第20章: 劇的改修と職人の夜
第20章: 劇的改修と職人の夜
澄み渡る朝の陽光が、町外れの発電所建設予定地を柔らかく照らし出していた。
水力発電所の建設は、まだ職人たちが現場に入っておらず、現在はカロンが単身で設計から基礎工事までを進めている段階だった。昨日までにカロンが一人で魔法を駆使して行った水路の掘削と敷地の整地は完璧な精度を誇り、川から引いた水が美しい曲線を描く水路を静かに満たしている。
カロンが一人で図面を広げ、本日の魔導配管の埋設計画を頭の中で組み立てていたその時、現場の入り口付近からドタバタと慌ただしい足音が近づいてきた。
見れば、金属の胸当てに槍を携えた、この町の警備兵が息を切らして駆け寄ってくるところだった。
「あ、いた! カロン殿! 探しましたぞ!」
「ん? 警備兵さんか。現場に何か不備でもあったかね?」
カロンが首を傾げると、兵士は兜を直しながらブンブンと首を横に振った。
「いえ、現場のことではないのです! 実は……東門の警備隊長から『どうしてもカロン殿のお知恵と魔導土木の腕をお借りしたい』と頼まれて参りまして。昨日この現場でカロン殿がお一人で見事に地形を削り、石を組み上げられたという噂を聞きつけた隊長が、居ても立ってもいられなくなったようでして……」
「東門の警備隊長が? いったいどんな用件だろうか」
「実は……東門に隣接している我々の詰所についてなのです。とにかく一度、現場を見ていただきたく……!」
兵士の困り果てたような、しかしどこか縋るような表情を見て、カロンは頷いた。
現場は一人作業のため、自分が手を止めれば作業も止まるが、工程には十分な余裕がある。カロンは道具を一度まとめると、兵士に案内されて町の東門へと向かった。
東門は、街道からの商隊や旅人が頻繁に行き交う重要な防衛拠点である。巨大な石造りの城門の脇には、兵士たちが交代で待機し、事務処理や仮眠を取るための二階建ての木造詰所が建っていた。しかし、外観からしてすでに屋根瓦が数枚抜け落ちており、壁の漆喰には無数の亀裂が走っている。
「……これは、なかなか年季が入っているな」
「ええ、築数十年は下らないそうでして……どうぞ中へ」
ギシギシと悲鳴を上げる頑丈すぎるほど重い扉を押し開け、カロンは詰所へと足を踏み入れた。
内部に入った瞬間、鼻を突いたのはカビと湿気の混ざった独特の澱んだ空気だった。
「うむ……」
カロンは工学者としての観察眼を光らせ、部屋の隅々を検分した。
一階の広間は、兵士たちが報告書を書いたり食事を摂ったりする多目的スペースのはずだが、天井の隅には歴代の雨漏りによってできた大きな染みが広がり、今にも腐食した板が落ちてきそうだった。床板を踏みしめると、何箇所かでブヨブヨとした嫌な沈み込みがある。完全に床下が湿気で腐食している証拠だった。
奥の更衣室を覗けば、重い甲冑や槍を収める武具棚が歪んで傾き、無理やり木片を挟んで倒壊を防いでいる有様。さらに、最奥にあるトイレに至っては、簡素な汲み取り式で換気用の小窓すら小さすぎて機能しておらず、悪臭が建物全体に微かに逆流してきていた。
そこに、奥から髭面の体格の良い男が駆け寄ってきた。肩当に隊長の階級章をつけた、東門警備隊長のガースであった。
「おお、あなたがカロン殿か! 見苦しい場所へお呼び立てして申し訳ない。見ての通り、この詰所は完全に限界を迎えておるのだ。上層部に何度も建て替えの予算を申請しているのだが、防壁自体の補修が優先されて後回しにされてばかりでな……。夜勤の連中は雨漏りで毛布を濡らし、床が抜けそうで満足に休息も取れん。何とか、あなたの魔法と技術で手を入れることはできんだろうか?」
ガース隊長の後ろには、非番や待機中とおぼしき若い兵士たちが数名、申し訳なさそうに、だが切実な眼差しでカロンを見つめていた。町を守るために昼夜を問わず槍を握る若者たちが、このような劣悪な環境で疲弊しているのは忍びない。
前世である中山教授の時代から、建築や土木とは「そこに生きる人間の命と尊厳を守るためのもの」という確固たる信念があった。
「事情はよく分かった。……よし、任せなさい。昼過ぎまで時間をくれれば、見違えるような詰所に生まれ変わらせてみせよう」
「ほ、本当か!? しかし、こんな大掛かりな修繕を半日で……?」
「ふふ、ドワーフの魔導工学を侮ってもらっては困るな。全員、私物と貴重品を持って一度外へ退避してくれたまえ。すぐに作業を始める」
カロンの力強い言葉に、兵士たちは顔を見合わせ、歓声を上げながら慌ただしく荷物を運び出した。
詰所の中に一人残ったカロンは、作業着の袖をまくり上げ、深呼吸をした。
「さて……やるからには中途半端な補修では終わらせんぞ。構造力学と衛生環境の抜本的改善だ」
中山教授としての知識と、転生によって得た強大な魔力、そして土木系魔導クラフトのスキルがフル回転を始める。
まずカロンが着手したのは、建物の根幹である基礎と床下の改善だった。
しゃがみ込み、腐食した床板に両手を触れる。
「生活魔法『アースシェイプ』――そして『ウッド・リジェネレーション&トリートメント』」
魔力が床下全体へと波紋のように浸透していく。湿気を含んでボロボロになっていた束柱や大引が、魔力による分子再構築で瞬く間に新築同等の剛性を取り戻し、さらに防腐・防蟻・防湿効果を持つ硬化コーティングが施されていく。土壌にはアース魔法で通気用の勾配と砂利層を瞬時に形成し、地面からの湿気を完全に遮断した。
踏むたびに軋んでいた床面には、滑り止め加工を施した美しい琥珀色の硬質木材がピシリと隙間なく敷き詰められていく。
続いて、天井と屋根の改修だ。
「生活魔法『リペア・ルーフ』『ストーン・サーマルインシュレーション』」
天井裏に手をかざすと、雨漏りの原因だった破損した瓦が自己修復のようにピタリと噛み合い、さらに屋根裏全体に軽量かつ断熱性の高い鉱物層を魔法で形成した。これにより、夏の灼熱の熱気と冬の厳しい冷気をシャットアウトする完璧な外断熱構造が完成する。
そして、内装の抜本的レイアウト変更――いわゆる「リホーム」の真骨頂である。
薄暗かった一階の広間は、兵士たちの動線を徹底的に計算した空間へと生まれ変わった。
壁面を削って採光用の魔導複層ガラス窓を新設し、陽光が部屋全体に差し込むように設計。中央には、頑丈で肌触りの良い特製の一枚板テーブルと、背もたれが体にフィットするエルゴノミクス仕様の木製チェアを八脚配置。会議時は地図を大きく広げられ、食事時には温かな団欒の場となるよう、天板には傷や汚れがつきにくい魔導コーティングを施した。
壁際の一角には、新開発の「魔導簡易給湯・保温キャビネット」を埋め込んだ。夜警から戻った兵士が、いつでも温かいスープや茶を口にできる保温魔法陣付きの収納スペースである。
次は、乱雑を極めていた更衣・装備室だ。
ここは兵士の命を守る重要なエリアである。カロンは壁面全体に、八人分の個人専用ロッカー兼武具スタンドを構築した。重い甲冑を掛けやすい頑丈なフック、槍や剣がピタリと収まるスリット、濡れた革鎧を素早く乾かすための微弱な乾燥・消臭の風魔法陣を各ロッカーの底面に仕込んだ。
「これなら、汗の臭いも籠もらず、翌朝にはカラリと乾いた装備を身につけられるはずだ」
そして、最大の問題箇所であったトイレエリア。
カロンはここに最も高度な衛生土木技術を投入した。
旧来の汲み取り構造をアース魔法で完全に撤去・密閉し、地下に小型の多段式魔導浄化槽を瞬時に構築。便器には滑らかな石材を削り出して防汚処理を施し、少量の水流と風魔法による負圧換気システムをドッキングさせた「無臭型簡易水洗トイレ」を完成させた。小窓には防虫メッシュを組み込み、いつでも清々しい空気が保たれる。
仕上げに、室内全体の照明として、時間帯によって色温度が変化する調光式の魔導ランタンを天井各所に埋め込んだ。昼は集中力を高める爽やかな白色光、夜は疲れを癒やす温かみのある暖色光が灯る仕組みだ。
作業を開始して約四時間。太陽が南天をわずかに過ぎた頃、詰所全体から埃とカビの気配は完全に消え去り、真新しい木の芳香と洗練された空気が満ちていた。
「ふう……我ながら、実によい仕上がりだ」
カロンは満足そうに汗を拭い、外で待機している兵士たちを呼びに行った。
東門の広場では、ガース隊長をはじめとする八人の兵士たちが、ソワソワと落ち着かない様子で待機していた。
「おい、中からすごい光や風の音が聞こえたが……」
「本当に直ってるのか? まだ四時間ちょっとだぞ……」
不安と期待が入り混じる中、カロンが扉を開けて姿を現した。
「お待たせした。東門警備詰所のリフォーム、完了だ。さあ、中へどうぞ」
「お、おお……では、失礼して……」
ガース隊長を先頭に、兵士たちが恐る恐る足を踏み入れる。
その瞬間――全員が息を呑み、目を限界まで見開いて完全に硬直した。
「な……な、なんじゃあぁぁぁっ、こりゃあぁぁぁっ!?」
ガース隊長の絶叫が詰所に木霊した。
かつての薄暗くジメジメとした空間は跡形もなく消え去っていた。
足を踏み入れた瞬間に出迎えるのは、明るい日差しが差し込む開放的な広間と、心地よい木の香り。床を踏み鳴らしても、ギシギシという軋みは一切なく、まるで高級貴族の邸宅のサロンのような重厚で滑らかな踏み心地である。
「す、すげえええっ! 床が……床が沈まない! 跳ねてもビクともしないぞ!」
「見てみろよこの窓! めちゃくちゃ明るい! それに、あの嫌なカビの臭いが完全に消えてる!」
若い兵士たちが子供のように床を撫で回し、歓声を上げる。
カロンは微笑みながら、案内を続けた。
「ふふ、驚くのはまだ早いぞ。こちらが諸君の装備室だ」
案内された更衣室を見た瞬間、兵士の一人が感極まって叫んだ。
「お、俺の名前入りの専用ロッカーだ……! 甲冑がすっぽり収まるし、下から温かい微風が出てきてるぞ!?」
「濡れた革鎧やブーツを入れておけば、数時間で湿気と臭いを取って乾燥させてくれる仕組みだ」
「神か……! カロン殿は神の使いか……! 毎朝生乾きの冷たい鎧を着るのがどれだけ苦痛だったか……!」
さらにカロンが奥の扉を開け、「そしてこれが新しいトイレだ」と紹介すると、ガース隊長は恐る恐る中を覗き込み、そして膝から崩れ落ちそうになった。
「な、なんという清潔さ……! 臭いが……臭いがまったく逆流してこないどころか、森の中にいるような清々しい風が流れておる……! それにこの滑らかな便座……座っても尻が冷たくないぞ!?」
「配管の内部に自動消臭と水流の浄化魔法を組み込んであるからね。衛生面は完璧だ」
広間に戻ると、八人の兵士たちは感極まり、隊長を筆頭に全員で直立不動の敬礼をカロンに捧げた。その目にはうっすらと涙すら浮かんでいる。
「カロン殿……! 何と礼を言ったらよいか言葉も見つかりません! 我々のような末端の兵士のために、ここまで心を尽くした素晴らしい城を作ってくださるとは……!」
「いやいや、町を守ってくれている諸君が健やかに過ごせてこそ、町全体の安全が保たれるのだからね。職人として当然の仕事をしたまでだよ」
カロンが温かく微笑むと、若い兵士たちが我先にと詰め寄ってきた。
「カロンさん! 俺、東門の警備やってて本当によかった!」
「今後、カロンさんが門を通る時はいつでも俺たちが最優先で案内します! 何か困ったことがあったら何でも言ってください!」
こうして、ガース警備長をはじめとする八人の兵士たちと固い友情と信頼で結ばれたカロンは、彼らの熱烈な見送りを受けながら、東門を後にしたのだった。
心地よい達成感を味わいながら、カロンは午後の日課となっているメリス教の教会へと向かった。
夕暮れが近づき、空が琥珀色から紫紺へと移り変わる時間帯。石畳の路地を抜けて白亜の教会へ入ると、裏手の小さな教室からはすでに子供たちの賑やかな声が聞こえていた。
ガラリと扉を開けて教室に入ると、一番前の席に並んで座っていた二人の姿が目に飛び込んできた。昨日出会った駆け出し冒険者の兄妹、カイとミミルだった。
「あ! カロン先生! こんにちは!」
「カロン様、お待ちしていました!」
二人は新品のノートと羽ペンを机の上にきれいに並べ、背筋をピンと伸ばして満面の笑顔で迎えてくれた。
「やあ、カイにミミル。本当に一番前の席を取ったんだね。お母さんの具合はどうだい?」
「うん! カロン先生の魔法のおかげで、今朝は自分で起き上がって朝ごはんを作ってくれたんだ! 先生、本当にありがとう!」
「私たち、先生からたくさん勉強して、もっと立派な冒険者になります!」
二人の晴れやかな表情に、カロンの胸も温かくなる。
席についていた十数人の孤児たちも、「先生、今日も算術教えて!」「昨日の続きの歴史のお話が聞きたい!」と一斉に手を挙げた。
「よしよし、皆席に着きなさい。今日の授業を始めよう」
カロンは教壇に立ち、黒板に滑らかな文字で数式と図形を描いていった。
前世で大学教授として幾多の講義を受け持ってきた経験は伊達ではない。子供たちの理解度に合わせて具体例を交え、時にはドワーフの工学的なパズルを解かせるようにして、学ぶことの楽しさを伝えていく。カイもミミルも、孤児たちに負けじと目を輝かせながら必死にペンを走らせていた。
やがて教会の鐘が鳴り響き、本日の授業が終了した。
「先生、ありがとうございました!」
子供たちが元気よく挨拶をして教室を駆け出していく。カイとミミルも、「先生、また明日も来ます!」と嬉しそうに手を振って家路についた。
教室の片付けをしていると、奥の礼拝堂から穏やかな笑みを浮かべた老神父が歩み寄ってきた。
「カロン先生、今日も素晴らしい授業をありがとうございました。子供たちのあんなに生き生きとした顔を見られるのは、教会としても無上の喜びにございます」
「いえ、神父様。私の方こそ、知的好奇心に溢れる子供たちと触れ合えて良い刺激をもらっていますよ」
カロンが微笑み返すと、神父は少し姿勢を正し、真剣な眼差しを向けた。
「実は……カロン先生にご相談とお願いたい儀がございましてな」
「何でしょう?」
「現在通っている孤児院の子らや、先ほどのカイ殿やミミル殿だけでなく……この町の『貧困区』に暮らす子供たちにも、この教室の門戸を広げたいと考えておるのです」
神父は静かに窓の外、夕闇に包まれつつある貧民街の方角を見つめながら言葉を継いだ。
「あの一帯の子供たちは、幼い頃から日銭を稼ぐための労働に追われ、文字の読み書きも、計算すらも知らずに育ちます。その結果、悪質な雇用主に騙されたり、犯罪に巻き込まれたりして、貧困の連鎖から抜け出せない。もし……カロン先生さえよろしければ、あの境遇にある子供たちも受け入れ、学ぶ機会を与えてやってはいただけないでしょうか……?」
神父の切実な訴えに、カロンは迷うことなく深く頷いた。
「もちろんです、神父様。教育こそが、人が己の運命を切り拓くための最大の武器です。生まれや境遇によって学ぶ権利が奪われてはならない。人数が増えるなら、教材の工夫やクラス分けも考えましょう。ぜひ、明日からでも声をかけて連れてきてください」
「おお……! 引き受けてくださいますか! ありがとうございます、カロン先生……! 主メリスも、貴方の慈愛に満ちた御心を必ずや祝福されることでしょう」
神父は感極まった様子でカロンの手を固く握りしめた。
未来を担う子供たちのために、自分ができることはまだまだある。カロンは心地よい使命感を胸に抱きながら、教会を後にした。
すっかり夜の帳が下りた町を歩き、カロンは自分の宿となっているアパートへと戻ってきた。
一階にはいつもの馴染みの食堂がある。今日もそこで美味しい夕食とエールを楽しもうと、カロンは何気なく扉を開けた。
しかし――いつもなら香ばしい料理の匂いと常連客の笑い声で満ちているはずの店内が、異様な静けさに包まれていた。テーブル席には客の姿はなく、奥の厨房から焦げたような臭いと、女将さんの困り果てた泣きそうな声が漏れ聞こえていた。
「どうしよう……これじゃ今夜の仕込みどころか、明日からの営業もできないよ……」
「レンガが完全に崩れちゃって、火を入れたら煙が部屋中に充満しちゃうわ……」
カロンは眉をひそめ、厨房のカウンター越しに声をかけた。
「女将さん、どうかしたのかい?」
厨房の中で頭を抱えていたふくよかな女将さんと、手伝いの娘がハッと顔を上げた。
「あ、カロンさん……! ごめんなさいね、今日はもうご飯が出せないのよ。さっき、夕方の仕込みをしてる最中に、メインのかまどが突然『ボコッ』と音を立てて崩れ落ちちゃって……」
見れば、厨房の要である大型の薪かまどの中央部がパックリと陥没し、耐火レンガが粉々に割れて灰と煤が散乱していた。長年の熱と経年劣化で、内部の構造が完全に崩壊してしまったようだった。
「職人ギルドに修理を頼もうとしたんだけど、こんな夜遅くじゃ誰も来てくれないし、直るまで何日も休業しなきゃいけないかもって言われて……どうしたらいいか……」
涙目になる女将さんを見て、カロンの職人魂――いや、工学研究者としての血が激しく騒ぎ立てた。
「女将さん、ちょっと中を見せてもらえるかな」
「え? ええ、構わないけど……」
カロンは厨房の中へと足を踏み入れた。
崩れたかまどを観察し、さらに厨房全体の構造へと視線を巡らせる。
「……なるほど。かまどの崩壊だけじゃないな」
カロンの鋭い観察眼は、厨房に潜む数々の危険と欠陥を一瞬で見抜いた。
かまどの隣にある、数百リットルの生活用水を溜めた巨大な水甕。その足元の床板が、漏れ出た水のせいでグズグズに腐り、今にも床ごと抜け落ちそうに大きく傾いていた。もしこの水甕が倒れれば、床下への浸水だけでなく大事故になりかねない。
さらに、壁際に据え付けられた巨大な食器棚は、壁の留め具が緩んで手前に数度傾いており、地震やちょっとした衝撃で皿や鍋が雪崩を打って落下する寸前だった。
動線も劣悪で、調理場と洗い場、食材庫の配置が交差し、作業効率を著しく落としている。
一度問題を見つけてしまったら、放置することなどカロン――中山教授のプライドが絶対に許さなかった。
徹底的に、完璧に、極上の機能美を追求して直す。それがカロンの流儀である。
「女将さん、心配いらない。この厨房、私が今すぐ直して差し上げよう」
「えっ!? で、でもカロンさん、かまどの修理なんて専門の石工や窯職人じゃないと……」
「職人ならここにいる。それと、かまどだけじゃない。あの危ない水甕の床も、傾いた食器棚も、厨房全体を完璧にオーバーホールする。私に任せて、少し食堂の席で休んでいてくれたまえ」
カロンのただならぬ気迫と自信に満ちた瞳に圧倒され、女将さんと娘は「は、はい……!」と頷いて厨房から下がった。
「よし……! 夜通しになろうとも、最高の厨房を作り上げるぞ!」
カロンは上着を脱ぎ捨て、魔力を全身に巡らせた。
カロンの真夜中の大改修が幕を開けた。
まずは崩壊したかまどの解体と再構築である。
「『アース・マテリアル・アナリシス』――分解、そして再焼成!」
カロンがかまどに手をかざすと、粉々になった耐火レンガと粘土が魔力の光に包まれて宙に浮き、不純物が一瞬で除去された。さらにカロンは、自らの魔導知識を用いて、現代の「ロケットストーブ理論」と「蓄熱式ピザ窯」の燃焼構造を融合させたまったく新しい設計を施した。
吸気口から取り込まれた空気が効率よく薪を完全燃焼させ、煙をほとんど出さずに超高熱を生み出す二次燃焼システム。熱はかまどの内部を螺旋状に巡り、調理用ポットと鉄板を均一に加熱する。外壁には熱を外に逃がさない特殊な断熱鉱物層を形成し、表面を触っても火傷しない安全性をも確保した。
続いて、崩壊寸前だった水甕の床下補強だ。
「『アースパイル・スクリュー』『ストーン・ファンデーション』」
床下に魔力杭を何本も強固に打ち込み、腐食した木製床を撤去して、水に強く滑りにくい高級な花崗岩の石畳へと瞬時に置換した。重い水甕はピタリと水平に安定し、さらに水甕の底部に微弱な浄水・殺菌魔法陣を刻み込むことで、溜め水が常に湧き水のように清らかに保たれる仕様へとアップグレードした。
さらに、傾いていた巨大な食器棚。
カロンは棚全体を分解することなく、魔力で壁面の柱と強固に一体化させ、免震ダンパー構造を組み込んだ。棚板にはスライドレール機構と落下防止バーを設置し、女将さんの手の届きやすい高さへと再配置。包丁や調理器具が美しく機能的に並ぶマグネット式ホルダー(魔力吸着板)も壁面に新設した。
仕上げに、調理台の天板を傷や熱に強い滑らかな人造大理石仕様へと変更し、排水溝には油汚れを分解する魔導バイオトラップを仕込んだ。
「よし……これでどうだ!」
カロンが額の汗を拭い、最後の魔力固定を終えた時、壁の掛け時計はすでに夜の深い時間――深夜零時近くを指していた。
薄暗く危険に満ちていた厨房は、機能美と清潔感に溢れる、一流ホテルの厨房すら凌駕する究極の調理空間へと生まれ変わっていた。
「女将さん、終わったよ。入って見てごらん」
カロンが声をかけると、食堂のテーブルで心配そうに待っていた女将さんと娘が恐る恐る厨房を覗き込んだ。
「……え……?」
二人は口元を手で覆ったまま、絶句した。
そこには、自分たちが長年使い慣れた厨房の面影を残しつつも、見違えるほど美しく、ピカピカに輝く夢のような空間が広がっていた。
「な、何これ……! これがうちの厨房……!? かまどが……新品どころか、見たこともないくらい立派になってる……!」
「お母さん見て! あの倒れそうだった水甕が真っ直ぐになってるし、床がピカピカの石になってるよ! お皿も全然グラグラしてない!」
女将さんは震える手で真新しい人造大理石の調理台や、滑らかな質感のかまどに触れた。
「使い勝手も考えて、調理器具の配置や動線も最適化しておいたよ。かまどは少ない薪で今までの倍以上の火力が出るし、煙もほとんど出ないはずだ」
「カロンさん……! あ、ありがとう……本当にありがとう……! こんなの、ギルドに大金払っても絶対にできないわ……! うちの店を救ってくれた恩人だよ……!」
女将さんは大粒の涙をボロボロとこぼしながら、カロンの手を握りしめて何度も頭を下げた。手伝いの娘も涙ぐみながら深々と頭を下げている。
「喜んでもらえて何よりだ。職人として、良い仕事ができたよ」
カロンが朗らかに笑うと、お腹が「グゥ〜ッ」と盛大な音を立てて鳴り響いた。昼からぶっ通しで働き詰めだったため、エネルギーが完全に切れていたのだ。
それを見た女将さんは、涙を拭ってパッと破顔した。
「さあ! 新しいかまどの初仕事だよ! カロンさん、最高の夜ご飯を作るから、席で待っててちょうだい!」
女将さんは腕まくりをして、新しくなった厨房へと立った。
薪をくべると、驚くほどスムーズに美しい炎が立ち上がり、強力な熱がかまどを満たしていく。煙は煙突へと吸い込まれるように抜けていき、厨房内は澄んだ空気のままだった。
「すごい……火の回りが全然違う! 油の温度があっという間に上がっていくわ!」
厨房から、パチパチと心地よい油の弾ける音が響き、香ばしいパン粉と肉の芳醇な香りが食堂いっぱいに広がっていく。
数十分後、カロンの目の前に運ばれてきたのは、大皿からはみ出さんばかりの巨大な料理だった。
「お待たせしました! うちの特製、『ボアのシュニッツェル』だよ!」
黄金色にカラリと揚げ焼きにされた、極薄に叩き伸ばされたボア肉のカツレツ。立ち上る湯気とともに、香ばしいバターとハーブの香りが鼻腔をくすぐる。添えられたレモンをギュッと絞り、カロンはフォークとナイフを手にした。
サクッ……!
ナイフを入れた瞬間に響く、小気味よい完璧な衣の音。
一口サイズに切った肉を口へと運ぶ。
「――っ! うまい……!!」
サクサクとした軽やかな衣の歯ごたえの直後、きめ細かく叩かれたボア肉のジューシーな旨味と甘みが口いっぱいにジュワリと広がる。豚肉よりも野性味がありながらも臭みは一切なく、バターのコクとレモンの爽やかな酸味が完璧なハーモニーを奏でていた。新調されたかまどの均一な高温油によって、肉の水分を閉じ込めたまま極上のクリスピー感が生み出されていた。
「どうだい、カロンさん?」
「最高だ、女将さん! 今まで食べたどの料理よりも美味いよ!」
「ふふっ、最高の厨房で作ったんだから、不味いわけがないじゃないさ!」
女将さんは嬉しそうに胸を張り、冷えた特製エールをジョッキに注いで置いてくれた。
黄金色のエールを一気に喉へと流し込む。爽快な喉越しとホップの苦味が、シュニッツェルの脂を心地よく流し、無限に食欲を刺激した。
カロンは無我夢中でフォークを動かし、山盛りのシュニッツェルと付け合わせのポテトを綺麗に平らげた。
心もお腹も極限まで満たされ、女将さんたちの温かい見送りを受けながら、カロンは二階の自室へと戻った。
部屋の鍵を開け、ランプを灯す。
静まり返った部屋の椅子に腰を下ろすと、今日一日の心地よい疲労感がじんわりと全身を包み込んだ。
朝は発電所の現場から始まり、東門の劣悪な詰所を劇的に改修して八人の兵士たちと絆を結んだ。
夕方には教会でカイやミミル、孤児たちに学問を教え、貧困区の子供たちへの支援を決意した。
そして夜には、馴染みの食堂の厨房を徹底的にリノベーションし、絶品のボアのシュニッツェルに舌鼓を打った。
「ふふ……今日も実に濃密で、良い一日だったな」
カロンはベッドに腰掛け、自らのドワーフの手を見つめた。
前世の中山教授としての知識、そしてこの世界で得た魔導の力。それらは決して破壊や支配のためではなく、こうして誰かの生活を支え、笑顔を生み出すためにこそ使うべきものだ。その確信が、日を追うごとにカロンの胸の中で確固たるものになっていた。
上着を脱ぎ、寝台にゆっくりと横たわる。
枕に頭を沈めると、心地よい重力が全身を引き込み、抗いがたい眠気が瞼を押し下げてきた。
明日はまた、一人で進める発電所の水力タービンの魔導調整が待っている。
カロンは静かに微笑みながら目を閉じ、深い穏やかな眠りへと落ちていった。




