21. 猫の足跡
セントラルエリアにかつてない規模で悪魔祓いが出没したあの夜から二週間が経過した。今は8月30日の午前9時。まだまだ暴力的な暑さはとどまることを知らない。僕はセレスチャル:イーストエリアのどこかにある雑居ビルの前にいた。僕の送迎という名の護衛を務めてくれている八咫烏職員に頭を下げ、車が無事に発進していく様子を見守る。入り組んだ路地の中に門を構えるビルに入る際にも、人目につかないように最大限気を付ける。雑居ビルの古びた螺旋階段を上り、三階にある事務所の扉の前に立った。扉には可愛らしいデザインの掛看板が飾られており、「探偵事務所 『猫の足跡』」と書かれている。この扉を開けるのにもすっかり慣れた僕は「おはようございます…」と近所迷惑にならない程度の音量で挨拶をしながら、事務所内に足を踏み入れた。
「おはよう!シグレ君。今日は早めに来てもらって申し訳ないね」
事務所では物腰柔らかな男性が、デスクで資料の整理を行っていた。彼はR.W.M.U.の任務における協力者であり、この事務所で働く僕の上司だ。
「全然大丈夫です。ヨシミツさん」
ヨシミツさんは優し気な雰囲気を醸し出す細い目を、さらに細めて申し訳なさそうに笑った。加藤善光。このこじんまりとした探偵事務所を営む、無名の探偵だ。その正体は九命猫の極秘情報を管理する特別な仕事を与えられた八咫烏職員である。ここ「猫の足跡」は八咫烏の所有物であり、九命猫の覆面事務所となっている。主にイーストエリア内の交番に駐在する警察官にセントラルエリアの状況を伝えるための暗号文を作成したり、セレスチャル市民の生活を支える大企業など、都市の存続のために八咫烏から国家機密を共有されている協力機関への報告文書や依頼書を作成、送信を行っている。この協力機関の中には僕の家系が代表を務め続けてきた製薬会社「鷹崎グループ」も含まれている。八咫烏は鷹崎グループの技術を用いて、国家機密の漏洩を防いできた。僕はなぜ叔父が八咫烏の要請を受けたからではなく、自ら協力を申し出たのか疑問だった。僕は脳裏に浮かんだ、冷酷な叔父の表情を振り払って仕事に取り掛かる準備をする。今日はコハルの早番を交代して、いつもより早い時間に出勤した。コハルは僕たちの拠点で、カスミが間違えてしまった書類の保管場所の整理を手伝ってから来るそうだ。僕もそろそろここでの仕事に慣れてきたことだし、早番を任されてもいい頃だろう。ヨシミツさんからは「どうせ朝に行う仕事は少ないから、いつも通りでいいのに」と言われていたが、ここでの時間は割と好きだったので、一時間早く来ることも苦痛に感じなかった。
「早い時間に来なくて大丈夫、とは言ったけど…やっぱりこの事務所に一人は寂しいからシグレ君が来てくれてよかったよ」
ヨシミツさんはいつの間にか僕専用になっていた水色のマグカップに、はちみつ入りのホットミルクを注いでくれた。彼は上機嫌に鼻歌を歌っている。僕はヨシミツさんが不機嫌になっているところを見たことがない。彼は突如舞い込んだ仕事にも、本庁からの無理難題にも苛立ちを見せることなく、目を回しながらすべてこなしていく。彼は自分が幸運な人間だと言っていた。きっとこの仕事が好きかつ、心根の穏やかな人なんだろう。僕はヨシミツさんのことを心から信頼している。
「昨日連絡を入れたけど、また共有させてもらうね。今日は午前中、協力機関のお偉いさんの文書を整理して、本庁に送るための作業をするよ。午後は探偵としてじゃなく、八咫烏の人間として臨時被災者施設の入居者たちに物資を配るお手伝いがあるんだ。入居者がかなり多い施設だからね。この事務所はそこから近いし、人手が欲しいからって頼まれちゃった」
ヨシミツさんは笑いながらため息をついた。
「一応断ろうとはしたんだけどね。うまく丸め込まれたというか、有無を言わさずにというか…。もっと威厳があるような顔だったらよかったな」
ヨシミツさんは頬を掌でこすりながら苦笑いをした。彼は自身でも気にしているほど童顔だ。僕が初めてここに来た時、彼の年齢を聞いて驚愕した覚えがある。ヨシミツさんのキャリアを考えれば、彼は妥当な年齢をしているのだが、それにしたって若々しすぎる。ヨシミツさんはもともと本庁勤めだったとはいえ、こんな小さな事務所で働いていたら下に見られてしまうこともあるのかもしれない。しかし周りから雑な扱いを受けたとしても、彼は機嫌を損ねる様子はなかった。
「ごめんね。シグレ君はあまり外出してはいけないのに…」
ヨシミツさんは申し訳なさそうに僕を見た。
「い、いえ!ていうかここに仕事しに来てるくらいだし、もう関係ないまでありますし…」
そう。もはや世間は僕のことなど誰も覚えていない。そう思えてしまうほど、インターネットに僕に関する投稿が現れることはなくなった。僕自身も仲間たちの協力で、家出をしてきたときのみすぼらしい恰好から、違和感なく都市を歩くことができる外見になれた。無造作に切り刻まれて長さがそろっていなかった髪を短く整え、目立っていた白髪ごと地毛とは違う色に染めた。着古したぼろを捨てて、いくつか普段着を支給してもらった。組織のみんなと同じ制服も手に入れた。僕は覆面事務所で働いているから着る機会は少ないけれど、今日がその数少ない機会だ。僕はもう規制線を飛び越えたときとは別人だった。身なりも、心構えも。
「コハルさんは10時に来るって連絡があったよ。二人が揃ったら業務の説明をするから、それまで事務所の掃除を手伝ってほしいな」
「はい」
僕は眠っていたロボット掃除機を起こし、自分も布巾を手に取る。ロボット掃除機は寝起きだというのに、意気揚々と床を綺麗にしていく。僕も負けじとテーブルやキッチンを磨いていった。
「~♪」
ヨシミツさんは鼻歌を歌いながら、花瓶を拭いている。掃除を自分たちの手で行うなんて、旧時代的だと最初は思っていたが、やってみると案外悪くないことに気が付いた。ヨシミツさんは郊外の生まれだ。彼の実家ではこのように人間が掃除をしているのだろう。僕はしばらく閉鎖的な生活をしていたからか、未知の経験をするたびにわくわくする身体になってしまったようだ。九命猫の人間になって、僕は本当に良かったと思う。飢えることのない生活、やりがいを感じる仕事。ここには必要な教育の機会を失った僕を咎める人間はいない。できることならずっとこの日々が続いてほしい。しかし、僕にはやらねばならないことがある。この平穏な暮らしを捨てることになっても、成し遂げなければならないことがある。僕は汚れた布巾を水で洗い、力いっぱい絞り上げた。
二週間前、僕はトバリたちと任務に出ていた際突然気絶したらしい。僕が目を覚ますと拠点の天井が見えた。初めて拠点に来た時と同じように、僕はソファに寝かされていた。窓から朝日が差し込んでおり、僕はいつの間にか拠点に戻ってきていたことと、夜が明けていたことに驚いた。僕が目を覚ますと仲間たちが一斉に駆け寄ってきて、安堵の表情を浮かべていた。トバリ曰く「ボクたちが少年の様子を確認したら、キミは屋根の上で意識を失っていたんだよ」とのこと。中でもカスミの慌てる様子が尋常じゃなく、「流れ弾がいっちまったのかと思ったぞ!」とひどく心配していたようだった。何はともあれ、R.W.M.U.一班はセントラルエリアを徘徊していた悪魔祓い30人を掃討し、囚われていた20人近い行方不明者を全員保護した。僕たちの任務は成功したのだ。行方不明者たちは不本意とはいえ、セントラルエリアに立ち入ったことを理由に記憶を消されることになる。多少の混乱を招くだろうが、燦然世代に拘束されたことで味わった、様々な恐怖を忘れることになるのは幸いかもしれない。今では彼らが安寧の中にいることを願うばかりだ。
(帰る家がある人も、そうでない人も)
僕がこの事務所での仕事に就くことは、八咫烏の下で訓練を受けていないため戦闘能力がないことと、僕自ら志願したことを考慮して決定された。初めは「規制線の外に出るなんて入隊の目的から外れてしまう」と仲間たちから反対されたが、僕が「顔を無理やり変えることになっても、ここがいい」と譲らなかったため、毎回の送迎と護衛を条件に「猫の足跡」で働くことを認めてもらった。トバリは「少年の意思を尊重しようじゃないか」と一人だけ賛成の意思を貫いていた。信頼できる護衛として八咫烏本庁に出向いた際に車に同乗していたマサヨシの部下を寄こしてもらったのだが、マサヨシは「手続きが面倒だ…」などトバリに電話越しで抗議していた。しかし、マサヨシがトバリに逆らえるはずもなく、僕はこうして無事に望んだ職場に配属されている。僕もさすがに申し訳なくなり、車を運転しているマサヨシの部下に謝罪をしたことがあったが、当の本人は「特別給与がもらえるので、お気になさらず」と言っていた。むしろオフィスに箱詰めにされるより、車で外に仕事に行く方が好ましいようだ。マサヨシの苦労は尽きないだろう。
僕がなぜ危険を冒してまでこの事務所で働くことを決めたのかは、二週間前の出来事に起因する。僕は屋根の上から拠点のソファの上に移動する前に、奇妙な光景を見た。いつかの夢の中で出会った、僕がこの組織に入る原因を作った、自らを神と名乗る少年。彼が現実で僕の目の前に現れたのだ。僕は彼と目が合った瞬間身体から力が抜けて、意識が遠のいていった。抗うことはかなわず、ただ暗くなっていく視界の中「あの子の過去を知る者を探せ」という言葉を聞いた。神の少年が言う「あの子」とはトバリのことに違いないだろう。彼は出会った時からトバリを気にかけている様子だった。なぜ少年がトバリに執着しているのか、トバリは彼のことを知っているのか。少年に関して僕は何もわからない。しかし僕たちの目的は共通している。「トバリを救うこと」だ。神の少年が僕に直接授けたあの言葉は数少ない手がかりになる。僕は彼の駒になるつもりはない。この手で、自分の手でトバリを救うべく生きると決めた。
(僕があの神を逆に利用してやる)
トバリが一体どんな呪いをかけられているのか、ましてや本当に呪いが存在しているのかすらわからない。心のどこかでは「僕は騙されている」と感じることもある。それでも僕は彼女が苦しんでいるなら見過ごすわけにはいかない。彼女のことを、もっと知りたい。そう思った僕は拠点で彼女に過去のことを聞いてみた。トバリは突然のことに不思議そうな顔をしたものの、僕を疑うことなく話してくれた。
「ボクはご存じの通り、大規模テロによって家族を失った。それから臨時被災者施設で暮らしていたが、ある日ボクが入居した施設に八咫烏職員が訪問してきたんだ。彼らは入居者何人かを個別で呼び出し、ボクもその中に含まれた。そこでこう言われたんだ。『君の家族を殺した敵に復讐する機会を用意するといったら、君はどうする?』とね」
そのあとはセントラルエリアで戦う者ならば妥当な動機を僕に教えてくれた。「家族を奪われた憎しみから、燦然世代への復讐を誓った」。トバリは他の仲間たちと同じような理由で、九命猫に所属することを決めたようだ。しかし本人から過去を聞いたものの、あの少年から接触してくることはなかった。どうやらトバリから直接聞いた話は、僕が求めていたものではなかったようだった。過去とは一体どこまで及ぶのか。彼女が生まれてからテロの被害者になるまで、すべての軌跡をたどる必要があるのだろうか。僕はなりふり構わずに、過去について尋ねた翌日にテロが起こる前の彼女の生活について尋ねた。やけに必死な様子の僕を見て少し可笑しそうに笑いながら、彼女はかつての生活について教えてくれた。しかし、彼女はいたって平凡で幸せな少女であったことしかわからず、手がかりを得ることはできなかった。
「ボクはセレスチャルの生まれでね。両親と兄と暮らしていたんだ。都市の学び舎に通いながら、時折家族で郊外に旅行に行ったりもした。…キミは郊外に訪れたことはある?今度皆で行けたらいいね」
(トバリはおそらく、自分の呪いについて何も知らない)
そう思った僕は本人から情報を引き出すことを諦め、トバリを知る者たちに接触して、しらみつぶしに彼女についての情報を探していくことにした。だから外部の人間と関わる機会が多いこの事務所を選んだのだ。トバリについて知る者が訪れる可能性がわずかにでも存在するのなら、僕はそれに縋ってやる。
掃除が終わり、業務開始時間までゆっくりしていると、コハルが事務所に出勤してきた。彼女は他の仲間たちとは違い、ラフな私服姿だ。八咫烏の人間であることを隠すため、僕たちはこの事務所に来るときは制服を身につけない。だから僕が制服を着る機会は滅多に来ないのだ。
「おはようございます」
コハルは腰まで届く長い髪を一つまとめにして、パーカーにジーンズという出で立ちだ。可憐な顔立ちとは打って変わって、シンプルで動きやすい格好を好むらしい。今の格好もとても似あっているが、きっと華やかなスカートもよく似合うだろう。いつか見れたらいいなと僕はひとりでに思った。
「おはようコハルさん!今日は午後から外勤だよ。制服は持ってきた?」
「はい。ちゃんと持ってきました」
「さすが!」
二人は付き合いが長いからか、お互いの距離感を把握したような会話をする。二人の間にも確かに信頼があることがわかる。
「おはよう、シグレ。変わってもらっちゃってごめんね」
「おはよう。全然大丈夫」
コハルはぱたぱたと足音を立てながら身支度をした。この事務所には彼女専用のスリッパも用意されている。コハルはここを第二の家として気に入っているようだった。
(コハルも、ほかのみんなもトバリの過去について詳しいことは知らなかったんだよな)
僕はトバリ本人に聞いた後、一班のみんなやヨシミツさん、トバリと通話中だったマサヨシにまで、トバリの過去について尋ねた。しかし、僕よりずっと彼女と関わりの深い彼らでもトバリの過去について知っている者はいなかった。足掛かりを失った僕は、この事務所で一から情報収集を始めることにしたのだ。
「よし!それじゃあ二人とも、今日も頑張ろうね!」
ヨシミツさんがいつも通り明るく声をかけてくれた。コハルと僕は彼に頷いて、仕事に取り掛かる。僕はヨシミツさんの説明を聞きながら、この後に待っている外勤の時間への意欲を高めていた。
(今日は多くの人間が集まる場所に行ける。八咫烏の人間はもちろん、施設に住んでいる市民とも接触できる。わずかにでもいい。トバリに関する情報を集められるなら、僕は手段を選ばないつもりだ)
事務所の机の上にまとめられた書類を分別しながら、僕は密かに決意を固めていた。




