第十一話 二匹の金魚
小学生の頃、家の近くに少し風変わりな店があった。
木造の古いこぢんまりとした建物で、季節に関係なく入り口には金魚の風鈴がぶら下がっていた。中にはお箸、扇子、しおりなどいろんなものが並んでいて、そのどれもに金魚が描かれていた。
奥では無口で不愛想なおじいさんがいつも水槽に金魚を泳がせていて、僕と美咲はよく二人でそこへ遊びに行った。
おじいさんは黙って僕らにポイを渡してくれた。捕まえたらすぐ水に戻す。それさえ守れば、いつでも、いつまででも、金魚すくいをさせてくれた。
「私ね、金魚が好きなの」
水槽の金魚を目で追いながら、美咲は嬉しそうに言った。
「おじいちゃんは、金魚、好き?」
おじいさんは相変わらず無表情だったけれど、どこか優しげにも見えるような目をして頷いた。
「金魚、綺麗だもんね」
僕は、そんな彼女の横で一匹の金魚に目をつけた。
静かにポイを入れて、優しく掬い上げる。そして、さっとお椀に金魚を移した。
「涼太すごい!」
美咲は目をキラキラさせて、とても嬉しそうに笑った。
「誰でもこれくらいできるよ」
「違うよ。涼太の捕まえ方はね、優しいの。金魚がね、ぜんぜん苦しそうじゃないの」
「そう?」
「そうだよ。涼太のそういう優しいところ、私、好きだな」
そう言って、彼女は屈託なく笑った。彼女の笑顔は眩しくて、胸が苦しくなる。
美咲の好きは僕の好きとは違う。そんなことは当時の僕にも分かっていた。それでも僕は彼女のことが好きで、彼女のそばにいたくて、そんなことばかりを考えていた。
小学校からの帰り道、僕はいつも通り美咲を誘って一緒に歩いていた。
「ねえ、美咲」
「なあに?」
「左手、出して」
美咲は不思議そうに首を傾げながら、おそるおそる手を出した。
「あげる」
僕はその薬指にガラスの指輪をはめた。ガラスの中の真っ赤な金魚が、彼女の細い指の上で、美しく光っていた。
「これ、どうしたの?」
「おじいさんのとこで買ってきた」
僕は自分の左薬指につけた指輪を見せた。
本当は一つを買うお金も足りていなかった。けれど、店の中、指輪の前でいつまでも立っている僕を見て、おじいさんは黙って二つ渡してくれたのだ。
「おそろいだよ」
美咲は指輪見つめたまま、戸惑った表情をした。
「だめだよ」
予想外の反応に、今度は僕が戸惑った。
「指輪ってね、特別な人どうしがつけるものなんだよ。お父さんが言ってた」
「僕にとって、美咲は特別だよ」
「私も涼太が特別だよ。でも……」
「……分かってるよ」
――分かっていた。僕の特別と彼女の特別は、同じじゃない。
「僕らは友達だもんね」
美咲は黙って頷いて、指輪を外そうとした。慌ててその手を止める。
「大丈夫、そういうのじゃないから。これはお守り。友達としての、お守り」
「お守り?」
「そう。これを持ってたら、困ったときいつでも僕が助けに行く。これは僕が友達として、美咲を守るためのお守り」
「ほんと?」
「ほんとだよ。僕が、美咲を守ってあげる」
それを聞いて、美咲は安堵したように微笑んだ。
「分かった、お守りね」
美咲は薬指につけたまま、その指輪を太陽にかざした。金魚が生き生きと泳いでいるように見えた。
それから一週間も経たなかったと思う。
その日は雨で、僕は昇降口で美咲が来るのを待っていた。けれどいつまで経っても美咲は来なくて、先に帰ってしまったのだろうかと不安に思っていた。
そんなとき、美咲と同じクラスの女子三人組がやって来た。そして、その先頭の女子の左指に、光る金魚が見えた。
状況を理解した途端、ふつふつと何かが湧き上がってきた。
「あ、涼太くん!」
彼女はこっちの気も知らず、のこのことこっちへ向かってきた。
「なんで、君がつけてるの?」
「ん? 何が?」
「指輪だよ」
「ああ。なんかね、落ちてたの。可愛いからつけちゃった」
彼女は満足げに笑った。その笑顔が腹立たしくて、気持ち悪くて、我慢ならなかった。
「本当のこと言えよ」
「え?」
「嘘ついてんじゃねえぞ」
いつもとは違う強い口調に、彼女は少したじろいだ。
「だって……だって、あいつうざいんだもん。いつも涼太くんにくっついてばっかりで」
「返せ。それは美咲のだ」
「あいつが悪いんだよ。涼太くんに近づくなって何回も注意したのに、今度は指輪なんかつけてきちゃって」
そのとき、初めて気づいた。
美咲が最近、よく鉛筆を失くしていたこと。上履きが不自然に汚れていたこと。朝から雨が降っていたのに、放課後になって傘を忘れたと言ったこと。
全部全部――僕のせいだった。
「返せよ」
僕は彼女の指から無理やり指輪を取った。
「痛いよお」
彼女はわざとらしく泣き真似をしたけれど、どうでもよかった。
「美咲はどこだ」
「……なんであんなやつなんか。涼太くん、騙されてるんだよ」
「は?」
「あいつは涼太くんのこと、好きなんかじゃないんだよ? なのに思わせぶりばっかで」
「美咲はどこだって聞いてるんだよ!」
声を荒げるとさすがに怖くなったのか、彼女は本気で泣き出した。
その右隣の女子を睨みつけると、彼女は怯えた顔、震える声で、二階のトイレだと言った。僕は急いで二階へ向かった。
階段を駆け上って女子トイレへ駆け込むと、美咲が床に四つん這いになって、一生懸命に何かを探していた。
「美咲!」
美咲は振り向くと、涙をボロボロこぼした。
「涼太、どうしよう。お守り、失くしちゃった。流されちゃったのかも」
彼女はまた指輪を探し始める。
「ごめん、僕があんなものあげたから」
「違う、違うよ。私がお守り失くしちゃったから、だから涼太、助けに来れなかったんだよね」
美咲の震える声に、僕まで涙が込み上げてきた。
「ごめんね、せっかくくれたのに。ごめんね」
美咲は泣きながら、何度も何度も謝っていた。
彼女の笑顔が見たかった。彼女の特別な存在になりたかった。ただ、それだけだったのに。
「もういいよ、美咲。大丈夫だよ」
僕は美咲を抱きしめた。
「……涼太。私、思わせぶりしてた? 傷つけちゃった? 涼太は……私と友達、やめたかった?」
美咲は僕の腕の中で泣きじゃくる。
いつもは迷いなく突き進むたくましい彼女。そんな美咲もその瞬間は、今にも消えてしまいそうな、儚くて弱弱しい少女だった。
「そんなことないよ」
顔を上げた美咲の目は涙の粒でいっぱいで、次から次へと溢れ出してくる。
「美咲の好きはそういう好きじゃないって、美咲と僕は友達だって、ちゃんと分かってるよ。僕も美咲と友達でいたいって、ずっと思ってるよ」
「……ほんと?」
「ほんとだよ。僕らはずっと、友達だよ」
「……うん。ありがとう」
彼女は僕の胸に顔を埋め、安心したように息をついた。
結局、僕は美咲に指輪を返さなかった。返せなかった。あれがある限り、僕の好きを押し付けるたび、美咲は不幸になる。
だから僕は、あの日のふたりを閉じ込めるように、二つの指輪を――二匹の金魚を、そっと引き出しの奥底にしまったのだ。