第92章:国家を買収した男
第92章:国家を買収した男
学園都市ルーセンを襲った未曾有の『駄女神ショック』から数週間。
大型電動輸送トラックのピストン輸送によって食糧危機のデマは完全に霧散し、V字回復を遂げた株式市場は、むしろ前代未聞の好景気へと突入していた。
高速道路の通行料収入は日ごとに積み上がり、ルーセン銀行局の預金残高は天文学的な桁へと跳ね上がっている。
しかし、その莫大な富の奔流は、地方の一都市の枠組みを完全に突破し、ゲスハルト帝国の屋台骨をも激しく揺るがし始めていた。
「……カロン殿。とうとう、この日が来てしまったようだ」
ルーセン工科大学の学長室。
朝の光が差し込む執務机の前で、ハインリヒ大公は一枚の羊皮紙をカロンへと差し出した。
そこには、純金の箔押しが施された「ゲスハルト帝国王室最高機密親書」の刻印――すなわち、国王セルセデス3世直筆による、緊急の宮廷出頭命令が記されていた。
「大公閣下。……やはり、例の件ですか?」
カロンが問うと、大公は力なく肩を落とし、乾いた笑いを漏らした。
「それ以外に何があるというのだ。……『ルーセン領主にして帝国宰相たるハインリヒ大公の個人純資産が、国家の年間総予算を単独で完全に上回った』という話だ。帝都の財務官僚どもが計算機を弾いて腰を抜かし、そのまま陛下へ泣きついたらしい。……余を反逆者として首を刎ねるつもりではないだろうが、国家の元首たる王より金を持つ家臣など、歴史上どの王朝でも生かしてはおかんからな……」
ヒュドールに神性強化された大公の胃袋は、相変わらず竜の牙をも弾き返しそうなほど絶好調であったが、精神的な負荷は完全に致死量に達していた。
「分かりました。私も同行いたします。大公閣下を一人で王宮の修羅場へ放り出すわけにはいきませんからね」
「おお……恩に着るぞ、カロン殿! 君がいてくれれば、最悪の事態でも何か工学的な奇策で煙に巻いてくれると信じておる!」
二人は即座に準備を整え、大学の地下ガレージから銀色の乗用電気自動車(EV)を発進させた。
東門の料金所を通過し、白く輝く『帝国中央第一高速道路』へと滑り込む。
カロンがアクセルを踏み込むと、四輪のインホイールモーターが心地よい高周波を響かせ、メーターの針は瞬く間に時速百四十キロへと到達した。
かつて馬車で一週間、泥と砂利に揺られながら命がけで越えた五百キロメートルの道のり。
それが今や、微動だにしないコンクリートの路面の上を、わずか四時間のアフタヌーン・ドライブで駆け抜けてしまう。
昼下がりには、帝都グランツの巨大な白亜の外郭城壁がフロントガラスの向こうにそびえ立っていた。
帝都王城二階、玉座の間。
重厚な防音扉が背後でバタンと閉ざされた瞬間、室内の張り詰めた空気が肌を刺した。
正面の豪奢な玉座には、真紅のマントをまとった国王セルセデス3世が、深く眉間にシワを刻んで鎮座していた。
その傍らには、前回のヒュドール騒動の怒りも冷めやらぬ正妻イザベラ王妃、そして数名の帝国最高位の文官たちが、青ざめた顔で書類の束を抱えて控えている。
「ハインリヒ大公、並びにカロン学長。……よくぞ参った」
セルセデス3世の低く重い声が、大理石のフロアに木霊した。
ハインリヒ大公は即座に右膝をつき、完璧な臣下の礼を取った。カロンもそれに倣う。
「陛下。急ぎの召喚との由、直ちに馳せ参じましてございます」
「うむ。……ハインリヒよ。単刀直入に問うぞ」
国王は玉座から身を乗り出し、手元の財務報告書をピシャリと叩いた。
「……此度のルーセン証券取引所の開設、並びにあの高速道路の開通により……そなたの個人資産、並びに領地金庫の保有資金が、我がゲスハルト帝国の『国家年間総予算』を軽々と上回ったというのは……真か?」
「………………………………」
大公の全身が硬直した。
誤魔化しようのない事実であった。証券取引所の公開データと銀行局の監査記録は、すでに帝都の財務省へ筒抜けになっている。
「は……はっ。……恐れながら、真実にございます」
大公が消え入りそうな声で答えると、控えていた文官たちの間から「ヒッ……」と息を呑む音が漏れた。
セルセデス3世は天井を仰ぎ、深く、重いため息を吐き出した。
そして、鋭い眼光を大公へと突き戻した。
「ハインリヒよ。そなたは余の忠臣であり、帝国の宰相であり、先のクーデターを鎮圧した救国の英雄である。その功績に疑いは毛頭ない。……だがな」
国王は腕を組み、苦々しい表情で核心を突いた。
「一人の臣下が、国王たる余よりも遥かに多くの金を持ちすぎていて、果たして良いものなのだろうか?」
王宮の空気が、絶対零度へと凍りついた。
「そなたに謀反の気がないことは百も承知だ。だが、世の歴史を見よ。王室の全予算を凌駕する財力を持つ大貴族が現れた時、王朝はどうなった? 兵を集め、食糧を買い占め、やがて王冠を力づくで奪い取っていったではないか。
貴族院の古だぬきどもも騒ぎ立てておるぞ。『ハインリヒ大公はルーセンの独立を企てている』『帝都を兵糧攻めにする気だ』とな。……余としても、国家の元首として、この歪な力関係を放置しておくわけにはいかんのだ」
大公の額から、滝のような冷や汗が吹き出した。
(終わった……! 領地没収か?! それとも資産凍結か?!)
神性強化された胃袋だけは痛まないが、心臓が破裂しそうな恐怖に、大公はただただ言葉を失って平伏するしかなかった。
静まり返る玉座の間。
重臣たちが息を詰めて処断を待つ中――
「――陛下。恐れながら、一言よろしいでしょうか」
静寂を切り裂いて口を開いたのは、ドワーフの少年――ルーセン工科大学学長、カロンであった。
セルセデス3世が眉をピクリと動かした。
「……カロン学長か。そなたの知恵は常に余を驚かせてきたが、この国家と主従の根本的な財政問題に、工学の理屈が通用すると思うのかね?」
「ええ、完全に通用いたします。むしろ、極めてシンプルかつ近代的な『金融工学』の初歩でございます」
カロンは恐れる風もなく、すっと背筋を伸ばして一歩前へ進み出た。
前世における近代資本主義、そして国家財政の根幹を支えてきた巨大な発明――その仕組みを、この異世界の王侯貴族たちへ解き解すために。
「陛下。問題は『大公閣下の個人資産が、国王陛下の王室財政を上回っていること』、そして『国家財政に圧倒的な現金が不足していること』の二点ですね?」
「うむ。まさにその通りだ」
「ならば、解決策は極めて簡単です。……帝国政府が『国債』を発行すればよいのです」
「……こくさい?」
セルセデス3世が首を傾げた。イザベラ王妃も、控えていた財務文官たちも、聞いたことのない単語に目を白黒させている。
カロンは懐から手帳と万年筆を取り出し、分かりやすく数値を書きながら解説を始めた。
「国債とは、一言で申し上げれば『帝国政府が発行する、国家公認の超高信用・借入証書(債券)』でございます。
まず、帝国政府が『ゲスハルト帝国第一回・国家復興国債』という証書を、総額金貨十万枚……いえ、国家予算と同額分、印刷して発行いたします。
発行した瞬間、この国債の権利は百パーセント、国王陛下の手元にあります」
「ふむ……? 余がその紙切れを百パーセント持っておる、と?」
「はい。そして――その国家公認の国債を、お金が余って困っているハインリヒ大公に、市場を通じて買い取らせるのです」
カロンの言葉に、ハインリヒ大公がビクッと肩を震わせた。
「な……儂が、国の借用書を買うのか……?!」
「そうです、大公閣下。大公閣下は、手元に唸るほど余っている個人資産の金貨を、帝国政府へ支払って国債を買い取ります。
すると、どうなるか?
大公閣下が支払った莫大な金貨の山は、すべてそのまま『国王陛下と帝国政府の国庫』へと移転します。
これにより、国王陛下の資産と国家予算は一瞬にして倍増し、大公閣下の現金資産は適正な水準へと圧縮されます。国王陛下が家臣より金を持っていないという歪な構図は、これにて完全に解消されるのです」
セルセデス3世の目が、カッと見開かれた。
「な……何だと?! 儂の手元に、ハインリヒの持つあの莫大な金貨が、そっくりそのまま合法的に入ってくるというのか?!」
「左様でございます。ただし――」
カロンは指を一本立て、釘を刺した。
「これは国家による一方的な財産没収ではありません。あくまで『債券の購入』です。
大公閣下が国債を買った分、帝国政府は毎年、年利二パーセントから三パーセント程度の『利子』を、大公閣下へ支払い続けなければなりません。
さらに、十年後や二十年後の満期が来た暁には、元本を返済する義務を負います」
「利子だと……? ううむ、利子を払うのは少々痛いが……」
国王が唸る。しかし、目の前に提示された「一国の国家予算に匹敵する現金が一瞬で国庫に転がり込んでくる」という果実の甘美さは、何物にも代えがたかった。
これだけの巨額の資金があれば、帝都の上下水道の近代化、陸軍の装備近代化、そしてルーセンに倣った全土のインフラ整備が、増税を行うことなく一瞬で実現できてしまうのだ。
「カロン殿……! それは、素晴らしい妙案ではないか!!」
ハインリヒ大公も、藁にもすがる思いで身を乗り出した。
「余……儂としても、謀反の疑いをかけられて怯えるくらいなら、その金を喜んで国へお貸しいたしますぞ! 金利をいただけるのなら、資産の運用先としてもこれ以上なく安全でございます!」
「うむ……! うむッ!!」
セルセデス3世の顔に、見る見るうちに満面の笑みが広がっていった。
「決まりだ! 直ちにその『国債』とやらを発行せよ!
ハインリヒよ、そなたには帝国の第一回国債の『五十パーセント』を、今すぐその有り余る財産で買い取ってもらうぞ!!」
「ははっ! 喜んで買い取らせていただきまするッ!!」
玉座の間で、固い握手を交わす国王と宰相。
国債を売却したことで、国王の手元には目も眩むような莫大な金貨の山が転がり込んでくることが確定し、セルセデス3世は「これで帝都に大庭園も造れるぞ!」とホクホク顔で高笑いを上げていた。
数日後。
ルーセン銀行局本店、並びに帝都支店の巨大な窓口を通じて、大陸史上初となる『帝国債券引き受け式典』が厳かに執り行われた。
カロンが精密に印刷させた、カロン・スチールの極細ワイヤー漉き込みと3D魔導透かし入りの「第一回帝国国債券」。
額面にして金貨数万枚という途方もない紙片の束が、ルーセン銀行局の地下大金庫からハインリヒ大公の個人名義で引き当てられ、その五十パーセント――実に国家予算の半分に匹敵する額面が、大公のサイン一つで購入されたのである。
帝都の王宮では、国庫へ雪崩れ込んできた本物の金貨の山を前に、セルセデス3世と財務官僚たちが連日連夜の祝杯を挙げていた。
「ハインリヒの奴から合法的に金を巻き上げてやったわい!」と、王はご機嫌そのものであった。
……しかし。
契約書の調印を終え、ルーセン工科大学の学長室へと戻ってきたハインリヒ大公の前に、カロンは静かに一枚の「権利関係整理書」を差し出した。
「大公閣下。国債の引き受け、お疲れ様でした。……これで当面の王宮からの疑念は完全に晴れましたね」
「うむ! いやあ、カロン殿のおかげで首がつながったわい。金を国へ貸し付け、利子まで貰えるのだから、実に素晴らしい解決策であったな」
大公が安堵のため息をつき、お茶を啜った。
ヒュドールの加護のおかげで、胃袋はどこまでも快調である。
しかし――カロンは眼鏡を押し上げ、どこか底知れぬ眼光を宿しながら、極めて平然とした口調でこう告げたのである。
「ええ。……ですが大公閣下。『国家が発行した国債の五十パーセントを、一人の人間が保有している』という状態が、資本主義経済において何を意味するか……ご理解されていらっしゃいますか?」
「……ん?」
大公がお茶のカップを止めた。
「何を意味する、とは……? 国にお金を貸している大口の債権者、ということだろう?」
「ええ、表向きはそうです。しかし――」
カロンは手帳をトンと指先で叩いた。
「国債とは、国家の信用そのものです。そして、その返済原資は『帝国全土から徴収される税収』です。
もしも、大公閣下が『利子の支払いが滞った』『財政方針が気に入らない』と言って、保有する五十パーセントの国債を市場で一斉に叩き売ったり、満期の借り換えを拒絶したらどうなりますか?」
「え……? ど、どうなるのだ……?」
「ゲスハルト帝国政府は、その日のうちに債務不履行(国家破産・デフォルト)に陥り、王室は破滅します」
「………………………………」
大公の動きが、完全に停止した。
手にしたカップが、カタカタと音を立てて激しく震え始める。
カロンは淡々と、しかし残酷なまでの金融の真理を突きつけた。
「すなわち――国債の五十パーセントを握るということは、『帝国の国家財政、軍事予算、公共事業のすべての運営に対し、国王陛下と完全に同等の拒否権と発言権を手に入れた』ということです。
大公閣下が首を縦に振らなければ、国王陛下は軍隊を動かすことも、新しい城を建てることも、税率を変更することすら物理的に不可能となりました。
大公閣下。貴方は……王家と完全に等しい、国家の半分を実質的に所有されたのですよ」
「ぎゃ……」
ハインリヒ大公の喉から、蛙の潰れたような悲鳴が漏れた。
「ぎゃあああああああああああっっっ!!!!」
ガシャーーーーンッ!!
大公は手のお茶のカップを取り落とし、床の上へと真っ逆さまに転がり落ちた。
顔面は蒼白を通り越して土気色。瞳孔は限界まで見開かれ、唇は激しく痙攣している。
「な……ななな……何ということをしてくれたのだ、カロン殿ォォォッッ!!
儂は……儂は、王様より金を持ちすぎて怪しまれたから、その金を減らして身の潔白を証明しようとしただけなのだぞォッ!!
なのに……なのに何故、国そのものを手に入れてしまっておるのだァァッッ!!?」
「資本の論理とはそういうものです。お金を貸した側が、最終的な生殺与奪の権を握るのは、近代金融の絶対の鉄則ですからね」
カロンが至極もっともそうに頷く。
「ひ、ヒィィィィッ!! 儂は王になりたいわけではないのだ! 帝都の王冠を奪う気など爪の先ほどもないのだァッ!!
国家破産?! 拒否権?! そんなもの、もし国王陛下にバレてみろ! 今度こそ儂の首が飛ぶどころか、九族皆殺しの極刑ではないかァァッ!!」
大公は頭を抱え、床の上で海老のように丸まって激しくガタガタと震え出した。
胃袋は痛まない。どれだけ恐怖しようと、ヒュドールの神性生体強化のおかげで内臓だけは無敵の健康を保っている。
だが、そのせいで気を失って現実逃避することすら叶わず、大公はシラフのまま、自らが「帝国を実質的に買収してしまった」という天文学的な重圧に晒され続け、武者震いならぬ完全なる恐慌震え(ガクブル)状態に陥ってしまったのである。
そして――この戦慄の事実は、領主邸へと持ち帰られた瞬間、大公一家をも完全に崩壊へと叩き落とした。
その夜のハインリヒ大公邸、私室。
「あ、あなた……? 今、何と仰いましたの……?」
ソファーの上で、正妻のエレノア夫人が、まるで世界の終わりを告げられたかのような顔で立ち尽くしていた。
手には、先日帝都で買い取ると豪語していた「旧クロイツァー侯爵邸の買収目録」が握られていたが、その指先は小刻みに震え、紙片がパサリと床へと滑り落ちた。
「だから……言った通りだ、エレノア……」
ハインリヒ大公は、ブランケットを頭からすっぽり被り、暖炉の前の絨毯の上で体育座りをしてガタガタと震えていた。
「儂は……国債を半分買ったのだ……。その結果……儂の一言で、帝国政府が倒産する体になってしまったのだ……。儂の発言権は……国王陛下と五分五分になってしまったのだよ……」
「い、いやぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁっっっ!!!!」
エレノア夫人が両手で頭を抱えて絶叫した。
先日の「帝国の覇王ですわ!」などという高笑いは跡形もなく吹き飛んでいた。
「謀反人ですわ! 我がハインリヒ家は、いつの間にか国家転覆の首謀者に仕立て上げられてしまいましたのよォォッ!!
あなた、何て恐ろしいことをしてくれましたの?!
国を買ってしまうなんて……そんなの、帝都の近衛軍が総出で我が家を取り囲んで、ギロチンに送られるに決まってますわァッ!!」
「母上ぇぇっ! 僕、処刑されるのやだよぉぉっ!」
「お父様、どうして国なんて買っちゃったのぉぉっ!」
二人の子供たちが大公のブランケットにしがみついて号泣し、夫人はソファーに突っ伏して「神よ……至高の神々よ……」と祈りを捧げ始める。
大公邸のプライベートサロンは、一家全員が富の恐怖によってガクガクブルブルと震え続ける、前代未聞のパニックハウスと化していた。
そんな一家の阿鼻叫喚を、サロンの特等席から優雅に眺めている者がいた。
領主邸の迎賓館に滞在している水と氷の女神、ヒュドールであった。
ヒュドールは銀のスプーンで、カロンから差し入れられた特製の『冬の白桃ソルベ』を一口すくい、涼やかなアイスブルーの瞳を細めてくすくすと笑った。
「ふふっ……あらあら、まあまあ。大公様、本当に賑やかなご家族ですこと。
人の子の手による『お金』という数字の魔力は、神々の奇跡よりも遥かに滑稽で、恐ろしい喜劇を紡ぎ出しますのね」
大公が涙目でブランケットから顔を出した。
「ヒ、ヒュドール様……! 笑い事ではございませんぞ! 余は……儂は、国を脅かす存在になってしまったのです!」
ヒュドールは冷たいソルベを飲み込み、優雅に微笑んだ。
「安心なさいな、大公様。貴方のその頑丈な胃袋は、わたくしが神性強化して差し上げましたもの。どれほど恐怖に震えようと、胃潰瘍で死ぬことだけは万が一にもございませんわ。……死ぬ時は、心臓麻痺か、断頭台の上ですわね?」
「余計に怖いわァァァッッ!!!」
大公の悲鳴が夜の邸宅に木霊した。
翌朝。
学長室に、目の下に巨大な隈を作り、やつれ果てたハインリヒ大公が、ふらふらと幽鬼のような足取りで現れた。
そして、カロンのデスクに両手を激しく叩きつけた。
「カロン殿……! 頼む……頼むから、この『国債の権利』を、誰かに押し付けることはできんのか?!
今すぐゲオル商会や冒険者ギルドに転売して、儂の発言権をせめて十パーセントくらいに薄めたいのだ!!」
カロンは温かいブラックコーヒーを差し出し、苦笑いを浮かべて首を横に振った。
「大公閣下。落ち着いてください。今、大公閣下が国債を一斉に市場へ放出したら、それこそ『大公が政府を見限った』と受け取られて、先日の駄女神ショックを遥かに超えるハイパーインフレと国債暴落が起きて国が滅びますよ」
「ひぃっ……!」
「大丈夫です。大公閣下がこれまで通り、国王陛下に忠誠を尽くし、無理な政治的要求を一切突きつけず、ただ黙って利子を受け取っていれば、誰も困りません。
むしろ――大公閣下が実質的な財務の拒否権を握っているからこそ、帝都の強硬派貴族たちも、ルーセンに対して手出しができなくなるのです。最高の『抑止力』ですよ」
カロンの論理的な宥めを受け、大公は深く、深いため息をついた。
「……抑止力、か。持っているだけで胃が破裂しそうな抑止力だな……」
大公はコーヒーを喉へと流し込み、震える手で自らの胸を抑えた。
「……分かった。儂は……金輪際、政治には口を出さん。
ただの従順なる忠臣として、国王陛下を立て続け、この国債の真の意味を墓場まで持っていくことにする……。
絶対に、エレノアにも、帝都の者たちにも、これ以上深く悟らせてはならんぞ……」
「ええ。それが最も賢明な『大株主』の振る舞いというものです」
カロンはにっこりと微笑んだ。
一国の国家予算を超越した富が、近代金融の魔術によって、一人の善良なる領主を「帝国の影の支配者」へと押し上げてしまった奇妙な事件。
国王は手に入れた金貨の山でホクホク顔を浮かべ、
当の買収者たる大公一家は、毎夜毎夜、国家を所有してしまった恐怖にガクガクと震え続ける。
資本主義の光と影が織りなす、壮大で少しだけ不条理な狂騒曲を背に受けながら――
学園都市ルーセンは、また一つ、大陸の歴史の教科書に前代未聞の特異点を刻み込んでいくのであった。




