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翡翠と琥珀  作者: ヤマキ ヒサト
リプロス編
46/126

隔靴掻痒

 喉だけでなく、口の中までからからに乾いている気がする。

 自分はベッドの上に寝転んでいて、視線の先に見える戸から琥珀色の少女が水の瓶を持って入って来たときはどこかほっとした感覚だった。


「ほれ主様、今注いでやるからの」


 そう言って彼女は床に両膝をつき、瓶からグラスへと水を移していく。

 少しだけ上体を起こしたジェードは、すっかり熱くなってしまった手でアンバーが差し出したグラスを受け取った。


 その中の水を一口ずつ、丁寧に、ゆっくりと口の中へと流し込んでいく。

 体温が高いせいだろうか、よく冷えた水が喉を通って胸の中を下りていくのがはっきりとわかる。

 時間をかけてグラスの中身を飲み干したジェードは、ふうと小さく息をつくと再びベッドに身を横たえた。


「ありがとう、アン」


「おかわりは要らぬか?」


「一杯で十分だよ。そんなに飲んだら水っ腹になってしまうじゃないか」


「ふむ、そうか」


 ジェードは優しく微笑みかけていたが、赤くなった顔はやはりどこか苦しそうにも見える。

 アンバーは木の洞でしてみせたように、再びジェードと頬を合わせると「むむむ……」と難しげに唸った。


 触れ合った頬から感じる柔らかさがなんとなく気恥ずかしい。

 少しひんやりしていて気持ちがいいと言えばそうなのだが、これではむしろ熱が上がってしまいそうだとも思うジェードなのだった。


「やはり熱いのう。熱を下げねば辛かろう? わしが何とかしてやるからの!」


 そう言って立ち上がったアンバーは、すたすたと窓辺へ歩いていく。

 そして何を思ったか、部屋の窓を全開にしてみせた。


 冷たい風が部屋に流れ込んできて身震いがする。

 さらにアンバーはジェードの鞄を漁ると一枚の板を取り出した。

 これは普段、ジェードが絵を描く際に紙を上に乗せているものなのだが、彼女はその板で必死にジェードを扇ぎ始めたのだった。


「ねえアン、寒いんだけど……」


「少し我慢じゃぞ主様よ。熱くなり過ぎて調子が悪いなら、きっと冷やせばよくなるはずじゃ!」


「アン、お願いだからちょっとだけ話を……」


 これはいけない、と直感したジェードだったが、必死な様子のアンバーは聞く耳を持たない。

 余計に酷くなる前にどうにかせねばと思ったその時、部屋の戸を二度叩く音が聞こえた。


「アンバーさん、入ってもよろしいでしょうか?」


「うむ、構わぬぞ」


 ゆっくりと戸を開けて入ってきたのは、この山小屋に住む少女――テレサだった。

 彼女は両手で桶を抱えていたが、部屋に入った途端その寒さに一瞬飛び上がりかけていた。


「どうしたのですか!? こんなに部屋を冷やして……」


「む? 主様の熱を下げてやらねばと思ってのう」


「濡れて身体が冷えたから具合が悪くなったのだと申し上げたではありませんか。これでは余計に悪くなってしまいますよ、アンバーさん!」


「そうなのか!? しかし、熱でこんなに苦しんでおるのにどうすれば……」


 持ってきた桶を小さなテーブルに置き、慌てて窓を閉めるテレサ。

 そしてきょとんとするアンバーを横目に、彼女は桶の水で布を固く絞り始めた。


「熱があるときに冷やすのは身体全体ではなくて、頭だけでいいのですよ」


 そう言ってテレサは、絞った布をジェードの額に乗せた。

 しかしアンバーはこれだけで本当によくなるのか、甚だ疑問が拭えないでいたのだった。


「出過ぎたことを致しました。では、何かあれば遠慮なく仰ってください」


 そう言って小さく頭を下げたテレサは部屋を後にした。

 してやられたというのだろうか、アンバーはどこか悔しいような気がして一人頬を膨らませていた。



 *****



「主様よ、わしは聞いたことがあるぞ。体力をつけるには肉を食えばよいのじゃろう?」


「……うん、まあ、そうだね」


 熱でぼんやりする頭で曖昧な返事を返すジェード。

 どちらかと言えば寝かせておいて欲しい気もするが、なぜか張り切っている様子のアンバーを今更止められるとも思えない。


「具合が悪いときには体力を補ってやらねばならぬ。じゃから今から林をひとっ走りして、ウサギでも捕まえてくるからの。少し待っておってくれ!」


「ねえアン、そうじゃなくて……」


 しかしジェードの掠れた声は彼女には届かず、アンバーは颯爽と部屋から出て行ってしまった。

 どうやら彼女なりにジェードの看病をしようとしているようなのはわかるのだが、やっていることがどうにも野性的すぎる。

 森に住んでいた時、彼女はこんな非効率的な方法で病気を治していたのだろうか。

 どうにも腑に落ちないのだが、必死なアンバーの姿を見ているとやめてくれとも言いづらく、やりどころのないもやもやした思いが胸に溜まっていくようだった。



 *****



「ぐぬぬ……野鼠しか見つけられぬとは……。じゃが、その代わりに薬草も摘んできたからよしとしよう。待っておってくれ主様。すぐ部屋に持っていくからの!」


 見事に獲物を捕らえて山小屋の前まで戻ってきたアンバー。

 あとはこれを焼いてジェードの元へ持っていけば、と考えたその時だった。


「……火は、どうやって起こすんじゃったかの?」


 いつもジェードがしてくれているのを見ていたはずだが、いざ自分一人でしようとするとどうしていいかわからない。

 見様見真似で枝を擦ってみたり、石をぶつけ合わせてみたりするものの、アンバーはまったく火を起こすことができないでいた。






「主様ぁ……」


 気がつくとアンバーは小屋の中へ戻り、ジェードが寝ている部屋の戸を開けて彼に助けを請いに来てしまっていた。

 これでは本末転倒だと自分でもわかってはいるのだが、もう彼女はこうする以外に打つ手がなくなってしまったのだ。


「あっ、アンバーさん。戻られたのですね。ジェードさんが心配なさっていましたよ?」


 しかし部屋でアンバーを出迎えたのは、ジェードのベッドの横に座ったテレサだった。

 彼女は皿と匙を手に持っていて、ジェードに何かを食べさせていたようだった。


「何をしておるのじゃ?」


「はい、少しでも何かお腹に入れておいたほうがいいと思いまして。勝手ながら粥を準備させていただいておりました」


「わっ、わしだって、野鼠を獲ってきたのじゃぞ! 見てくれ主様!」


「うん、気持ちは嬉しいんだけど……今肉を出されても喉を通る気がしないんだよ」


 捕らえた鼠を突き出したまま固まってしまったアンバー。

 そんな彼女に聞こえないよう、「それに、鼠はさすがに……」とジェードが呟くと、テレサは小さく笑ってみせた。

 必死の奮闘を見せたものの、アンバーはテレサに対して二度目の完敗を喫したのだった。



 *****



 ベッドの横で大人しく座っているアンバー。

 彼女の視線の先には顔を赤くしたジェードが横たわっている。

 未だに熱が下がる様子はなく、彼の顔には大粒の汗が浮かび始めていた。


「また汗が……やはり熱いのじゃろうな。じゃが、冷やしてはならぬのじゃろう……むむむ、わしはどうすれば……?」


 あたふたと目を泳がせていたそのとき、部屋の戸が二度叩かれる音がアンバーの耳に届いた。

 戸の向こう側から「入りますね」とテレサの声。

 部屋に入ってきた彼女は、綺麗にたたまれた一枚の布を手にしていた。


「どうぞ、これで身体の汗を拭いて差し上げてください」


「……む、わしがか?」


「はい。私はこれをお渡しに来ただけですので。失礼致します」


 テレサはそれだけ言い残して部屋を後にした。

 手渡された布を握り締めてぐぬぬと唸っているアンバーは、何もできない自分は情けをかけられたのだとでも思っているのだろう。

 いつの間にかテレサと張り合っているアンバーの子供っぽさが少し微笑ましく思えたジェードだが、彼女の悔しさが的を得ていないことは伝えるべきかどうか迷ってしまったのだった。



 きっとテレサ(あの子)には、僕らの関係は見抜かれてしまっているんだろうな。

 まあ、アンがこれだけ必死になっているんだから当然か。



 アンバーに助け起こされながら服を脱いだジェードは、やや膨れた彼女の頬に苦笑いしながら身体中の汗を拭いてもらうことにしたのだった。



 *****



「はぁ……」


「……元気出しなよ、アン」


 ベッドに塞ぎ込んだアンバーは大きな溜め息を漏らした。

 それを励ますジェードとの立場は本来真逆であるはずなのだが、落ち込む彼女にそのようなことはとても言えない。


「わしは主様がおらねば何も出来ぬのじゃな……。いつもいつも主様に助けてもらってばかりで、何も返せておらぬ」


 部屋で二人きりになったアンバーの耳がしゅんと垂れ下がっている。

 それを見ていると、なんだかジェードの方まで罪悪感を感じてきてしまうような気がした。


「でも、僕のために一生懸命になってくれた君の気持ちは、すごく嬉しいよ」


「……怒らぬのか? 具合の悪い主様に迷惑ばかりかけたのに……」


 ジェードの言葉が予想外だったのか、アンバーは耳をぴょんと起こして塞ぎ込んでいた顔を持ち上げた。


「怒るはずないだろう? それとも君は、僕に迷惑をかけたくて今まで張り切っていたのかい? それなら怒るけど」


「……違う」


「じゃあ、別にいいじゃないか」


 アンバーには、一体何が"別にいい"のかまったく見当もつかなかった。

 一人で勝手に突っ走って、空回りして、挙句の果てには自分の無力さについて愚痴を零し始めた。

 そんな彼女の一連の行動に、まさかジェードが怒っていないどころか喜んでいるなど、アンバーは露も想像してはいなかったのだ。


「少し眠るよ」


「うむ、わかった」


 ジェードはアンバーに向けて優しく微笑むと、そっと瞼を閉じた。

 そんなジェードの邪魔になってしまわないようにと、アンバーはゆっくりと戸を開けて部屋を後にしたのだった。

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