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赤と黒と灰色の街



「じゃあ行ってくる」


 そう言って廣明は妻子が入院している病院を後にした。あの後必死になってできる限り遠くへ逃げつづけていたところを、偶然にも非番だった同僚が郊外から車で駆けつけてきたため、病院まで運んでもらえたのだ。


 それでいち早く傷の治療を受けることができたのだが、南の空を赤く染めていた炎の色が収まってくると、やはり同僚や関わりのあった教え子たちの様子が気になり始めた。同時に逃げる時に助けを求める人々の声にならない呻き声が、今になって鮮明によみがえってくるので、何ができるというわけでもないが、居ても立ってもいられなくなった。友人は既にここ数日市内での作業に従事しており、車はない。学校までは徒歩で行けば1時間ほどかかるが、それでも様子を見にいかずにはいられなかった。


 市内に近づくにつれ、うるさい位に聞こえていた蝉の音は、ほとんど聞こえてこなくなった。 同時に段々と濃く漂ってくるのは焼け焦げた臭いと有機物が腐った臭い。寛明は額から流れ落ちた汗が邪魔になり、眼鏡を外し肩にかけていた手ぬぐいで汗をぬぐった。





 住んでいた家の周りはほとんが崩壊、延焼で跡形もなかった。諦め半分で立ち寄った自宅は半壊、半焼で済んでいたのは、奇跡に近かいと言って良い。気になっていた書物の確認を簡単に済ませ、瓦礫の下に隠してから寛明は市の中心部へ向かった。






(ここが、廣島だと………?)


 軍都ではあったが、市内を通る川辺には夏の日差しを浴びて青々とした葉を茂らせた木々が立ち並んでいたはずだがどこも夥しい数の遺体がまるで虫がたかって折り重なるように積み重なっており、腐臭を放っている。


 空襲が無かったが故に、まだ市民の生活の場としての「都市の色」が残っていた街は、すっかり色が抜け落ちてしまっていて、まるで現実感を感じられなかった。数日前まで歩いていたそこは、遠く宇品港まで見渡せるほど跡形もない廃墟と化していて、灰色の大地に真っ黒く焦げた塊がいくつもいくつも転がっている。それらの「黒」の中に、ところどころ「赤」が見える。よく見ればそれは焼け焦げた人馬から覗く肉の色だった。また、重度の火傷でこと切れた者も「赤」く腫れあがって道端のそこかしこに倒れたままになっていた。中でも心を締め付けられるのは、我が子を守ろうとしたのか、子どもを胸に抱え込んだ遺体だ。地面に伏せているものの中には、必死で地面を素手で掘ろうとした跡があり、爪が全て剥げていた。また、上半身だけが消し炭となり下半身は幼いそれそれのままの、見るのも耐え難いものもあった。


 

(自分が…自分たちが助かったのは、運が良かっただけだ)


 息子がガラス片で大怪我を負ってはいるものの、幸いにして医者にいち早く診せる事ができたため命に別状は無さそうだった。しかしあの時、少しでも家の中に入るのが遅かったら、自宅がビルの陰でなかったら、同僚が車で通りかからなかったら、果たしてどうなっていたか。





 街中にある校舎は、鉄筋製のもの以外は全壊、焼失していた。残っている僅かな壁には、夥しい量の伝言が隙間なく書かれていた。そのほとんどは「〇〇を探しています」といった消息を訪ねるものであったが、中には「〇〇にいる」といったものもあった。つぶさにそれらを読んでいると、負傷者を比治山方面へ移送したと書いてある一文を発見した。


 比治山は市街地の東2km弱に位置する71mほどの小高い丘である。この小さな山が、原爆の閃光(熱線)と爆風を遮る形となり、西側の被害が比較的軽かった。また、一面焼け野原となったが故によく目立ち、多くの被爆者が避難していた。


 その比治山に廣明はまた歩いて向かったのだが、そこはまた生と死の間を彷徨う者達が何人いるか数えることもままならい様な状態だった。辺り一面を埋め尽くすのは声にもならぬ呻き声と、血や膿、肉の腐った臭い。こと切れた者が次々とリヤカーに積まれてはどこかに運ばれてゆく。街が炎に焼かれたあの日も地獄であったが、生き延びた今もまた、地獄は続いていた。


 遺体と怪我人が入り混じって横たわる中を進んでいると、「山瀬先生!」と呼ぶ声があった。声のかかった方を見ると、そこには包帯を巻いた同僚の姿があった。


「君か。良く助かったな」

「ええ、私はたまたま地下壕に降りていましたので軽症で済みました。しかし外で作業していた者は殆どが即死です。屋内にいた者も倒壊した建物の下敷きになったり、吹き飛ばされたガラスなどで大怪我を負っています」

「そうか…」

「今は比較的軽症で済んでいる者たちで看病をしている最中なのですが、最早治療薬も切れており、わずかに傷口に油を塗るくらいしかできません。傷口にハエもたかってきていて……」


 そこまで言うと、同僚の教師は声が詰まって喋られなくなってしまった。廣明は「よく生きていてくれた」と一言だけ言うと、学校の傷病者のいる一角に案内してもらった。数にして30人余り。ここに来てから半数は亡くなってしまったらしい。


 廣明はただ黙って、しかしその顔には確かに怒りの表情を浮かべながら、横たわる生徒と同僚達に声をかけ、少しでも痛みが和らぐ事を願いながら濡れた布を火傷にあてる作業を繰り返していた。




 元より、戦争に負けるとは思っていた。

 しかし、こんな負け方をするとは、思っていなかった。

 それは、恐らく戦場に出ていない誰もが思っていた事だった。




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