溢れるほどの
首都での生誕祭のもう一つの目玉――夜の舞踏会には参加せず、負傷したアーロンの手当だけを済ませてからジェードたちはアルスアルテへと帰還した。
貴族や富豪たちの社交の場など、田舎者のジェードは息が詰まりそうになる。そのような高貴な場所よりも、愛する楽園の小汚い酒場の方が彼らにとっては居心地のいい場所なのだ。
ジェードがカピタラの大舞台を降りたその後、白紙だったジェードの絵画に買い手がつくことはなく、彼は棄権扱いとなった。
ジェードの演説がカピタラの民によい印象を与えたことは間違いない。しかしディーノによって提示された、ジェードの絵画が競り市で落札されるという条件は守られていない。
カピタラの指導者ディーノがどういった結論を出すのかは、結局のところわからずじまいだった。
それでも、アルスアルテにこれ以上の策などない。全員がやれるだけのことをすべてやりきったのだ。
もしもこれで退去命令が取り下げられなければ、今度こそ大人しく従うしか道はない。
しかし、その杞憂は一晩で過ぎ去った。
翌朝アルスアルテには、たった二人の部下のみを引き連れた衛兵隊長のサリバンが、武装解除した状態でやってきたのだ。
サリバンはディーノの署名の入った公文書を再び提示してきた。その内容は、ジェードらが死に物狂いで勝ち取った、退去命令の取り下げを通達するものだった。
怪我で安静にしているアーロンの代わりにサリバンからその文書を受け取ったのは、アルスアルテでもはや英雄と呼ばれるようになってしまったジェードだった。
手放しで喜びたいのをぐっと堪え、ディーノにも改めて感謝の挨拶をしに行きたいとジェードが語ると、サリバンは鬱陶しそうに眉をひそめていた。
サリバン曰く、その必要はないとのことだ。
ディーノが提示した条件は満たされていないが、ジェードの言葉はカピタラの住民たちの意識に少なからず影響を及ぼしているらしい。
命令を撤回しなければ指導者の信頼に関わる事態になってしまったと、サリバンは迷惑そうに語っていた。
今回は特例で命令を撤回する。その代わりにアルスアルテが提示した、野生の魔猪との関係悪化を防ぐために全面協力するという公約は守ってもらう、と言い残してサリバンは去っていった。
彼は負けず嫌いなのかひねくれ者なのか、よくわからないがあまり素直ではない。アーロンが相手をしたならばまた喧嘩になっていただろうなと、ジェードは別の意味で胸を撫で下ろしていた。
カピタラで捕らえられていた魔猪たちは山へ放されたが、その一部がアルスアルテへ流れ着いた。
彼らを拒む理由などもちろんありはしない。魔猪の住人たちを中心に彼らの新たな生活を支援するということで、カピタラとの問題は最終決着がついたのだった。
当然のことながら、この日のアルスアルテは昼間から飲めや歌えやの大騒ぎとなった。
街で一番騒いでいたのは、傷だらけの背中を包帯でぐるぐる巻きにしたアーロンだ。
ハーティからは大人しくしているよう何度も叱られていたが、こんなめでたい日に寝ていられるかと、アーロンは酒場の酒を浴びせるような勢いで仲間たちに振る舞っていた。
終いには乾杯の掛け声が「英雄ジェード万歳!」になったものだから、羞恥で顔を赤らめたジェードはやめてくれと何度もアーロンに嘆願する始末だった。
*****
夜が更ける頃には、騒ぎ疲れたアーロンたちが酒場のテーブルでだらしなくいびきをかいていた。
街ごとすっかり寝静まった中、ジェードは酒場の外に座り込んで夜空を眺めながら一人グラスを傾けていた。
「やっと静かになったのう」
そう言って酒場から顔を出したのは、酒場で保護されている子どもたちを寝かしつけてきたアンバーだった。
街中の人々に捕まっては代わる代わる酒を注がれる人気っぷりだったジェードは、随分久し振りに彼女の声を聞いたような気がしてどこかほっとしていた。
「まあ、めでたい日だし今日くらいはいいだろう。そうだ、チェルシーの様子は?」
「少しずつじゃが元気になっておる。主様の活躍で街が助かったと聞いてほっとしておるようじゃ」
「そうかい。……よかった」
カピタラの衛兵部隊によって拉致され、心身ともに傷ついて戻ってきたチェルシー。
彼女はずっと、自分がアルスアルテの秘密を暴露したせいで街が危機に陥ってしまったと不安に思っていたようだ。
しかし、今日でその心配もなくなった。
チェルシーが負った傷は簡単に癒えるものではないかもしれないが、少しずつでも元の彼女に戻る兆候が見られたのなら喜ばしい限りだ。
そう思ってジェードがふうと息をつくと、アンバーは彼の左隣に腰かけて肩をぴたりと寄せてきた。
今日は飲んだ酒の量の割にあまり酔っていない。いつもならとっくに胸やけしていそうだが、今夜は不思議なくらい気分がよかった。
「……夢でもみているみたいだよ、アン。僕は本当に……今度こそ本当に、守ることができたんだよね……?」
なぜだか自信なさげにそう尋ねるジェード。
彼はかつて、故郷の森に火が放たれるのを防げなかった。その過去を未だに思い起こすことがあるジェードは、そのことを今回の事件ともつい重ねてしまっていた。
アンバーはそんな彼の肩にそっと自分の頭をのせると、短く「うむ」と答えてみせた。
「その通りじゃ主様。主様のおかげでこのアルスアルテは救われた。これからはカピタラと尾人の関係も少しずつよくなっていくじゃろう。それは主様がその手で変えたことじゃ。もっと誇ってもよいのではないか?」
「いやあ、なんというか、あんまり実感が湧かなくて」
ジェードが照れ臭そうに笑うと、アンバーは彼の左手に自分の右手を滑り込ませてきた。
白く細い指を絡めながら、そっと握り返すジェード。その手の感触の何が嬉しかったのか、アンバーはふふ、と小さな笑みをこぼした。
「主様は本当に、世界一の殿方じゃ。そんな主様の"一番"でいられることが、わしはこの上なく嬉しい」
「僕はそんな大層なものじゃないよ。変わり者で不器用で弱くてちっぽけな、ただの絵描きに過ぎないさ」
「ほほう。そんなちっぽけな絵描きの手で変えてしまえるとは、世界というものも思ったよりちっぽけなんじゃのう」
悪戯っぽく笑うアンバーに、ジェードもやや呆れながら笑みを返す。
そんな時間がたまらなく心地いい。いや、彼女が隣にいさえすれば、きっとどんな時間も愛おしく感じるのだろう。
「世界は思ったよりちっぽけ、か……。いや、きっとそんなことはないよ」
右手のグラスの葡萄酒を一息に飲み干したジェードは、そう言って不意に立ち上がった。
左手を握るアンバーも、彼に引っ張られて立ち上がる。
満点の星空が輝く下で遥か遠くを見据えるように佇むジェードは、アンバーの右手の感触を確かめるようにその手を握りなおした。
「まだまだ世界には、僕らの知らない美しいものが溢れているよ。それはきっと、人生のすべてを捧げても見尽くすことができないくらいたくさんあるんだ。僕はそれを一つでも多くこの目に焼き付けたい。まだ見たことのない美しい世界を、君と一緒にもっと知りたいんだ」
寒空に一筋、星が流れた。
それを見送ったジェードは、翡翠の瞳をじっと見つめる水色の瞳へと視線を落とす。
そのまま少しの時が流れると、アンバーはくすりと笑ってその目を細めた。
「主様にとって"一番美しい"ものが隣にあるというのにまだ足りぬとは。主様はとんだ欲張りじゃな」
「そうだね。僕はとても欲張りみたいだ」
そう言ってジェードはそっとアンバーの腰に手を回し、彼女の細い胴を抱き寄せた。
こつんと額を合わせると、互いの鼻同士まで触れ合ってつんと冷たく感じる。
そんなひんやりとする感覚ですら彼の、彼女の体温であるというだけでたまらなく心地よかった。
「だから君には、これからもずっと僕の隣にいて欲しい。どこへ行くにも何をするにも、君と一緒じゃなきゃ満足できないんだ。こんな欲張りな僕だけれど、君はついてきてくれるかい?」
「ふふ。愚問じゃな。こんな幸せを知ってしまっては、今更主様以外の者の隣など歩けるものか」
そうして重ねた愛おしい唇は焼けるように熱く、染みるように深く、溶けるように優しかった。
何のしがらみもなく交わる、真っ直ぐな愛。それはこれからも変わらずに続いていくのだと確信させるその感触は、たった二人だけの夜を鮮やかに、華やかに染め上げた。
その唇が離れても、交差した二人の視線は途切れない――はずであったが、不意にアンバーがくしゅんと小さなくしゃみをして、ジェードがくすりと笑った。
「冷えるから、戻ろうか」
「そうじゃな」
緩みきった表情のアンバーがジェードの左腕にしがみつく。
風が吹き抜ける隙間もないほどに寄り添った二人は、その距離感のままでやかましくいびきの木霊す酒場の扉を押したのだった。
ついに次回、「翡翠と琥珀」最終話です。