お前さんは恵まれとる
そっと部屋の戸を閉じ、廊下をとぼとぼと歩く。
特にその先に用事があるわけでもないが、部屋で一眠りするジェードの邪魔をしないようにと考えると自然と足が居間へと向いたのだった。
「……はぁ」
「どした。そんな人が変わったみたいに落ち込んで」
呼びかけてきた声に顔を上げると、その先にいたのはベッドからアンバーを見上げる老父――アドルフだった。
太い眉の下から真っ直ぐに向けられた鋭い視線は身構えてしまいそうな迫力を持っているが、アンバーがそれにどうこう感じている様子はない。
それどころか彼女はゆっくりとアドルフの方へ近づくと、彼のベッドの縁に腰かけて俯いたのだった。
「わしは役立たずじゃ。主様にあれだけ世話になっておきながら、わしは何一つ返せておらぬ。主様がおらねば、わしは何も出来ぬのじゃ……」
「何やら色々頑張っとったが、うまくいかんかったみたいだな。だが、そう決めつけるのはまだ早いんじゃないか?」
「……む?」
アドルフの言葉にアンバーが振り向くと、彼は強面でありながらどこかホッとするような目つきをしていることに気づいた。
会ったばかりのはずであるのに、彼の持つ雰囲気はどこか懐かしい気がする。
人と接することにも随分慣れたアンバーだが、アドルフにはそれ以上の何かを感じて無意識に心を許していることには自分で気づいていなかったのだった。
「何もできなかったのはお前さんが役立たずだからじゃあない。それを今までしてこなかっただけ――する機会がなかっただけのことだろうに」
アドルフの言葉に首を傾げるアンバー。
彼が自分のために何か伝えようとしているのはわかるのだが、実際に何もできていない自分のことを役立たずではないと言われてもすんなり納得はできなかった。
「当ててやろう。お前さんが何も上手くやれなくても、お前さんの連れは一つも責めなかったろ。違うか?」
「……なぜわかったのじゃ?」
ぴたりと的中したアドルフの言葉に、アンバーも驚きを隠せないでいた。
苦しむ仲間のために何もしてやれなかったというのに、ジェードもアドルフもそれをあっさりと許容しているのが理解できない。
そんなアンバーに対し、アドルフは「なあに、簡単なことさ」と笑ってみせた。
「お前さんみたいな娘子がここまで必死に尽くそうとする男が、そんな小さな器のはずがないからだよ。よかったな、お前さんは連れに恵まれとるぞ」
アンバーは唖然とした。
人間の考え方は本当に難しい。
まだ一言も会話していないはずの相手を、このような憶測だけで簡単に評価してしまえるのはなぜなのだろうか。
彼らの価値観を理解できずにもどかしい反面で、アドルフがジェードのことを褒めているような気がして自分の方が嬉しくなってきてしまう。
しかし気持ちの整理がつかないアンバーは、アドルフの言葉をただ黙して聞くことで精一杯であった。
「まあ、そんなに落ち込むこたぁないさ。始めっから何もかんも上手くやれるヤツなんかおりゃあせん。そんなこともわからずにそれを咎めんのは阿呆だけだ。連れがそういう阿呆じゃなかったことを、お前さんは胸を張って誇っていい」
「……うむ。主様は本当に素晴らしいお人じゃ。それは前々から知っておる」
アドルフの目を見て話を聞いていたアンバーは、不意にまた俯いて情けない声で答えた。
「だからこそ、こうしてわしのせいで迷惑をかけてしまったことが苦しくての……」
「そりゃあ勘違いってやつだろう。お前さんの連れは迷惑だなんて思っちゃおらんさ。愛しい者が自分のために必死に考えてしてくれたことが、嬉しくない男がおるはずはないだろう」
まただ、とアンバーは思った。
ジェードもアドルフもまた同じことを言う。
彼女のしたことは迷惑ではない、彼女は決して役立たずなどではない、と。
行動の結果がどうであれ、自分のためを思ってしてくれたことなら、彼らはこうして快く受け入れるのだ。
「主もそうなのか? テレサが主のために頑張ってくれると嬉しいのか?」
「もちろんだとも。昔のあの子は今のお前さんにそっくりでな。何をするにしても失敗ばかりでよくへこんでいたよ。俺は何一つ責めた覚えはねえってのになぁ」
孫娘の話になると、アドルフはしわだらけの顔をさらにくしゃくしゃにして嬉しそうに笑った。
「テレサだって最初から何でもできたわけじゃあなかった。俺の世話をする中で、時間をかけて一つずつ覚えていったのさ」
「あのテレサがか。……想像できぬな」
突然やってきたジェードたちを受け入れ、細かな気配りで様々な世話を焼いてくれるテレサ。
それでいて彼女は嫌な顔一つせず、いつも礼儀正しくて勤勉だ。
そんな彼女にも、今のアンバーのように自分の無力さに悩んだ時期があったのだと聞くと、半分信じがたいような、それでいてどこか親近感が湧いてくるような気がした。
思えば、自分と比べてテレサが何でもできるのは当たり前なのだ。
彼女は寝たきりの祖父に尽くすために五年も努力を重ねてきた。
そんな相手に対し、つい最近やっと人とまともに関われるようになったアンバーが張り合ったところで結果は見えているのだ。
そう思うと、急に自分の幼稚な矜持がとてもくだらないように思えて笑いが零れそうだった。
「……わしにもできるかのう」
「んー?」
小さく呟いたアンバーの声に、アドルフが少し嬉しそうな表情を浮かべた。
そんな彼に対し、アンバーはぐっと顔を近づけて目を輝かせた。
「今から覚えていけば、わしも主様のために何かできるかの!」
「そりゃあお前さん次第だな。だが、さっきも言ったようにお前さんは恵まれとる。教えて欲しいことを全部知っとる者が、今もすぐ近くにおるんだからな」
そう言ってアドルフは窓の外へと視線を向けた。
彼の眼の先には、石鹸で衣服を手揉み洗いするテレサの姿があった。
彼女のようになれば、もっとジェードの役に立てる。
きっと今までのようにただついていくだけではなく、ちゃんと胸を張って隣を歩ける。
そう、彼女は彼からたくさんもらった分、彼にたくさん返していけるような存在でありたいのだ。
アンバーは湧き上がるそんな気分を清々しく思い、つっかえが消えた心がすっと軽くなったように感じたのだった。
「うむ、なんだか主と話したら元気が出てきた。では、ちょっとテレサのところに行ってくるかの!」
元気よく立ち上がったアンバーは、小屋の外にいるテレサの元へ行こうと部屋の戸に手をかけた。
そして眩しいほどの笑顔で振り返ると、ベッドから彼女を見つめるアドルフに「ありがとの!」と言い残して部屋を去った。
強面ながらも優しい微笑みでアンバーを見送ったアドルフ。
彼女が部屋を出たあと、彼は少しだけ顔を歪めて横腹を抑えていた。
せっかくあんなに嬉しそうに笑ってくれるようになった少女にそんな姿を見せずに済んだことには、彼は内心ほっとしていたのだった。
*****
「テレサよ」
洗った衣服を絞っていたテレサは、背後から呼ばれた声に「はい」と短く返事をして振り返る。
そこには後ろで手を組んでもじもじと目を泳がせるアンバーの姿があった。
「どうかなさいましたか? 何か必要なものでも?」
「いや、そういうわけではなくてな……」
こうしてテレサと向き合うと、アンバーはどうにも気恥ずかしい気分になった。
病人を熱心に看病してくれたテレサの気持ちはもちろん嬉しいし、感謝もしている。
しかし先程までアンバーは自分の自尊心をむき出しにして、テレサの厚意に張り合おうとしていたのだ。
そんな自分が今からテレサに何を頼もうとしているのかと考えると、自分にそんな資格があるのかとつい躊躇ってしまいそうになる。
「……さっき見てわかったと思うがの。恥ずかしいことにわしは、主様がおらねば何もできぬ。ずっと主様に甘えっぱなしで、主様のために何の努力もしてこなかった――」
本当に言いたいことがなかなか言えない代わりに、遠回しな前置きを並べ始めてしまった。
ジェードに対してはどこまでも素直になれるのに、他の者に対してはどうしてこうも身構えてしまうのだろうか。
ジェードと出会い、共に旅をするようになってからというもの、今まで知らなかった新しい感覚にいつも惑わされてばかりだ。
「――じゃから、わしはの、その……。わしもテレサのようになりたいのじゃ。わしが苦しいときに主様が助けてくれるように、わしも主様が苦しいときに力になりたい。じゃから、ええと……そのために色々教えてはくれぬか!」
山小屋の側を吹き抜ける、少し湿った冷たい風。
その中でアンバーは、まるで整理のできていない不器用な言葉でありったけの思いを伝えてみせた。
ずっと静かに聞いていたテレサは、その思いを聞き届けるとアンバーにそっと微笑みかけた。
「ジェードさんのために頑張るんですね。とても素敵なことだと思いますよ。きっと喜んでくださいます」
緊張の色を見せていたアンバーの表情に笑顔が戻った。
"ジェードが喜んでくれる"――テレサが返してくれたその言葉一つで、アンバーは胸が高鳴っていくのを感じた。
「そうじゃ! 主様のために頑張るのじゃ! わしは変わってみせる! なんせわしらは恋仲じゃからの!」
「やはり恋仲だったのですか。アンバーさんはすごいですね。そんなに堂々と言えるなんて」
「む、簡単じゃぞ? 好きじゃと言う気持ちを口に出すだけじゃ」
頬を掻きながら「あはは」と笑ってみせるテレサ。
何も難しいことをしてはいないのに、どうして自分は褒められているのかと、アンバーはテレサに向けて首を傾げた。
自分より"すごい"と思っている相手から、逆に"すごい"と称賛されてしまうと、どうにも調子が狂いそうだ。
「話が逸れてしまいましたね。先程の申し出、私でよければ引き受けさせていただきます」
「うむ、よろしく頼むぞ!」
アンバーが元気よく笑い、それにつられてテレサも微笑む。
そして先程まで洗っていた衣服をテレサが手早く竿に干すと、雲の切れ目から暖かな日差しが差し込んだ。
今日はよく乾きそうですね、なんて一言を零したテレサは、アンバーと共に小屋の中へと戻って行ったのだった。




