"変わらない"もの
一日が過ぎ、二日が過ぎ……。
それでもジェードは、未だに納得のいくものが描けずに頭を抱えていた。
毎日大量に消費されていく画材を、街の職人たちは文句の一つも言わず補充してくれる。
そんな住民らの思いを一身に背負って、ジェードはこの日も画架を前に筆を握っていた。
先日ハーティとハンナの姉妹がカピタラで刺繍を配ってからというもの、他の尾人たちも自分の作ったものを次々にカピタラへ持ち寄っては配り歩いたり販売したりしているらしい。
それはときに装飾品であったり衣服であったり、あるいは漬物や小料理であったりした。
生誕祭を前に盛り上がりを見せるカピタラでは、よく旅商人がやってきてこういった商売をしているらしい。そのため尾人たちも特に不審がられることなく首都に紛れることができていた。
尾人らが居ても立ってもいられない思いなのはジェードにも理解できたが、もしも正体を知られたらと思うと不安で仕方がない。
しかし作業開始から三日が過ぎたあたりからは、ジェードに他人を気にする余裕はすっかりなくなってしまっていた。
ジェードは相変わらず部屋に籠りっきりで絵を描き続けている。
雛型であるアンバーのことは頻繁に気遣って休むように言うものの、当の本人はほとんど食事もとらず横になろうともしない。
毎日短時間の仮眠くらいは取っていたジェードだが、このような生活を何日も続けていたのでは寝ていないのとほぼ同じだ。
アンバーから何度もベッドに横になるよう説得されてはいたが、ジェードは時間がないからと頑なにそれを拒み続けていた。
そうして四日が過ぎ、五日が過ぎ、ついに生誕祭前日の夜を迎えた。
度々アンバーが掃除をしてはいたものの、部屋には変わらず大量の紙屑が散らかっている。
そしてジェードは、もはや何百枚目かもわからない絵に向けて伸ばした絵筆を、震える右手からぽとりと取り落とした。
「――――違う……ッ!!!!」
やり場のない苛立ちをぶつけるように、ジェードは再び描いた絵を破り捨てた。
いつもならばそのまま新しい紙を広げ始めるジェードだが、今回は頭を抱えて首を垂れてしまった。
雛型として椅子に腰かけたまま彼の姿を痛ましく見つめるアンバーは、なんと声をかけたらいいかもわからずただじっとしていた。
「何かが違う……何かが足りない……そんなことはとっくにわかっているんだ……! なのに、なのにぃ……ッ!!」
「主様、何を……!?」
ジェードは思い切り左腕を振るい、画架を薙ぎ倒した。
さすがのアンバーも彼の元へ駆け寄り、がっくりと両膝をついた彼の肩を支えた。
髪はぼさぼさに乱れ、両目の下にはくまができている。食事も睡眠も足りておらず、ほんの少し大声で喚いただけで息を乱してしまうほど、ジェードは疲弊しきっていた。
「僕にかかっているんだ……この街のみんなを、僕が救わないと……それなのに……」
「何も言わなくてよい。ゆっくり息をして一度落ち着いてくれ、主様」
アンバーはそっとジェードの背中をさすってやった。
明日の昼にはカピタラで競り市が開かれる。カピタラまでの移動時間を考えれば、今夜中に描き上げなければ間に合わないだろう。
それなのに彼は、未だに納得のいく絵が描けていない。極限の精神状態まで追い込まれた彼が取り乱すのも無理はなかった。
「……ごめんよ、アン……。次に君を描くときは、君を一番美しく描けると確信したときだって、そう約束したのに……。僕は、まだ……」
力なくアンバーの両肩を掴んだジェードが、首を垂れたまま呟いた。
どんな困難に遭遇しようとも、いつも最後まで希望を持ち続け、周囲を立ち上がらせ続けてきたジェード。
いつだって誰よりも強い心を持っていた彼の姿は、今はどこにもない。
アルスアルテの最後の希望であったジェードの瞳は光が消え失せ、彼はとうとう諦めてしまったように見えた。
「――よい」
そんな彼に、アンバーは囁くように答えた。
その声にジェードの顔が持ち上がる。二人の視線は交わることなく、アンバーは俯いたままでさらに言葉を続けた。
「よいのじゃ主様。あの約束のことなどは、もうよい」
「……なんだよ、それ……」
アンバーの肩を掴むジェードの手に、怒りで力が込められていく。
それでもアンバーは表情一つ変えることなく、床へと視線を落としたまま動かなかった。
「もういいって、どういうことだい。あのときの僕がどんな思いで約束したと……今の僕がどんな思いでそれに応えようとしていると思って――!!」
「――わかっておるッ!!」
声を荒げるジェードの叫びに重ねてアンバーも吠える。
それにたじろいだのかジェードは息をのみ、アンバーの肩を掴む手からも力が抜けた。
ゆっくりと、アンバーは空色の瞳を持ち上げる。
その視線の先では、今にもひび割れて砕け散ってしまいそうな弱々しい翡翠の双眸が、虚ろに濁った色で彼女を見据えていた。
「主様があのとき、どのような思いでそう約束してくれたのかは、十分よくわかっておる」
肩を掴むジェードの手をそっと引き離したアンバーは、彼の両手を自分の手で包み込むように握った。
ひんやりと冷たいジェードの手は微かに震えている。炭や絵の具で汚れ傷んだ彼の手を労るかのように、アンバーはその感触を確かめていた。
「じゃが、本当にもうよいのじゃ。わしはもう、あの約束よりももっと美しいものを、主様からとっくにもらっておる」
「もっと……美しいもの……?」
聞いた言葉をただ繰り返すことしかできないジェードの瞳を、じっと見つめ返したままでアンバーは語る。
どんなに辛いときも彼を支えると決めたから。どんなに苦しいときも彼を信じると決めたから。
そして、そんな彼が立ち止まってしまったときは必ず自分が手を引くのだと、他でもない彼と誓い合ったから。
「わしの"一番美しい"姿を描く必要など、どこにもないではないか。苦しみながらわざわざそんなことをせずとも、わしはこうして主様と共におるだけで"一番幸せ"なのじゃ。…………それだけで、わしは十分じゃ」
そう言ってアンバーは、ぼろぼろになったジェードの右手を引き寄せ、自分の頬に当てた。
故郷の森で、彼が初めて彼女に触れたあのときと同じように。恋の街の祭りの夜、キスをする前に互いの愛を語らったあのときと同じように。
ほのかに赤らんだアンバーの頬の温度が、手のひらから腕を伝ってジェードの胸へと流れ込む。
それを受けたジェードはもはや声を発することすらできず、ただ目の前の愛しい少女を見つめて唇を震わせることしかできなかった。
「わしはいつだって、楽しそうに絵を描く主様が大好きじゃった。そんな主様の横顔なら、いくら眺めておっても飽きはせんかった。じゃが、今の主様はどんな顔で筆を握っておると思う? 出会ったときにそんな顔をしておったなら、わしは絶対に主様に惚れたりなどはせんかったぞ」
アンバーが手を放し、彼女の頬に触れていた右手で自分の顔に触れるジェード。
薄っすらと無精髭が伸び始めた頬はこけ、髪も肌も荒れてすっかりやつれている。そんな顔に触れていた彼の右手は、炭や絵の具でぼろ雑巾のように汚れていて、指には筆の握りすぎによるたこがいくつもできていた。
今、ようやく気づくことができた。
ここ数日間、自分はきっと鬼気迫る苦悶の表情で画架に向かっていたのだと、ジェードははっきりと理解した。
自分がアルスアルテや尾人たちを救わなければと、すべては自分にかかっているのだと、そう思い込んで我を忘れていた。
アルスアルテを救うためにはこの街を愛する全員の力が必要だと、最初に言い出したのは自分だったはずなのに。
いつの間にかジェードは、自分一人ですべてを背負って戦おうとしていた。そんな彼を支え、少しでも力になりたいと願う仲間たちの思いから目を背けていた。
結局彼は故郷を発ったときから"変わっていない"――足掻くだけ足掻いて何も守れなかった、ちっぽけで弱々しい一人の絵描きから"何も変わってなどいなかった"のだ。
「主様は素晴らしい心を持ったお人じゃ。それは誰が何と言おうと、わしが世界で一番よく知っておる。知っておるから、わしは主様がどんな一面を見せようとも愛し続けることができる。それでは足りぬか? そんなわしのことを、主様は美しいとは思えぬのか?」
「…………そんなはず、ないだろう……」
消えそうな声で呟いたジェードは、全身の力が抜けたようにアンバーの肩に額を当てて身体を預けた。
アンバーはそっと目を閉じると、いつもよりもいくらか軽くなってしまったように感じるジェードの身体をそっと抱き留めた。
「君は……美しいよ……ッ! 僕が見てきたどんなものよりも……世界中の何よりも……僕の愛するアンバーは、美しいよ……ッ!!」
「ならば、それだけでよいではないか。わざわざ描かずとも、主様が最も追い求めていた"一番美しい"わしの姿は、とっくに主様の腕の中にあるのじゃから」
ジェードが堪らずアンバーを抱き寄せると、愛おしい熱の中で彼は肩を震わせ続けた。
アンバーもまた彼の熱を感じながら、その背中を優しくさすり続ける。
どんな困難が立ちはだかろうとも、下を向いた誰かを常に支え続けたジェード。
それはアンバーと初めて出会ったときも、共に旅を始めてからもずっと"変わらなかった"。
彼のそんな"変わらない"部分は、アンバーが彼を愛する所以の一つであり、誇りだ。
そしてそんな彼ですら、どうしようもなく追い込まれて"変わらない"ままでいられないことは当然ある――それはアンバーの憧れる人間の感性というものの一面であると同時に、人間の弱さの一つだ。
ならば、その弱さは他の者が埋めればいい。
家族でも、友人でも、愛する者でも、誰でもいい。
その弱さ故に道を見失ってしまったのなら、代わりに誰かが手を引いて道を示せばいいのだ。
そしていつも自分の手を引いてくれる彼のために、今こそ自分が彼の手を引くときなのだと、彼女はただその思いだけで彼を抱きしめていた。
「……愛しておる、主様。じゃからもう、一人で背負おうとして苦しむのはやめてくれ。街のみんながついておる。何よりわしがついておる。わしがずっと、ずっと主様の側におるからの」
「…………僕も……愛しているよ、アンバー……ッ!」
「うむ。わかっておる」
そう。彼女はすべてわかっている。
彼がどれほどの思いでこの街を救いたいと願い闘っているか。
その大きな責任を背に受ける彼が、どれほどの重圧の中でこの数日を過ごし苦しんでいたか。
仲間の思いも何もかも見失い、自分一人で足掻き続けた自分の愚かさを彼がどれほど悔いているか。
そして彼はようやく気づいた。
そのような状態で過去最高の傑作など、例え何日かけようとも到底描けるはずはなかったのだと。
結局は街を救う英雄気取りだっただけで、ちっぽけな自分一人では何も成すことはできないのだと。
彼女はそんな彼であっても最後まで見捨てることなく、ずっとそばで支えてくれていたのだと。
「……アン……」
「うむ」
「……アン……ッ!」
「うむ」
「…………ありがとう、アン……!」
「うむ」
深夜。仄暗い一室。
翡翠の青年はただただ、腕の中に感じる愛しい者の名を囁き続ける。
そして琥珀の少女もまた、愛する者のその声に何度でもただただ頷き続けたのだった。