決意の朝
薄っすらと朝もやのかかった空は白く明るい。
冬の寒さも峠を越え、この日は街に差し込む朝日がいつもより暖かく感じられた。
酒場の前では、一人の青年が馬のいない馬車の荷台に鞄や画架を積み込んでいる。
今日は吐く息もあまり白く濁ってはいない。昼になればさぞ過ごしやすい陽気になるだろうと想像して、出発するときにはコートは脱いでいこうか、なんてことを青年は一人で考えていた。
「おうい、ジェード」
ふと、名を呼ばれたジェードが振り返る。声の主は酒場から出てこちらへ歩み寄ってくるアーロンだった。
「いよいよ今日だな」
「うん。泣いても笑っても、今日でこの街の運命は決まるんだ」
そう言って遠く――首都カピタラのある方角を見据えるジェード。
今日この日、カピタラでは指導者ディーノの生誕祭が開かれる。
街をあげて盛大に指導者を祝福するこの恒例行事の中で催される競り市で、ジェードは尾人を題材にした絵画を出展し、首都の民衆に向けて尾人という存在について説かなければならない。
もしそのとき民衆の心を動かすことができなければ、アルスアルテに住む尾人たちは街を去らなければならないのだ。
「主様。持ってきたぞ」
小鳥がさえずるような可憐な声でそうジェードを呼んだのは、長く美しい琥珀色の髪の少女――アンバーだ。
彼女は真っ白な布で包まれた長方形の板を両手で抱えている。ジェードは「ありがとう、アン」と言ってそれを受け取ると、腫れものでも扱うかのように馬車の荷台にそっと載せた。
「ほほう。そいつが、か」
「うん。まあね」
興味深そうにその板を眺めるアーロンと、その様子を小恥ずかしそうに見るジェード。
これはジェードが競り市に出す絵画だ。昨晩のうちに額縁に入れ、傷や汚れがつかぬよう布で巻いておいた。
しかしアーロンは、外側に巻かれた布しか見えないその絵画に、少し不満そうな表情を向けていた。
「なあジェード。布を巻いちまう前に言えりゃあよかったんだが、せっかくてめえが何日もかけて描き上げた絵なんだろお? 街の連中にお披露目くらいしてもよかったんじゃねえのかあ?」
「ああ……うん。それなんだけどね」
もっともらしいアーロンの問いに、ジェードも極まりが悪そうに答える。
アルスアルテの住民たちは人間も尾人も関係なく、街の命運を背負って闘う決意をしたジェードのために力を貸してくれた。
毎日湯水のように消費した紙や絵の具の莫大な量を考えれば、街の職人たちは間違いなく大赤字だろう。本当に頭が上がらない思いだ。
「なんと言えばいいか、その……ここにあるのは僕の――いや、僕だけじゃないか。これはアルスアルテを守るために立ち上がったみんなの覚悟の集大成なんだ。だから、僕がカピタラでこの布を剥がすその瞬間まで、他の誰にも見られないようにしたいというか、そんな感じなのかな……?」
「あぁ? んだそりゃあ? 意味がわかんねえぞ」
「……ごめん、僕にもわからないや」
あはは、と頭を掻いてみせるジェードに、アーロンは呆れたようなため息をこぼした。
しかし次の瞬間には、アーロンは笑い皴を深く深く頬に刻んだ表情でジェードの肩を叩いた。
「お楽しみは最後までとっておけ、ってかあ? まあいいさ。俺たちはてめえという男に賭けたんだ。だったら最後までてめえのやり方についてくだけよ。カピタラでどんなすげえ絵が見られるか、楽しみにしてるぜえ、ジェード」
アルスアルテの指導者たる彼の言葉は、この街のすべての住民の意志だ。
彼の言葉をしかと受け止めたジェードは、凛と表情を引き締めると力強く頷いてみせた。
「わたしたちも、いく」
不意に、ジェードの背後から声が聞こえた。
こんな早朝に誰だろうかと振り返ると、そこには刺繍師のジャッキーの手を強引に引いて歩いてくる妖狐の姉妹――ハーティとハンナの姿があった。
「ジェードばっかりたいへんは、いや。一緒まもらせて、ほしいし」
「ごめんねえ。この子たち、一緒に首都に行ってあんたらを手伝うって聞かないもんだから」
既に何度も説得したがまるで聞く耳を持たなかったのだろう、ジャッキーの目には疲労と観念の色が見えた。
ジェードに「おねがい!」とにじり寄ってくるハーティと、未だにジャッキーの手を引っ張ってギャンギャン騒ぐハンナ。
さすがにジェードも困惑せざるを得なかったが、ここまで熱心に詰め寄られては断ることもできなかった。
なぜなら彼は、もう一人で闘おうとはしないと決めたのだから。
「わかった。いいよ」
そう答えると、ハーティとハンナはあからさまに目を輝かせて喜んだ。
ジャッキーもアーロンもアンバーも、やれやれといった風に呆れた笑みを浮かべていたが、他でもないジェードが許したのだからと何も口出しはしなかった。
「ただし、何があっても絶対にジャッキーさんから離れない。ジャッキーさんの言うことは必ず守る。そう約束できるかい?」
「できる! ありがとジェード!」
「アィーッ!」
そう条件を出してさえおけば、何も問題は起きないだろう。
当初はジェードとアーロン、アンバーの三人だけで行く予定であったが、何か力になりたいと願う姉妹の思いも無下にはできない。
人数は倍になってしまうが、人間と尾人が歩み寄るために、彼女らの行動力が非常に重要であることも間違いないのだ。
「んじゃあてめえら、荷台に乗って待ってろ。今馬を連れてくっから」
そう言ってアーロンは酒場の裏へ消えた。
ハーティとハンナはジャッキーと共に荷台に乗り、また新しく作った刺繍を配るんだと楽しげに語らっている。
その微笑ましい光景に頬が緩むのを感じながら、ジェードも荷台に登ろうと足を持ち上げた――
「――主様」
そのとき、アンバーがジェードを呼ぶ声がした。
足を下ろしたジェードが振り返ると、アンバーは両手を胸の前で握って不安げな表情を浮かべていた。
「主様のことを信じておらぬわけではないが……本当に大丈夫じゃろうか……? これで本当に、アルスアルテは救えるのじゃろうか……?」
「……さあね。そればかりは、僕にもわからない」
背後で楽しげに語らう姉妹に聞こえないよう、アンバーに歩み寄ってからジェードはそう答えて囁いた。
これは、賭けなのだ。
もちろんこの賭けに勝つためにできることはすべてやってきた。しかし勝つか負けるかは、そのときがくるまで誰にもわかりはしない。
「けれど僕は、アルスアルテを守るためにできる精一杯のことをするつもりだ。それだけは今までと同じ。その意志だけは絶対に貫いてみせるから。……信じていてくれ」
そう言ってジェードは、アンバーに右手の小指を差し出した。
それを不思議そうに見つめたアンバーは、説明を求めるようにジェードの瞳を見つめて首を傾げた。
「これは"指切り"というお呪いでね。小指と小指を結んで誓った約束は、絶対に破ってはいけない、というものなんだ」
「ほほう、小指と小指を……こうか?」
ぎこちない手つきで、アンバーはジェードの小指にそっと自分の小指を絡めた。
それを嬉しそうに見つめるジェードが「そうそう。うまいうまい」と茶化すと、小馬鹿にされたと思ったのかアンバーは「そのくらいできるわッ!」と頬を膨らましていた。
「……約束する。僕はアルスアルテを守るために、僕にできる最善を尽くす。絶対に最後まで諦めない」
「ならばわしも約束しよう。わしも最後までそんな主様を信じ続ける。絶対にじゃ」
小指から、互いの瞳へと二人の視線が持ち上がり、交わる。
昨晩まで自分の弱さを嘆いていたジェードは、もういない。
先程までこの街の未来を案じて不安を感じていたアンバーも、もういなかった。
「おうい、そんなとこでいちゃついてねえでさっさと乗れ。置いてくぞお」
「いちゃッ……!? そんなんじゃないよ、アーロンさん!!」
馬を引いて戻ってきたアーロンが、二人を追い抜きながらそうからかっていった。
慌てて言い返すジェードだったが、そんな彼を見てアンバーはくすくすと笑いを堪えていた。
全員が馬車に乗り込み、アーロンがぴしゃりと手綱を鳴らすと、馬はぶひひんと一声鳴いて歩き出した。
カピタラに馬車が辿り着くのは、ちょうど昼前くらいになるだろう。
そして辿り着けば、もう後戻りはできない最後の大一番が、彼らを待っているのだ。