第13章:調印の条件と地上の美味
第13章:調印の条件と地上の美味
ゲオル商会総本部の最上階、特別貴賓室。
窓の外から差し込む午前の柔らかな光が、マホガニーの長テーブルに落ちていた。
「――早速ではありますが、カロン親方様。我が商会のキャラバンがあなた方の町で見かけた品々……あれは、実に素晴らしい物でした」
会頭のゲオル・ルーセンは、真摯な眼差しで身を乗り出した。その仕草には大商人特有の計算高さよりも、未知の技術に対する純粋な敬意と熱意が滲み出ていた。
「肉や魚を何日も新鮮なまま保つ冷たい箱、汚れを一瞬で落とす攪拌樽、そして夜を昼のように変えるガラス球。ぜひとも我がルーセンの街でも販売を手がけたいのです。しかし、あれらの製品は単体では動かず、大掛かりな『発電設備』を築き、金属の線で街中へ力を送らねば機能しないと伺いました。そこで我が商会が資金を全額拠出してその設備を建設・運営管理し、商品を売った後も市民の皆様へ手厚い技術サポートを行いたいと考えております」
(……ゲオル、か。前世の知識からすると男性名のような響きだが、この世界では女性でも普通に使われる名前なのだろうな)
カロン(中山実)は内心でそんな雑感を抱きつつ、五十代の老教授としての引き締まった表情を崩さずに口を開いた。
「ゲオル会頭、お気持ちは大変ありがたく思います。ですが、あらかじめ申し上げておかなければならない極めて重要なリスクがございます」
「リスク、ですか?」
「はい。その設備――『水力発電所』と『高圧送電網』は、膨大かつ激しい川の流れをエネルギー源として利用します。規模が極めて大掛かりであるだけでなく、取り扱う『電気』は、使い方や管理を一つ誤れば、人間が強力な雷魔法の直撃を受けたのと同等の致命傷を負い、最悪の場合は命を落とします。火災を引き起こす危険性も極めて高い」
カロンの冷徹な警告に、ゲオル会頭は息を呑んだ。
すかさずカロンは、鞄の中から一枚の分厚い羊皮紙を取り出し、テーブルの上へと滑らせた。
「もし、我がガロニアと正式に契約を結ぶのであれば、こちらの合意文書にサインをいただきたい」
ゲオル会頭が羊皮紙を手に取り、視線を落とす。
そこに書かれていたのは、カロンが前世の「国際特許ライセンス契約」および「原子力・高圧受変電設備の安全管理協定」をベースに、ドワーフ語と人間の共通語で厳密に書き起こした条文だった。
第一条(保守点検の義務):発電設備および高圧変電設備は定期的な専門メンテナンスを必須とし、これを怠った場合は重大な事故および物理的損壊を招くことを双方が承認する。
第二条(技術者の専従):設備の保守、点検、基幹部品の交換作業は、ガロニア工房親方会が認定したドワーフ技術者のみが独占して執り行うものとする。
第三条(平和利用の原則):本設備から供給される電力は、民生用家電、街路照明、公共事業、医療等の「平和目的」にのみ使用を限定し、兵器開発や軍事利用への転用を固く禁ずる。
第四条(改変・模倣の禁止):人間側はいかなる理由があろうとも、タービン、発電機、変圧器等の設備を無断で解体、改造、あるいは図面へトレースして複製することを禁ずる。
第五条(立入制限):発電所中枢および変電施設内部へは、ガロニア親方会の許可を得た者以外の立ち入りを一切禁ずる。
第六条(契約解除条項):上記条項への違反、または不正な技術流出の兆候が確認された場合、ドワーフ側は予告なく直ちに設備の送電を遠隔または物理的に停止する権利を有する。
ゲオル会頭は、美しく整った眉を寄せながら、一言一句を噛み締めるように熱心に読み進めていった。
一方で――
ゲオルの背後に控えていた秘書の男、ガストンは違った。
(……ふむ、露骨だな)
カロンは視界の端でガストンの表情を観察した。
ガストンは銀縁眼鏡の奥の目を吊り上げ、まるで苦虫を噛み潰したかのような、あからさまな不快感と苛立ちを顔全体に張り付かせていたのだ。
解体も改造も許されず、図面を起こしてコピーを作ることも禁じられ、違反すれば即座に送電を止められる――おそらく、裏で技術を盗み出して兵器化や独占転売を目論んでいた男にとって、この契約書は逃げ道のない鉄壁の檻に見えたに違いない。
(【アナライズダーク】で見えた通りの男だ。ゲオル会頭の誠実さを隠れ蓑にして、私腹を肥やすか危険な勢力と通じているのは間違いないな)
やがて、ゲオル会頭が静かに顔を上げた。
「……分かりましたわ、カロン親方様。極めて理に適った、安全を最優先とする素晴らしい条約です。ゲオル商会として、この条件を全面的に受け入れ、サインいたしましょう」
ゲオルは迷いのない手つきで羽根ペンを取り、署名欄に流麗なサインを書き込んだ。
背後でガストンが小さく舌打ちしそうになるのを、カロンは見逃さなかった。
「ありがとうございます。ですが……」
ゲオルはペンを置き、少し困ったように微笑んだ。
「この発電所を実際に建設するためには、商会の独断だけでは決められない法的な手続きがございます。このルーセン一帯の領主であられる『ハインリヒ侯爵』閣下にお会いいただき、河川の使用と土地の割譲に関する直接の許可をいただかなければなりません」
その言葉を聞いた瞬間、カロンの隣に座っていた父ガイルが腕を組み、確認するように口を挟んだ。
「ハインリヒ侯爵……確か、あの御仁は『温和派』の貴族だったな?」
「ええ、その通りですわ」
ゲオルが頷く。
「侯爵閣下は他種族との交易に理解が深く、領民の暮らしを第一に考える心優しい領主様です。ただ、帝国貴族としての格式と安全管理には大変厳しい方ですので、親方様からも直接、設備の意義をご説明いただきたいのです」
「分かりました。侯爵閣下への拝謁、喜んでお受けします」
カロンが快諾し、会談の日程は二日後と決定されたのだった。
会談の合間、ゲオル会頭が侯爵邸への連絡手続きを取るため席を外した際、カロンは隣のガイルに小声で尋ねた。
「父さん、先ほど言っていた『温和派』というのは、どういう意味なんですか?」
ガイルは大髭をポリポリと掻きながら、周囲を警戒するように声を低くした。
「カロン、お前は記憶を失っているから知らんのも無理はないが……この人間たちの国『ゲスハルト帝国』の中にはな、ドワーフやエルフ、獣人を『劣等種族』と見下し、排除しようとする【強硬派(排他派)】の貴族どもが少なからずおるんじゃ。奴らは他種族を道具のように扱い、技術や富を力づくで奪い取ることすら厭わん。
だが、このルーセンを治めるハインリヒ侯爵は、そうした差別を嫌い、種族を問わず公正に商売を認めてくれる数少ない【温和派】の領主なんじゃよ」
(なるほど……。この世界にもやはり、根深い民族差別と政治派閥の対立が存在するわけか)
カロンは深く納得した。
技術を渡す相手は選ばねばならない。ゲオル会頭やハインリヒ侯爵のような良識ある温和派と強固なパイプを結ぶことこそが、地底のガロニアを守る最大の安全保障になるのだ。
「皆様、お待たせいたしました」
扉が開き、ゲオル会頭が戻ってきた。
「午後の現地視察の前に、まずは我が商会自慢の厨房で昼食をお召し上がりくださいませ」
運ばれてきた料理を見て、カロン(中山実)は目を見張った。
白い陶器の皿に美しく盛り付けられた、細打ちの麺にハーブとトマトのソースが絡む「パスタ」。
薄く叩いた仔牛肉にきめ細やかなパン粉をまぶし、澄ましバターでカリッと黄金色に揚げ焼きにした「シュニツェル(カツレツ)」。
みずみずしく茹で上げられた「ホワイトアスパラガス」に、酸味の効いたオランデーズ風ソースを添えたサラダ。
そして、湯気とともに芳醇な香りを漂わせる、琥珀色の温かい「紅茶」。
(……な、なんという美しさだ……!)
地底での「三食すべて芋類」という過酷な食生活に耐え抜いてきたカロンにとって、それはもはや神々しいまでの光景だった。
カロンはフォークとナイフを手に取り、震える手でシュニツェルを一口大に切って口に運んだ。
サクッ……。
軽快な衣の歯ごたえの奥から、柔らかい肉の旨味とバターの香ばしさがジュワリと広がる。
続いてパスタを巻き取って含むと、トマトの爽やかな酸味と小麦の豊かな風味が鼻腔を抜けた。
みずみずしいアスパラガスを噛み締め、最後に温かい紅茶で口中を洗い流す。
(……美味い。美味すぎる……! これ、前世で国際学会に出席するためにドイツやオーストリアのウィーンへ行った時に食べた、本場のレストランの味と寸分違わないじゃないか……!)
文明の洗練された味覚に、カロンの心身の疲労がみるみるうちに溶け去っていく。
隣では、ガイル、ドランド、バルクの三人が「なんじゃこの細い紐のような料理は!」「肉が柔らかくて美味いぞ!」と豪快に平らげていた。
食事の席で、カロンはゲオルからこの街と大河についての詳細を聞いた。
ルーセンの街を潤すこの大河は『ライネス川』と呼ばれ、このまま数百キロ下流へと下った先には、ゲスハルト帝国の首都である「帝都グランツ」が栄えているという。
帝国の経済動脈とも言える重要な一級河川だからこそ、水力設備の設置には領主の厳格な許可が必要なのだ。
昼食を終えた午後。
カロン一行は、ゲオル商会が用意した立派な二頭立ての馬車に揺られ、ルーセンの城壁の外へと向かった。
同行しているのはゲオル会頭と、相変わらず無表情を装いながら鋭い視線を巡らせている秘書のガストンである。
馬車が城壁の北側、ライネス川の湾曲部に広がるなだらかな河原に到着した。
「ここが、商会として発電所の建設地にと考えている候補地です」
ゲオルが馬車を降り、扇子で広大な平地を指し示した。
カロンは馬車を降りると、小走りで川岸へと駆け寄った。
川辺の土を踏みしめ、しゃがみ込んで川底の傾斜と水流の速度をじっと見つめる。
(……素晴らしい立地だ)
カロンは即座に【構造鑑定】と流体力学の計算を頭の中で走らせた。
川幅はおよそ八十メートル。上流の渓谷から流れ込む水流は毎秒二・五メートルの流速を保ち、水深は最も深い場所で四メートルに達している。
何より素晴らしいのは、川岸に隣接する形で、直径五十メートル以上の広大な「硬質石灰岩の岩盤」が露出している点だった。
(地盤の支持力(N値)は極めて強固。軟弱地盤のような杭打ち工事を必要とせず、直接基礎(ベタ基礎)で数百トンの重量を持つ水力タービンハウスと変電所をそのまま建設できる。
上流にわずかな取水堰(可動堰)を築いてバイパス水路を引き込み、落差五メートルを確保して低落差・大流量用の【カプラン水車(可変翼プロペラ水車)】を二基設置すれば……連続出力で五百キロワット以上は固い!)
五百キロワット。
それは、ルーセン市内の全街路灯、主要な商店、工房のモーター、そして数百世帯の家電製品を二十四時間同時に稼働させてもなお余りあるほどの、莫大な電力エネルギーだった。
「ゲオル会頭」
カロンは立ち上がり、振り返って力強く告げた。
「完璧な場所です。十分な水流と水量、そして設備を支える強固な地盤が揃っています。ここに設計通りの水力発電プラントを建設すれば、ルーセンの街全体へ安定した電力を供給することが完全に可能です」
「まあ……! 本当ですか、カロン親方様!」
ゲオルの顔に、パッと華やかな満面の笑みが咲いた。
その隣で、ガストンが「チッ」と微かに奥歯を噛み締めるのを、カロンの耳は聞き逃さなかった。
現地の測量と大まかな配置確認を終えた後、ゲオル会頭はカロンたちを街の中心部にある宿へと案内してくれた。
「本日は長旅でお疲れでしょう。こちらの宿でごゆっくりお休みください。侯爵閣下への拝謁は明後日の午前十時となりますので、明日は終日、街をご自由に見学していただいて構いませんわ」
「色々と手配していただき、ありがとうございます」
ゲオルとガストンを見送り、カロンたちは宿の建物を見上げた。
そこは、石畳の広場に面した、四階建ての重厚な白灰色の石造り建築だった。窓辺には赤いゼラニウムの花が飾られ、いかにも中世ヨーロッパの伝統的な高級旅籠といった趣がある。
中に入ると、ゲオル商会からすでに話が通っていたらしく、恰幅の良い主人が揉み手をしながら最敬礼で出迎えてくれた。
「いらっしゃいませ、ガロニアの親方様方! お部屋は二階の特別スイートルームをご用意しております! どうぞごゆっくりおくつろぎください!」
案内された二階の部屋は、贅沢な木彫りの家具と四つの天蓋付きベッドが並ぶ広大な大広間だった。
ドワーフの屈強な男たち四人が荷物を置いても、まだ余りあるほどの広さである。
「すげえ部屋だな……! こんなフワフワのベッドで寝たら、背骨が曲がっちまうんじゃねえか?」
ガイルがベッドのマットレスを押して弾力に目を丸くしている。
荷物を整理した後、カロンたちは夕刻のルーセン市街を軽く散策した。
立ち並ぶ金物屋、香辛料店、革製品の工房を巡り、地上の技術水準と流通価格をしっかりと頭の中にインプットしていく。
そして――日没を迎え、一行は宿の一階にある併設のレストランへと降りていった。
ガラガラと木製の扉を開けて中に入ると、店内は仕事終わりの人間の商人や市民たちで賑わっていた。
しかし、四人のドワーフが入ってきた瞬間、店内のざわめきがピタリと止まり、全員の視線が一斉にカロンたちへと注がれた。
「おい、見ろよ……ドワーフの一団だぜ」「しかも子供が混ざってるぞ」「あんな小さな体で、一丁前に武器を背負って……」
「……ううむ、やはり目立つな」
ドランド隊長が苦笑いしながら、空いていた中央の大きな丸テーブルへと案内された。
席に着くと、すぐにエプロンを着けた恰幅の良い中年の女性給仕が、革表紙のメニュー表を持って注文を取りにやってきた。
「いらっしゃい、珍しいお客様方ね。ご注文はお決まりかい? ……あ、字が読めないなら、今日のおすすめを口で説明するけど?」
給仕の女性は悪気なく、親切心からそう声をかけてきた。
ドワーフ族は人間の共通語の文字を読めない者が多いという先入観があったのだろう。
しかし、カロンはメニュー表をサッと手に取ると、女神から授かった【完全言語理解】の力で流れるように文字を目で追い、一切の淀みない流暢な発音で注文を読み上げた。
「では、注文をお願いします。
前菜に『白インゲン豆とトマトの香味煮込み』を二皿。
それから『特製ソーセージと自家製サワークラウト(発酵キャベツ)の盛り合わせ』を大皿で一つ。
メインディッシュに『フォレストボア(猪肉)のグリルステーキ、黒胡椒と地底ハーブ風味』を四人前。
私の飲み物は『炭酸入りの搾りたてリンゴ果汁』を一杯。……以上でお願いします」
「「「…………え?」」」
給仕の女性が、メモを取る手を止めて目を丸くした。
それ以上に――
カロンの隣に座っていたガイル、ドランド、バルクの三人が、まるで幽霊でも見たかのように顎を外して固まっていた。
「か……カロン……?!」
ガイルが震える指でカロンを指差した。
「お前……なんで人間の国の言葉の『文字』が、スラスラと読めるんじゃ……?! 学校でも人間の文字なんて習っとらんじゃろ?!」
「あ……」
カロンは内心で冷や汗を流したが、すかさず前世の講義で鍛え上げたポーカーフェイスを作り、いつもの「万能の方便」を繰り出した。
「父さん、これも例の……意識を失っていた一か月の間に、祖神トール様が私の頭の中に直接授けてくださった『異国の知恵』の一つです。人間の言葉も文字も、自然と頭に浮かんでくるんです」
「ト、トール様……!!」
ガイル、ドランド、バルクの三人は、一瞬で納得したように深々と天を仰いだ。
「さすがはトール様の使徒じゃ……!」「カロン親方なら、人間の文字が読めても何の不思議もないわい!」
「おい給仕さん! ワシら三人も、カロンと同じ料理で頼む! ただし飲み物は果汁じゃなくて、一番デカい樽生エール(ビール)を三つじゃ!!」
「は、はいっ! 喜んで!!」
給仕の女性は圧倒されたように返事をし、厨房へと小走りで戻っていった。
やがてテーブルに運ばれてきたのは、湯気を立てる熱々のボア肉ステーキと、酸味の効いたサワークラウト、そして濃厚な豆とトマトの煮込みだった。
カロンは冷たいリンゴソーダを喉に流し込み、ジューシーな猪肉を噛み締めながら、至福の笑みを浮かべた。
(美味い……。食文化の豊かさこそが、文明の成熟度の証だ)
明後日は、この街の最高権力者であるハインリヒ侯爵との会談。
そして、あの漆黒のオーラを纏った男・ガストンの蠢く影。
波乱の予感を胸の内に秘めながら、カロンは仲間たちとともに、地上の豊かな夜を心ゆくまで堪能するのだった。




