一陣の強風に吹かれて灰色の花弁を散らす。

 ヤナギの長い髪も天へ煽られる。彼女は髪を押さえた。

「先ほど、兵たちの話に〝ハルセ〟という者の話題が上っていた。……そなたのことでしょう?」

 問いただすヤナギにカガミは何も言わない。

「黄昏国の唯一の希望、神の腕」

 ふっとカガミは微笑を洩らした。彼にしては儚げな笑みにヤナギは内心ひやりとした。

「お前のことは前々から戦場で見知っていた」

「え?」

 ヤナギは吃驚した顔でカガミを見る。

「直接会ってはいない。お前はいつも高見にいたからな」

 カガミは後ろにそびえる蜘蛛の廻廊を塞ぐ岩戸へ手を添える。

「高天原国が生んだ戦女神、姫巫の代替わり。俺は先代姫巫と直接剣を合わせているから、お前の力が先代に劣っていることなどすぐに見抜けた。だから好機だと思ったんだ。力なき姫巫の守る高天原国を内から砕こうと」

 カガミは目を細める。

「…………俺を殺すか」

 彼は問うた。

 ヤナギは即座に首を横に振った。しばしの沈黙の後、ヤナギは再び質問した。

「いずれ、私がその事実に辿り着くことはわかっていたはずです。なのに何故、名を教えたの」

「さあな」

 カガミはヤナギに背中を向ける。彼の淡い色をした髪が揺れた。それは大層寂しげに見えた。

「…………ムロに怒鳴られた」

 唐突な言葉にヤナギは首を傾げる。

「自分は黄昏国の民ではない、高天原国の民だとまで言われた」

 カガミは振り向き様、哀しげに微笑んだ。

「俺は高天原国に抗うことが民のためだと思っていたんだ。けれど、それは違った。戦はどちらにも強い禍根かこんを残す」

「はい」

「…………黄昏国が崩壊した時のことを、俺は昨日のことのように覚えている」

「崩壊」

 ヤナギは復唱した。華鵞彌が言わんとしていることは、代々の姫巫の記憶の中にもあった。

 ふとカガミの表情が曇る。

「十五年前、まず始めに旱魃かんばつが起こった。それが飢饉ききんを引き起こした。その時の荒廃具合は目も当てられぬほどだったさ。そして」

 言葉が途切れる。そして、カガミは息を吐き出す。

「そして、十二年前。突如津波が黄昏国全土を津波が襲った。全土だぞ。逃げ場なんてなかった。ようやく津波が去ったと思ったら、王宮にどこからともなく火の手が上がった。悲鳴と泣き声だけが聞こえていた」

 掠れた声で、なおもカガミは続けた。

「神の逆鱗に触れたのだ、と識者たちは口を揃えて言っていた。当初は姫巫の力によるものだと思っていたが、よもやこれほどの気象を操ることなど不可能だと皆結論づけた」

 カガミは何も言わないヤナギに目をやる。カガミの目は深い哀傷を浮かべていた。ヤナギの胸が引きちぎれるかの如く痛みを訴える。

「……笑いたいなら、笑え。黄昏国が亡国同然になったのは、姫巫との戦が理由ではない。神のせいだ」

「そなたは、怖いの?」

 震える声でヤナギは尋ねた。

「何?」

 カガミの片眉が上がる。突拍子もない言葉に驚いているのだろう。

 ヤナギは恐る恐る思ったことを口にする。

「そなたの心が惑っている。穏やかな日常を壊す権利は誰にもないのではないか。黄昏国は神事によって滅びたのだから、人事によって高天原国を沈めるはまた、神の怒りを買うのではないか。そう、思っているのではないの」

 カガミの中に芽生えているかもしれない怯えを暴く。

 カガミは、ふとわらう。

「そうだ、と言えば何か変わるのか」

 変わるはずがない、とカガミは一刀両断した。

 当たり前だ。本心を明かして高天原国と黄昏国が戦をしなくてよくなるならば、誰も傷ついていないはずだ。

 皆、苦しんでいる。

「カガミ、黄昏国が滅びたのは……」

 ヤナギは全て知っている。姫巫の記憶は代々受け継がれていく。黄昏国は姫巫によって滅ぼされたのだ。

 旱魃、飢饉、津波。先代は神に愛されていた。神は先代を愛で、先代の頼みならばと森羅万象を操った。

 しかし、それを詳細に伝えることはヤナギにはできない。〝姫巫〟という縛りが声を閉ざす。

『わたくしの亡き後、高天原国を守れ』

 先代から真名で縛られてから早幾年。これほど真実を告げられないことに悔しいと思ったことはない。

 ヤナギの頬を涙が伝った。

 カガミは拯溟の花を掻き分けてヤナギの前に立つ。彼はヤナギの頬を親指の腹で拭った。

「全く、お前はすぐ泣く」

 声を押し殺して泣くヤナギをカガミは自分の胸元へ引き寄せた。温かな腕の中に包まれると、酷く安心感を覚える。

 睫毛から一滴の涙が零れ落ちた。



 夕暮れはいつの間にか夜にすり変わっていた。

「送ります」

「いや、大丈夫だ」

「いいえ、せめて北門まで送ります」

 かたくなに言い張るヤナギについにカガミが折れた。

 ヤナギは梔子齋森をカガミ一人で帰らせたくなかった。

 心が弱っている時に森へ立ち入れば、惑う。常闇洞泉は大きな口を開けて人々を引き寄せる。神杷山へ続く神域へ立ち入ってしまえば森を守っている主神おもさねが黙ってはいないだろう。

 常人にとって、梔子齋森はあまり好ましい森ではないのだ。神聖過ぎる。修行を積んだ巫でさえ惑う時もある。

 それなのに、カガミやヤサカニは気安くこの森へ踏み込んできた。恐れなど抱かずに。

 今まで何事もなかったことの方が奇跡だった。

「お前は」

 夜らしく鬼火が森を彩る中を無言で歩いていたカガミが、先を行くヤナギに言う。

「俺が高天原国を滅亡させようともくろんでいることに気づいていたはずだ。何故、それを台王たちに言わないんだ」

「――わかりません」

 素直に答えた。

 何故かなど、ヤナギ自身にもわからない。でもどうしてか、カガミの死を見たくないと思ってしまう。

 ヤナギの後ろを着いてきていたカガミだったが、剥き出しの木の根を飛び越えてヤナギの前に着地した。細い糸のような繊細な髪が宙に舞い、月明りに仄かに照らされる。

 彼は手を差し出した。

「……今にも転びそうだ」

 ヤナギはそっと手を伸ばした。それをカガミは力強く、しかし優しく握りしめる。まるで、消えて壊れることを恐れるかのように。

 自分の手を引くカガミの背を見ていると、ヤナギの心は柔らかくなった。

 そんな二人を鬼火が導いていた。



「ここまででいい。ありがとう」

 鏡月池の前に着き、ようやくカガミはヤナギの手を解放した。少しだけ汗ばんだ右手を左手で包み、ヤナギは頷いた。

 手をひらひらと振り、踵を返そうとするカガミだったが、ふと池の方を見た。橘の木で囲まれてはいるものの、池が淡く発光しているはすぐにわかった。

 橘の木の隙間より池を覗き見るカガミにヤナギもならう。

「…………つるぎ?」

 水面下に剣の姿があった。白く耀かがやくそのやいばは月を思わせる。

 ヤナギは思わず後ずさった。

 剣が、まるで主に巡り合ったかのように、高い音でいた。

 ヤナギはぐっと表情を引き締めて橘の木の間より中へ滑り込んだ。そして池に手を入れる。小さなさざなみが起き、薄く湯気が立つ。

 ――――お止め。

 制止の声がヤナギの全身を駆け巡り冷や汗がこめかみを伝ったが、彼女は勢いよく剣を引き抜いた。

「ヤナギ、それは……?」

 カガミは驚いた様子でヤナギと剣を交互に見ている。

 ヤナギはひたと自分が握っている剣を見た。柄に刻まれた花と竹の絵。端には見事な玉が嵌め込まれている。その青い玉がまた啼いた。ヤナギはすぐさま池へまた手を入れて鞘を引き抜く。そして、黒々とした鞘にその剣を収めた。

「これは、月水鏡剣つきみずかがみのみつるぎ

 ぐいとヤナギは剣をカガミに押しつけた。

「もし、これから先。行く手を阻む……どうしても斬れないものがあったらそれで斬って」

 カガミは手渡された剣を慎重に吟味し、何も問題ないと判断したのだろう。

「俺に斬れないものはないが、とても美しい剣だ。ありがたく頂戴しよう」

と快活に笑い放った。

 彼の表情と一転し、ヤナギの面持ちは暗かった。



 西門の屯所前で待ち構えていたムロはカガミの前に仁王立った。ようやくの帰還に苛立ちは募る。

 呪いによる体の不調もさっぱり治まっていた。

「ヤナギ様にあまり近づくな」

 チズコからヤナギがカガミを追って梔子齋森へ入ったことを聞き及び、いても立ってもいられずに夕飯を素早く掻き込んで、カガミの帰りを今か今かと待っていた。

「指図される覚えはない」

「俗世の者がおいそれと近寄っていいお方ではないんだっ。お前は気さく過ぎる」

 ムロは憤る。その言葉にカガミは皮肉げに笑った。

「ヤナギはそれで幸せなのか」

「何だと」

 からかうでもなく、カガミは真剣な面差しを見せる。

「お前は、姫巫としてのヤナギを守りたいのか」

「そんなことはっ」

「だが、お前の言を聞いていると、そうとしか捉えられない。神聖な存在だから近寄るな、と」

「それは……っ」

 違う、と言い切れなかった。

 カガミはムロに手厳しく言う。

「あいつが心を許している数少ない者の一人であるお前がそんな考えだと知ったら、さぞ悲しむだろうな。姫巫、姫巫と。縋る者たちとお前も一緒なのか」

「言葉が過ぎるぞ!」

 ムロは叫んだ。もうこれ以上追い込んで欲しくなかった。

 カガミは拳を握り、下を向くムロにすれ違いざまに言う。

「今、ヤナギは幸せなのか」

「……え?」

「戦の間隔がどんどん狭まっている。国を守るために戦へ赴き、怨詛えんその血潮を体中に受け――。そんな最中で、あいつは幸せなのか」

「それは」

 そのようなこと、考えたこともなかった。

 先刻の戸惑いはどこに行ったのやら、カガミはいつもの余裕を取り戻していた。彼の瞳に揺らぎは見当たらない。

「ヤナギのことを守りたいのなら、ヤナギがお前の希望ならば、全力を賭してヤナギの想いを考えるんだな」

「……っ。貴様に説教される覚えはないわ!」

 屯所内に戻ろうとするカガミの胸ぐらを掴んだ。必死に言い返そうと言葉を練ったが、良い切り返しが出てこない。

 胸ぐらを掴まれても平然とした面持ちでカガミは言葉を紡ぐ。

「最近、とんとあいつは笑っていない」

 今度こそ本当にムロは絶句した。

 カガミは乱雑にムロの手を払い、左腕に抱えていた剣を抱え直すと屯所の妻戸を開けた。



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