守るために
「…………違う」
そう言ってジェードは、ちょうど十枚目の紙をくしゃくしゃに丸めて部屋の隅に放った。
すぐさま新しい紙を広げ、自分の前に座る少女の姿をもう一度よく観察する。
目線を何度も上げ下げしながら、真っ白な紙の上に描き出されるであろう少女の姿を想像する。
そして、一度肺の中を冷たい空気でいっぱいに満たしてからそれを吐き出し、ジェードは再びアンバーの姿を描き始めた。
住民の誰もが寝静まった深夜。
アルスアルテで唯一明かりの灯っているこの部屋は、ジェードとアンバーが借りている部屋だ。
ジェードはそこで、寝る時間すら惜しんでアンバーの姿を描き続けていた。
「…………違う、これもだめだ」
描きあがったかのように見えた素描を、ジェードはまたも丸めて放り出す。これで十一枚目だ。
椅子に座ってジェードの絵の雛型の役目を引き受けているアンバーは、次第に頭がうつらうつらと揺れ動き始めている。
それに気づいたジェードは「アン?」とそっと名前を呼んだ。
「……ああ、すまぬ。少しうとうとしておった」
「いいや、謝るのは僕の方だ。ごめんよ、こんなに遅くまで付き合わせてしまって」
そう言いながらジェードは次の紙を広げ始めた。
彼の表情は固く、声には力がない。一つの街とその住民たちの命運を背負うというのがどれほどの重圧なのか、アンバーには想像もつかなかった。
「君はもう休んでくれ。じっと座っているだけでも、結構疲れるだろう?」
「ならば、主様もそろそろ休ん――」
「――僕はもう少し描いてみる。朝になったらまた頼むよ。おやすみ、アン」
ジェードはそう言うと、アンバーに背を向けて再び作業を始めた。どうやら雛型を見ずに描く方法を試すつもりらしい。
何か言葉をかけようとしたアンバーだったが、ジェードは既に自分の世界に入り込んでいる。彼の集中を乱すようなことは、できればしたくない。
仕方なくアンバーはベッドに横になり、重くてたまらなかった瞼をそっと閉じた。
それから彼女の意識が深い微睡みに沈んでいくまでに、ほとんど時間はかからなかった。
*****
翌朝、鳥のさえずる声を耳にしてアンバーは目覚めた。
全身が鉛のように重く、あまり気分がよくない。
体力に自信のあるアンバーが、これほどまでに"疲労"というものを実感したのは、おそらく生まれて初めてであるような気がした。
なんとか上体を持ち上げ、寝ぼけ眼を擦って開く。
すると彼女の視界には、椅子に腰かけて未だ絵を描き続けるジェードの背中が映った。
床に散らかった紙屑の量は明らかに増えている。さらにはアンバーが先に眠ったそのときから、ジェードはその場を動いてすらもいないようだった。
「……ん? 目が覚めたかい、アン」
「……主様? まさか、あれからずっと描いておるのか!?」
「あはは。そりゃあ驚くよね。これだけ時間がかかっていながら、まだ下書きもまともにできていないんだから」
「違う! そういうことを言っておるのではない!」
アンバーは半ば慌ててベッドから降りると、作業を続けようとするジェードの手を握ってそれを止めた。
炭で黒く汚れた冷たい手。アンバーはそれを温めるようにぎゅっと細指に力をこめる。
するとジェードは、いかにも不思議そうな顔をしてアンバーの方へ視線を向けた。
「休むべきときは休んでくれ、主様。いくらなんでも無茶をしすぎじゃ」
「そんなことはないよ。昨晩だってちゃんと睡眠は取ったし、平気さ」
「本当か!? 夜通し描いたりなどしておらぬじゃろうな!?」
「ここで嘘をついてどうするんだい。大丈夫だよ、アン」
そう言って笑うジェードの表情に嘘はなさそうであった。
しかしアンバーは妙な胸騒ぎをどうしても抑えられずにいた。
どうにも嫌な感覚なのだ。
まるで彼がどこか遠くを見つめたまま自分の方へ振り向こうとしないような、そんな感覚。
彼は一体何を見ているのだろう。穏やかに微笑む翡翠の瞳の奥をじっと覗き込んでも、アンバーには何も見出すことはできなかった。
そのとき、部屋の戸が二度叩かれる音がした。
こちらの返事を待たずにガチャリと戸が開く。外のひんやりした空気と共に顔を出したのは、町長のアーロンだった。
「おう、ジェード、アンバー。起きてっかあ? 朝餉用意すっから何か食いてえもんでもあったら……って、なんだこりゃあ!?」
アーロンは部屋中の床に散らかった紙屑を見て驚嘆の声をあげた。
ジェードは極まりが悪そうに笑ったあとで、おはようアーロンさん、と一言答えていた。
「もしかして一晩中描いてたのかあ? 張り切んのはいいが、身体壊すんじゃねえぞお? 何か手伝ってもらいてえことがあったらちゃんと言え。わかったな?」
「ありがとう、助かるよ。ならさっそくだけれど、画材の補充をお願いしてもいいかい? だいぶ紙や炭が減ってしまってね。お金はあとでちゃんと払うから」
「水臭えこと言うな。んなもんタダでいくらでも持ってきてやる。紙だろうが絵の具だろうが、好きなだけ使いやがれ」
そう言ってアーロンは部屋をあとにした。
街全体がジェードの背中を押そうと団結している。それ自体は非常によい傾向であるはずだ。
しかしアンバーだけは、今の状況を素直に喜べないような、すっきりしない胸やけに一人悩まされていたのだった。
*****
それからというもの、ジェードのもとへは街の職人たちから次々に画材が届くようになった。
これだけ協力してもらっているんだから失敗は許されない、とジェードもますます意気込んでいる。
昨晩よりもさらに集中して作業に没頭するジェードの絵も、次第にその美しさには磨きがかかっていくようだった。
しかしジェードはその絵を下書きの段階で、あるいは絵の具で彩色する途中で、やはり「違う」と言って捨ててしまう。
アンバーから見れば何がどう「違う」のかわからないが、芸術に秀でた彼にしか見えない何かがあるのだろうと、あえて口を出すようなことはしなかった。
自分の役目は、信じ抜くと決めた彼をそばで支えることだけだ。
そう思ってジェードを見守り続けるアンバーだったが、どこか行き過ぎた気迫を見せる彼の姿にはどうしても胸が騒いだ。
ジェードはアーロンが持ってきてくれた食事にもほとんど手をつけない。一口か二口パンを齧って水を飲むと、すぐにまた作業に戻ってしまう。
このまま倒れるようなことにならないだろうかと、アンバーも不安を隠せずにいた。
すると、部屋の戸が叩かれる音がした。
どうやら来客のようだが、ジェードは聞こえていないのか無視しているのか、手を休めようとしない。
ジェードの前で椅子に腰かけていたアンバーは、雛型を役割を放棄する形にはなるが、ジェードの代わりに来客を出迎えに行った。
「ァーンバッ!」
「お邪魔するね、アンバー」
「む。ハーティにハンナではないか」
やってきたのは、ようやく惜しいところまでアンバーの名を発音するようになったハンナと、バスケットを手に持ったハーティだった。
アンバーが「どうしたのじゃ?」と要件を尋ねると、姉のハーティが手にしたバスケットを見せながら答えた。
「この中、ジャッキーに習ってつくった、刺繍。これ、カピタラの人にもってったら、よろこぶかなって」
「それをカピタラで配る、ということか?」
「アィーッ!」
ハンナが無邪気な返事をするのと同時に、ハーティもこくりと頷く。
バスケットの中はバンダナかスカーフだろうか、美しい刺繍が施された布が何枚もたたんで積まれていた。
「尾人と人間、あゆみよるのをがんばる、のでしょ。仲良くするために、おくりものとか、しようかなって」
「危険じゃないかい」
不意に、作業に没頭していたジェードの声が割って入る。意外にも話は聞いていたらしい。
背を向けていたジェードはすっくと立ちあがると、眉間を揉みほぐしながらアンバーたちのところまでやってきた。
「もしもカピタラで尾人であることを知られれば、どんな目に遭うかわからないんだ。君たちの心掛けはとても素晴らしいけれど、あまり勧められることではないと思う」
残念そうな表情でそう諭すジェード。
しかしハーティはその言葉を受けると、むしろ食い下がるようにジェードの目を見上げた。
「大丈夫。耳も尻尾もちゃんとかくすようにする。それに、ジャッキーも一緒くるから。ジェードばっかりたいへんなの、なんか……うずうずするし。尾人だって、力貸したい」
「そうは言っても……」
物静かなハーティがこれほど熱意を見せるとは、正直珍しい。
ハーティの言いたいことはわからなくもない。彼女らが自分なりに考えて出した提案なら、できることならさせてやりたい。
しかしそれでも、危険が伴うかもしれないという思いが先行するジェードは、ハーティの言葉に難色を示していたのだった。
「まあまあ主様。少しの間行って刺繍を配るだけではないか。長居するわけではないし、ジャッキーもおるのなら心配いらぬじゃろう。そのくらいはよいのではないか?」
ジェードを支える側の立場であるアンバーは、ハーティの言ったことに非常に共感していた。
いつまでも人間を恐れるばかりでは前に進めない。歩み寄ると決めた以上、人間とよい関係を築くための努力を惜しむべきではないはずだ。
この姉妹のような些細な試みであっても、それが積もればいつかは実を結ぶと信じて、できることはなんでもしたいというのがアンバーの見解であった。
「……わかった。くれぐれも気をつけて行くんだよ」
納得はしていないものの根負けしたのか、いかにも渋々といった様子でジェードは頷いた。
彼の返答にハーティは「ありがと」と礼を述べたが、ジェードはその言葉には何も答えなかった。
「なにかやること、ある? わたしとハンナ、できること少ないけど、がんばるよ?」
「ありがとう。でも、今は作業に集中させてもらえればそれでいいかな。気持ちだけで十分だよ」
ハーティは少し残念そうに「そっか」と呟いた。
姉妹はこれからジャッキーを連れてカピタラへ向かうのだという。姉妹を止めることは諦めたジェードだったが、やはり気は進まないらしくうんうんと唸っていた。
刺繍を配って距離を縮めると言っても、それはあくまで尾人であることを隠した上での話だ。尾人と人間の関係性を向上させることについて意義があるかと言われれば疑問も残る。
それでも、何もしないよりはいいかもしれない。それ以上にこの姉妹は、ジェードにばかり負担を強いて何もせず待ち続ける現状が我慢ならないのだ。
「アン」
ふと、姉妹を見送ったジェードがアンバーを呼んだ。
ジェードはそのまま元の椅子に腰かけて描きかけの絵がのった画架に向き合うと、背後に立つアンバーに向けて口を開いた。
「今後、僕の絵が出来上がるまでは、僕と君以外誰も部屋に入らないようにしてくれ。応援してくれるのは嬉しいけれど、作業に当てる時間は少しでも増やしたい。立ち話をしている余裕は、僕にはないからね」
そう言ってジェードは絵の具を混ぜ、色の調整を始めた。
支えようとしてくれる者たちには少し冷たいかもしれないが、彼は街を救うためにすべてを懸けて臨むつもりなのだ。
胸の奥が未だにざわざわと騒いで落ち着かない。ジェードの言葉を受けたアンバーは、これまで信じ続けてきた目の前の背中に向けて「……うむ」と一息呟くことしかできなかった。