36話 ロゼ……。絶対、あんたのところに行くから
「ってことはロゼも生きているのか」
どうすればいいのかを目まぐるしく考えていたモネだったが、その一言で思考が停止した。
ゆっくりと視線を背後に向ける。
茶色の瞳と目が合った。
まるで虎目石だ。
(ああ、この目だ)
空気ごと飲み込んだ息が喉の奥で詰まる。
風貌はいたって普通だ。この国の王太子レオニアスのように目を奪われるような美しさを持っているわけでも、第三王子のサリュのように威風堂々とした体格をしているわけでもない。
どこの国にいてもその国の人間に見え、また、思い返すのが難しいほどに至って普通の容姿をもつ男。
だが、この虎目石に似た鮮烈な光を宿す瞳に見つめられたら。射すくめられたら。
動けなくなる。
意図に反した動きをしたらあっさりと喉元に食らいつかれる。
背後にいるのは、まぎれもない清掃人の頭領であり、自分の父だ。
「ロゼは死んだわ。拷問を受けてね。助けられなかった」
悔恨をにじませてそう呟く。
知られてはいけない。
この部屋にロゼがいることを。
彼女が生きていることを。
「あ、そう。ふぅん」
背中からナイフが離される。だが同時に肩を抱かれて、下に押し付けられた。
仕方なく片膝突く。
「さて、竜紋を持つお嬢さん。一緒に来てもらおうかね」
頭領はモネ越しにシトエンに笑いかけた。
シトエンは相変わらず血まみれの男にナイフを突きつけられたままだ。
「……あなた、ジル修道士ですか」
シトエンはじっとりとした汗を額に浮かべながらも、気丈に尋ねた。
「そう。ティドロスの王城内でも出会ったよね。宰相殺しのとき」
「あ………」
息をのむシトエンに、頭領は呑気に笑った。
「さてさて、じゃあ、いまからこの布にくるまってくれる? 患者として運び出すからさ」
頭領がそう言ったあと、周りを取り囲んでいた男たちがばさりと布を広げた。その語尾をいくつもの声が飾る。
「シトエン妃、吐血した患者を移送ですか! やはり重症だったんですね!」
「担架はあります!」
「状態悪化のために診療所に運ぶそうだ! シトエン妃の命令だ!」
騒ぎ始める男たちを見て、モネは足首に仕込んだナイフにそっと手を伸ばした。
腰の剣は無理だ。手を伸ばせば頭領に気づかれて首を掻かれる。だが足首なら……。
「ああ、そうだ。竜紋のお嬢さん。黙ってついてきてくれれば、お国の侍女は無傷で返しますよ」
頭領のにこやかな声にモネは動きを止めた。シトエンもピクリと肩を震わせる。
「イートン……? あなたたち、イートンを……!」
「おっと、動かないで。ほら、早くこの布にくるまって」
立ち上がろうとしたシトエンは血まみれの男によって引き倒され、別の男の手によって布にくるまれる。
その間に男は顔を拭ってきれいに血を取り、素早く服も脱いでシャツ一枚になる。
吐血した男の代わりに、手早く布でくるまれたのはシトエンだ。
そして手早く担架に乗せられた。掛け声のもとに持ち上げられる。
「しー。静かにしないと殺しちゃうからね? あの侍女を」
頭領は、担架の上でもがくシトエンに布越しに声をかけた。
ぴたり、と。
シトエンが動きを止める。布にくるまれて表情は見えないが、荒い息だけはモネにも聞こえてきた。
「シトエン妃……っ」
モネが担架の一端を握る。声が聞こえたのか、もぞりと布が動いた。モネはほっと息を吐き、その布を撫でる。
「シトエン妃、私がお側に。離れません」
「ついてきてもいいけど、騒ぐと殺すからね?」
頭領が、あはははと笑い、男たちに命じた。
「さきに行け」
「診療所に移動だ!」
男たちは頭領を残し、担架を担いだ。バタバタと室内を移動する。
患者も付き添いも。
誰もが道を開けてくれる。
開けてくれるが、誰もいぶかしんではくれない。関心を持ってはくれない。
シトエンがいない、ということに。
そもそも自分のことで手いっぱいなのだ。中には、「さらに重症化したら診療所に運んでくれるんだ」と小声で話し合っている者さえいて、モネは罵りたい。
気づけ、と。治療されればおしまいなのか、と。
治療してくれていたシトエンがいまどこにいるのか、興味もないのか。
そんな中、強烈な視線を感じた。ロゼだ。
だが振り向くわけにはいかない。
ロゼは死んだ。
そう思わせないと、この父親はなにをしでかすかわからない。
モネは前だけ向いて足を動かす。
担架は男たちによって部屋を出た。
そのまま廊下を走り、別館を出る。
(どこかに馬車でも待たせているのかしら。それに乗せて誘拐するつもり?)
モネは視線を走らせるが、まだ領主館は鎮火していない。火こそあがっていないが、くすぶる煙が視界を煙らせて靄がかかっている状況だ。
しかも時間帯が悪い。
夕闇が迫っていた。
だが、唯一の幸運。
それは、別館内よりも格段に人がいるということだ。
警護や誘導の騎士。救助や連絡のために走り回る煤だらけの執事。水桶を持って走るメイド。
そのせいだろう。
男たちはどんどんと速度を上げ、目的地に行こうとしている。見咎められる前に逃げ切るつもりなのだろう。
止めるならここだ。
自分が転べばいい。そして担架を落とし、布を剥げばシトエンの姿を認める使用人や騎士がいるだろう。
ぐ、と担架を握る手に力を込める。
落とせばシトエンも傷を負うかもしれない。だが誘拐されるよりましだ。
(いまだ)
足を止め、強引に担架をひっくり返そうとした矢先。
じくりとした痛みが脇腹に走った。斜めに視線を向ける。清掃人のひとりなのだろう。執事の姿をした男がモネの脇腹にナイフを突き立てていた。
「走れ」
どん、と背中を押される。
鈍くしつこい痛みが脇腹にとりついた。腰から膝にかけて水が流し込まれたような感覚がある。
「……く」
強引に走らされながら、モネは痛みに顔をしかめた。
しかめながらも、担架を握る手を緩めない。
いまさら命など惜しくない。
そもそもシトエンにもらった命だ。いまここで差し出さずにどうするのか。
痛みを振り切り、足を前に進ませる。これ以上の傷は致命傷だ。ここぞというときのタイミングを逃せば、ただの無駄死に。それだけは避けたい。
命はひとつしかない。
有効に利用するためには、勝負は一度きり。
モネは歯を食いしばった。周囲の男たちに足をあわせて必死で動かす。
逆らわないと思ったのか、背後の男がナイフを緩める。距離が生まれた。この位置なら、一撃を食らう前に、モネの蹴りが届く。そのあと素早く担架を転倒させるのだ。
(ロゼ……)
はあはあと荒い息を漏らしながら、脳裏に浮かんだ妹の姿に詫びた。
自分が死んだらもうあの子を守る者はいない。
天涯孤独になってしまう。
『あたしはもう大人なんだからね!』
子ども扱いしないで、と口をとがらせるロゼ。なにを言うのかと叱る自分。
まだまだ幼い。まだまだ心配だ。まだまだ手元で大事に育てたい。
しかしここでお別れらしい。
自分にできるのは、シトエンを救うかもしれない一手を打つだけ。そこには自分が逃げる余裕もロゼのもとに戻る時間もない。
(ロゼ……)
神という存在があるのなら、お願いだ、とモネは強く願った。
自分が死んだら、魂をしばらく妹のところにとどめておいてほしい、と。
妹が大人になる、たかだか数年でいい。
ずっとそばになどと願わない。
彼女が大事な誰かを見つけ、そしてその誰かに守られるまで。
そんなたった数年だ。
その数年だけでいい。
そのあと、地獄でもなんでも行く。
お願い、神様。
妹が大人になるまで、側にいたい。
妹を守ってやりたい。
(ロゼ……。絶対、あんたのところに行く)
死んでも絶対に。




