5
クラウブ・ロンテスキンは、執務室で所在無げに頬杖を突いていた。とんとんと指で机を叩く。脳裏には、マリーシア・レ・ユルフレーン嬢とのやり取りを思い起こしていた。
―――― 「でも、よろしければ後でなにがあったか教えてくださいね」
あのとき、彼女はクラウブのついた嘘を見抜いていた。彼女の背後にあった怪しい影、それを見回らせた衛士に異常なしと嘘をつかせたこと。微塵もおもてには出さなかったのに。
貴婦人など言葉ひとつではぐらかせる。心のどこかで女性を軽んじている、そんなような嘘のつき方をマリーシアは敏感に感じ取ったのではないか。
安易な嘘に対する応えは、やわらかな拒絶だったわけである。
無粋ではあるが、クラウブは呼び止めずにはいられなかった。
「マリーシア殿、どうかお怒りを静めて欲しい」
「いいえ、怒っているなんて……私に余計な心配をさせまいというお心遣いですもの」
彼の性格は人をだますような質ではない。マリーシアはそれを十分に承知していた。
「……まったく、貴女というひとは」
言葉短いが、それは彼女に対する賛辞であった。
「必ず、貴女に報告すると約束しましょう。それはさておき、こうなったらひとつ伺っておきましょう。ユルフレーン家の別邸には、男手がありますか? そう、荒事に強そうな」
警備上の必要性から、クラウブは確認しておきたかった点を訊いた。
「兄が……」
「兄上がいらっしゃる?」
マリーシアは、はっと今の立場を思い出した。やっぱりどこかで気が緩んでしまっているのだ、と反省した。
差した日傘で横顔を隠す。すらすらと真顔で嘘をつくには、今日のお化粧は薄すぎた。舞踏会に立つ貴婦人という、違う仮面をつけた自分でなければ。それに、こんな自分にクラウブの嘘をなじる資格もない。
「義理の兄なのです。私が預けられた家の」
マリーシア・レ・ユルフレーンは、ラーナッタ夫人の娘が婿養子との間にもうけた子供の双子の妹である。
いわく、双子を不吉と考える古い因習に固執した娘の夫は、男児を公爵家の跡取りとして残し、女児を市井の家の子供として養子に出した。
いわく、娘の夫は双子の女児の存在を周囲に口止めしたため、ラーナッタ夫人と亡きユルフレーン公はそれを知らず、孫娘を迎えることができたのはほんの数ヶ月前、偶然によってである。
舞踏会のお披露目でラーナッタ夫人が語ったマリーシアの贋の経緯は、そんなところだった。
「でも、今はそばにおりませんから……」
だから、育ての親の家に残った義理の兄は、そばにいない。
それらは図らずも、皇帝と宰相、そして近衛騎士があとから取ってつけた贋の経歴にぴったりと当てはまる嘘だった。
いま、荒野に旅立った兄は、そばにいない。一瞬見せたマリーシアの本当の表情を、背後の影への不安と取り違えたクラウブはすかさず言った。
「では、幾人か警備にそれとなく当たらせましょう。なにかあれば、私の名前を出してください。貴女に頼られるのなら危地へ赴くのも無上の喜びです」
と、マリーシアの物憂げな表情はみるみる笑顔に変わり、彼女はくすくすと笑いだした。
「ああ、なんとなく分かります。私も宮廷づきあいが長すぎたようだ。ご婦人にはなぜかついこんな言い回しばかり。昔の自分なら、恥ずかしさのあまり川に飛び込んでいたでしょう」
街での生活も長いクラウブは、マリーシアの心情も思い当たるところであった。
「いえ、ごめんなさいクラウブ様。なんだか私には勿体無くて、くすぐったいですわ」
その後、改めてマリーシア嬢を送り届けたクラウブは、いま執務室に思案顔で座っている。
さて、この件は誰に報告すべきなのか。マリーシア嬢はユルフレーン家の令嬢である。ヴィスターク陛下は彼女を愛でていらっしゃるのだろうが、公式には妃でもなんでもない。しかし、内々には陛下のお耳に入るようにしたほうがよいだろう。
ふと、クラウブは友人のことを思った。
新皇帝ヴィスターク五世陛下を快く思わぬ一党が、赤いカーテンの向こうには居る。友人もそれに与していたはずだ。舞踏会の夜にも、なにごとか仕組んだようだったが。
首を振ってクラウブは先入観を振り払った。
宮廷闘争の歴史を振り返ってみても、皇帝の寵姫たらんとして陰謀はめぐらされてきた。不幸にも命を落とした貴婦人とて居る。
庶民出の皇帝なぞ、という批判。批判までには及ばずとも、小なりとはいえ毛嫌いする向きがこれまではあった。また今後おこるであろう政変、おそらくは血なまぐさいものになるであろうそれを警戒して、娘を皇妃候補へ押したてようとしなかった名門貴族たちだったが、降って沸いたようなユルフレーン家令嬢の登場に、ここへきて皇帝との親戚関係という甘い蜜の味を思い出した諸侯が、自分の娘こそを皇妃に、と動き出しているのではないか。
と、執務室の戸が叩かれ、明瞭な声で来訪者は名を申告した。
「レイトリ・フェナー衛士、ご報告に参上しました」
「入れ」
その名前に覚えはなかったが、顔を見てすぐに思い出した。直立し、いまは制帽を脇に抱えている。頭髪は柔らかそうな金髪で、色白の顔は正直そうな人相の青年だ。マリーシア嬢といるときに出くわした衛士である。
「報告を聞こうか」
あのとき、クラウブはマリーシア嬢の背後に尾行の影を見た。そこでその場に居合わせたこのレイトリという衛士に見回らせ、そして彼はクラウブの意図に気づき、マリーシアの前では異常なしと報告した。そして、茶を馳走しようという言葉の裏の、あとで真の報告を、という催促の意味を汲み、彼はこうして現れた。
それなりの機転は利くようである。
レイトリ・フェナーの報告は長時間ではなかった。
簡潔、というよりは話す内容、彼の見たものが乏しかったからである。
「貴族風の身なりの男が、私が周囲を見渡した先の角へと消えるのが見えました」
「顔は見たかね?」
「はっ。横顔ではありますが確かに見ました」
「どんな様子だった。慌てていたとか、そういった点だ」
クラウブの挙げた例は、レイトリの持った印象と正反対だったので、彼は上官の期待に応えられないのではと、声を落とした。
「は、むしろ冷静に、私の顔を確認して立ち去りました」
レイトリはその様子を脳裏に思い浮かべた。あわてる風も無く、大またで壁のふちに消え去る横顔。帽子を目深にかぶっていたが、鋭い眼光と目が合った。ぞくり、と本能的に緊張が走る。現場での実感を彼は反芻していた。おそらく、もう一度会えば見間違えることはないだろう。
「そうか……ひとつおかしなことを訊くが、そいつはものすごく美形だったりしないだろうな?」
「いえ、女にもてるような顔では…………失礼しましたっ。おっしゃるような容姿ではありません。良し悪しを言えば普通ですが、どこか冷たい目をしていました」
思わず砕けた物言いをしかけたレイトリは、すぐさま口調を正した。不審者が美男であろうが不細工であろうが、どうでもよいではないか。襟が緊張の汗で汚れるのが分かる。
「まあそう堅くなるな。掛けたまえ。約束どおり、茶でもご馳走しよう」
レイトリは、できれば退室したかったが、上官の厚意を受け取らないわけにもいかない。彼はこういう時、うまく辞去する台詞を、すらすらと思いつくような器用な性格ではなかった。