1話 リハビリがてらの水彩画
◇◇◇◇
ぴたりと。
シトエンは、俺の後ろから手を回して背中に密着している。
俺とシトエンの間に空間は皆無。
どう考えてもこの体勢は……。
彼女が俺をバックハグしている……!
彼女の体温を感じる。
なにより……。
なにより……っ!
俺の背中にぎゅっと押し当てられた彼女の胸が……!
やわらかな胸の感触が!!!!!!!
ダイレクトに脳髄につきささる!!!!
否が応でもこう……思い出してしまうじゃないか! この感覚につられてシトエンのむ、胸……その!!!! なあ!?!?
やめろ、散れ、妄想! 下がれ、煩悩! 邪念よ、消え去れ!
な、なんかこう崇高なこと考えよう! 気高いというか、尊いというか。
そう……だな、竜紋? そうだよ、シトエンの竜紋。あれはタニア王国でも選ばれた人間にしか施されない貴いものだ。
高貴で、やんごとないものだ。
素晴らしい。
さすがシトエンだ。
竜紋は国家レベルで秘匿されているから、衣服で隠れる位置に施されるのがほとんど。だから誰がどこに竜紋を持っているのかはわからない。
知っているのは国王と家族、配偶者だけ。
俺はもちろん知っている。
シトエンの夫だからな!
シトエンの竜紋は彼女の右胸のきわきわのところにある。
見たことだって何回も何回も何回も何回もあるし? さわったことだって何度も何度も何度も何度も何度だってある!!!
何度でも言うが!!!!
俺は!!! 彼女の夫だからな!!!!!
シトエンの胸、やわらかいんだよなぁ……。
あたたかくて、肌はしっとりしてて。触れたらまた、白い肌がほんの少しだけ桃色になったりして……。
って、だから俺はなにを考えているんだ!!!
邪念妄念俗念雑念よ、消え去れ!
俺はいまから……!
水彩画を描くんだ!!!!
ぶるぶると首を横に振ると、「あ、サリュ王子」と困ったような声をシトエンが上げる。
「サリュ王子、もう少し力を抜いて……。わたしがほら、手を添えていますから大丈夫ですよ」
耳元で彼女が話す。
その声は吐息を伴って俺の鼓膜を震わせ、耳たぶを撫でた。
その甘い感覚に、ふわりと酔いそうになる。
どんな度数の高い酒よりもシトエンの声と吐息に勝てない。
もうなにもかも放り出し、シトエンをかっさらって寝室に直行したい!!!!
ベッドに押し倒してもいいんじゃないか⁉ もう十分耐えただろ、俺!
「そっと、筆の先を紙に……」
水彩画なんて描いてる場合じゃないんだけど⁉
いやいかんいかん! 集中しろ、俺!!
「サリュ王子、どうしました?」
「どうもしませんっ!」
「ひゃ……あ!」
「わ! シトエン⁉」
気迫を込めて発声したら、びっくりしたシトエンが俺の離れたもんだから、バランスを崩して前のめりに倒れそうになる。
慌てて筆を放り出して彼女を受け止める。
「シトエン、大丈夫?」
「わたしこそ。サリュ王子も大丈夫ですか?」
そうやって互いに「大丈夫?」と確認しあっていたら。
「シトエン妃、汚れませんでしたか?」
「大丈夫? シトエンさま。びっくりしたよね、サリュ王子が急に大声上げたりするから」
モネロゼの冷ややかな声。
シトエンがしっかりと床に座ったのを確認し、じろりと姉妹に顔を向けた。
タニア王国で保護することにした元暗殺者の姉妹。いまではシトエンに忠誠を誓い、護衛兼侍女をしてくれている。
シトエンの侍女であるイートンが別の用件に対応しているから、この時間は姉妹が侍女がわり。
タニア風にアレンジしたメイド服もだんだん板についてきたのはいいんだが、なぁんかこう、俺を敵視してるんだよなぁ。
「やはり熊に芸を仕込むのは至難の業かと」
「サリュ王子に絵心ってないと思うし」
腹立つなぁと、ぎろりとにらんでやるが、このふたりはお構いなしだ。
モネは長い髪を頭の後ろできっちりと結い上げ、腕を組んで俺を凍てつく目で見ている。
腕を組むとでかい胸がむぎゅっとなるが、俺の団員のなかで邪な目で見るやつはいない。なにしろモネはナイフの使い手だ。スリットの深く入ったタイトスカートの下にはいまもしっかりとナイフが装着されているし、ハイヒールを履いていても足の構えは完璧だ。
その妹のロゼはというと、まだまだまだまだこどもだ。
姉のモネとお揃いのメイド服を着ているが、こっちは幼さが抜けきれん。髪はふたつわけだし、膝上のスカートから出た足だってほっそいのなんの。ときどき大人びたことを言ってみたりするが、それだって子どもの証拠だ。
それなのにラウルはやけに警戒していて「団長に近づくな」ってビシビシ叱るんだよな。仔犬がじゃれてる感じだろ?って思うんだが。
ラウルは全方位的に警戒を怠らない。職務に真摯に向き合っている。いい男だ。そうそう。早くあいつにも嫁を探さねばならん。
「そんなことありませんよ、モネさん、ロゼちゃん。ほら、この大胆な構図。とても晴れ晴れとした気持ちになります」
俺VSモネロゼでにらみ合っていたら、シトエンの軽やかな声が室内に流れた。
なんとなく一時休戦だ。
ユキヒョウのようなモネも、やんちゃなプーマのようなロゼも急におとなしくなる。
シトエンの声や言葉には争いをおさめる力がある気がする。彼女はきっと天界から遣わされた平和の女神に違いない。
「ね? ほら。まだ下描きですが、それでものびのびとした良い絵です」
彼女は床にお尻をぺたりとつけた座り方で、両手に持っていた画用紙を見ていた。
それは、俺がシトエンに手ほどきを受けて描いている途中の水彩画だ。
約20日前、賊の襲撃を受けて瀕死の重傷を負った俺。
シトエンが前世の知識を駆使して治療にあたってくれたから一命をとりとめ、今日もこうやって嫁を愛でる生活を送ることができている。
俺としてはもう全然問題ない。そりゃ多少傷跡がつっぱるような感じがするけど、そこが破れて血がぶしゃーとかなることもないし、貧血とか目眩もない。食事も普通に全量食えるし、出るものも出る。
だから徐々に仕事量を増やして通常業務まで戻りたいのだけど。
文書仕事はともかく、馬に乗ったり格闘訓練に参加したりするのをシトエンは心配する。
『せめてもう少し運動量を落としていただけませんか? 一か月経てばわたしもなにもいいませんから』
目を潤ませてそんなことを言われれば俺はなにも言えない。
そりゃ早く業務復帰したいし、一か月近くも身体を動かしていないと格闘に関する勘が鈍りそうでちょっと嫌ではある。
なにしろ、俺に傷を負わせたあの男。
あいつを今度こそぶん殴ってやらなければ気が済まない。
ルミナス王国の宰相が依頼してシトエンの命を狙っていたらしい暗殺集団の頭領。
白煙の中に消え、それ以降消息はつかめていない。
宰相亡きいま、シトエン暗殺騒ぎはひと段落するのではないかと思われているが……。
俺は嫌な感じがしてならない。シトエンのことをいまだに狙っている気がする。
再び対峙したときのためにも、できるだけ早く原状復帰しておきたいのが本音だけれど。
一方で、嫁を悲しませたくはない。
幸いなことに、というか。団の業務は副官であるラウルが完璧にこなしてくれる。
『団長はシトエン妃の護衛も兼ねてゆっくり養生してください』
そう言ってくれるし、一番ラウルに迷惑をかけていたヴァンデルも自分の領地に戻ったので、ここのところは劇的にラクになったようだ。
なので。
今日はリハビリというか、シトエンに『俺はゆっくりと過ごしていますよ』とアピールし、かつ彼女の安全を間近で確保するためもあって、彼女に教えを乞うて水彩画にチャレンジをしていたのだ。なんでもタニア王国では、油彩より水彩画が主流なのだとか。シトエンも幼いころからある程度の手ほどきはされているらしい。
「大胆な……構図」
「ものは言いようだよね、お姉ちゃん。あれはないわー」
モネロゼがひそひそと言っているが……。
聞こえているぞ⁉ そういうのはもう少し俺をおもんぱかって小声で言わんか!
とは言いつつ。
俺もあんまり何とも言えない……。
シトエンからは『葉っぱをテーマに自由に描きましょう』と言われたから、画用紙にどーんと大きく二枚の落ち葉を描いた。
うん、二枚。
……最初はあれだよ、地面に敷き詰められた落ち葉を描こうと思った。色とりどりの落ち葉のじゅうたん。そんなイメージ。
で、実際に見本の落ち葉をよく見ながら描いたら……。
なんかこう……縮尺を間違ったというか。
落ち葉と同じサイズで描けなかった、というか。
なんか見れば見るほど大きく描いてしまって画用紙の余白がなくなった。
葉っぱ二枚で画面いっぱい。おかしい。いつの間にか拡大して描いていた……。
「色をつけると、とても素敵になると思いますよ!」
シトエンが俺を見てにっこりと微笑む。
「シトエン、かわいい……」
いかん、口から洩れた。
「え? あ……りがとう、ございます……?」
途端にシトエンは顔を真っ赤にしてうつむく。
うがあああああああああ!!!!!!!!
可愛いが過ぎるだろう!
ほかに表現がわからん!!!
可愛いぃぃぃいぃぃぃぃぃ!!!!!!!!!
うちの嫁、可愛いいいいいいいいいいい!!!!
大きな紫色の目も、つやつやした銀色の髪も、真っ白な肌も! 小さめの顔とか、長いまつ毛とか! 細くて器用そうな指も、すっと伸びた首から鎖骨にかけての色っぽさとか‼
ちょっと待ってくれ! 混乱してきた!
なんでうちの嫁はこんなに可愛いのか!!!
可愛いって褒めたら、さらに可愛くなるとはどういうことだ!!!!
もっと褒めたらもっと可愛くなるとか⁉ 可愛さに限界値はないのか!!! それとも神々が作あげた限界をやすやすと突破してくるのか⁉
なんてことだ! 可愛すぎることが可愛いおそろしい!!!!
「サリュ王子、顔」
「あー……もうやだやだ」
モネロゼの冷静な声と永久凍土のような視線にようやく我に返った。
よかった。この猛獣姉妹がいてよかった。
そうでないと大事な嫁の前で正気を失うところだった。




