信じてくれ
日が高い。ぼんやりとした思考でそれだけが認識できた。
昨晩は深夜遅くまでアーロンを始めとする住民たちと会議をしていたこともあり、ジェードは早朝に目覚めることなく昼を迎えていた。
予定通りに作戦が進んでいれば、数人の魔猪の尾人がとっくにアルスアルテから山に入っているだろう。
いくら疲れているからといって、そのようなときにいつまでも寝てはいられない。
魔猪たちが戻ってきたら、次はジェードとアーロンが首都の指導者のもとへ交渉に行くことになっている。
そこでカピタラとアルスアルテの双方が納得できる妥協点を見出せなければ、尾人たちは命令に従って街を出ていくしかないのだ。今日という日は非常に大きな責任が伴う、重要な一日になることは間違いなかった。
よし、と意気込んでベッドから起き上がろうとするジェード。
しかし、彼の身体にはアンバーががっちりと抱き着いていて身動きが取れなかった。
「アン、そろそろ起きないと」
「んぅ……もう少し……」
「君の"もう少し"は全然少しじゃないじゃないか」
「だって……主様が温かいから……」
「僕のせいにしないでくれよ……」
ジェードの胸元に顔を埋め、再び寝ようとしているのか匂いを嗅いでいるのかよくわからないアンバー。
今はそれどころじゃないだろう、とジェードに諭されると、彼女は渋々起き上がって大欠伸をした。
なんとも緊張感に欠ける目覚めだが、この雰囲気はいつも通りな気がして少し安心する。ジェードはそれを口には出さなかったが、代わりにアンバーの頭を軽く撫でてから身支度を始めたのだった。
*****
山に入った魔猪たちの帰りを酒場で待ち続ける。
彼らが持ち帰ってきた成果次第で、カピタラへ交渉する内容も少しばかり変わってくるだろう。
しかし、先日足を運んだとはいえ、ジェードは一度カピタラで騒ぎを起こして追い出されている。
そのような街をもう一度訪れ、今度は指導者と正面から向き合って交渉をしようというのだから、緊張もひとしおだった。
「なんて面してんだよお、ジェード」
できるだけ普段通りでいようという心がけなのか、アーロンはいつものように酒場のカウンターでグラスを磨いていた。
そんな彼に指摘され、ジェードは自分の顔をぺたぺたと触って苦笑いを浮かべた。
「そんなに深刻そうな顔をしていたかい、僕は?」
「まあな。気持ちはわかるが、今はしゃんとしててくれよお? 魔猪らが戻ってきたら、そっからが俺たちの勝負どころなんだからな」
ジェードの緊張を感じ取ったのか、隣に座るアンバーがそっと彼の手を握った。
アンバーは何も言わなかったが、彼女は何かを伝えようとするようにジェードの目をただ真っ直ぐに見つめていた。
その視線からは様々な思いが窺い知れる。励まそうとする心遣い、安心させようとする優しさ、立ち上がった彼への信頼――そして、自分も隣にいる、という存在の主張。
ジェードと同様に、アンバーも闘おうとしているのだ。
故郷では守られてばかりだったアンバーも、今ではジェードを信じて共に立ち上がることができる。だからジェードにも自分を信頼して欲しいのだと、曇りのない快晴の瞳が訴えていた。
その思いは彼にとって、どれほど心強かったことだろう。小さな深呼吸を一つして気持ちを落ち着かせたジェードは、アンバーの手をぎゅっと強く握り返すと、彼女にだけ聞こえる声でそっと「ありがとう、アン」と呟いた。
そのとき、酒場の戸が開いて数人中へと入ってきた。
彼らの容姿は人間と似ているが、下顎から飛び出した大きな牙が上に向かって生えている点で尾人であることがわかる。腰のあたりには渦を巻いた小さな尻尾が生えていて、中には毛で覆われた小さな耳がちょこんと頭にのっている者もいる。
彼らはアルスアルテの魔猪――早朝から山に入り、野生の魔猪と接触を試みた者たちだ。
その姿を確認したアーロンはそそくさとカウンターから出てくると、持ち帰った成果を聞こうと彼らにテーブルにつくよう促したのだった。
彼らの報告によると、近隣の山々に棲む魔猪たちは、自分らの住処を人間によって奪われることを最も危惧しているらしい。
プラムの妖狐たちがそうであったこともあって、ジェードたちはこの返答をある程度予想はしていた。
魔猪たちがしばしばカピタラの人間を襲うのも、縄張りへ踏み込んだ者に対する自衛策だった。
しかし人間は武器や罠を用いて対抗してくるため、圧倒的に不利である魔猪たちは人間と厄介事を起こすことを望んではいないらしい。つまり、カピタラの者が縄張りを侵そうとさえしなければ、魔猪たちの方から人間へ手を出すことはないというのである。
さらに言えば、魔猪たちは縄張りでない領域に関しては何ら関心を持っていないらしい。縄張りさえ無事であれば、他の山林地域はカピタラによって開発されてもさほど興味はないとの意思を、野生の魔猪の長は示したのだという。
「――つまりアルスアルテがすべきことは、魔猪が縄張りにしてる領域の把握と管理。それからその縄張りをカピタラが侵さねえように説得すること、ってわけかあ」
「ああ。そうすれば、カピタラが魔猪とのいざこざで悩む必要はなくなるはずだ。けれど、縄張りといっても明確な境界線が引かれているわけではないんだろう? そのあたりの把握は人間よりも尾人――特に魔猪の住民たちの方が適任だと思うのだけれど」
「そうだなあ。そのへんは魔猪らに頼るしかねえ」
アーロンは魔猪の仲間に、てめえらの負担になるようなことを頼まなきゃならねえが、なんて申し訳なさそうに言っていた。
それに対して魔猪の仲間たちが、街を守るためならと快く引き受けてくれたのがなんとも心強い。
協力してくれる彼らのためにも、カピタラとの交渉に失敗するわけにはいかない。
既に冬の太陽は南を少しばかり通り過ぎて午後になっている。
善は急げと、ジェードとアーロンは部屋に戻り、カピタラへ赴く支度を始めたのだった。
*****
「そんなに心配かい、アン?」
部屋で身支度をするジェードを、アンバーは部屋の隅でじっと立ち尽くして見ていた。
そのようなときに急に声をかけられたものだから、アンバーは驚いて「ふえっ!?」なんて変な声を上げてしまっていた。
「あはは……やはり主様にはお見通しか。なぜそう思ったのじゃ?」
「ただの直感だよ。君は本当にわかりやすいからさ」
少し皮肉っぽく言われてむっとなるアンバーもまた、ジェードからすれば愛らしい。
そんな彼は、本当は大きな耳がぺったり寝ているからわかった、なんてことは絶対に言うまいと胸の内でこっそり笑っていたのだった。
「心配するのも当然じゃろう? カピタラという街がどれほど恐ろしいか、わしは昨日目の前で見たばかりなのじゃ。そのような街に、また主様が向かうというのじゃから……」
「違うよ、アン。カピタラにいる全員が、いつもあんな風に恐ろしいわけじゃない。昨日僕が訪れたとき、街はとても賑わっていて明るかったし、余所から来た旅人の僕を客人として精一杯もてなそうとしてくれる人もいた。決して悪い雰囲気ではなかったよ?」
ジェードはそう言うと、鞄の荷物から視線を持ち上げてアンバーの方を見た。
自身の言動を諭されたアンバーは、少しばかり極まりが悪そうにはしていたが、きちんと話を聞こうという意思はあるらしくじっとジェードの目を見ていた。
「持って生まれた情というものは、ときに厚くも薄くもなる。人間というのはそんな風に、いろんな一面を同時に持ちながら生きていくものなんだ。僕だってそうだし、これまでの旅で出会った人たちもみんなそうさ。だろう?」
「……うむ。皆わしに優しくしてくれる者ばかりじゃった。人間の全員が昨日のような恐ろしい者ではないことは、よく知っておる」
「そうさ。君はカピタラの恐ろしい一面しか見ていないから、首都にいる全員が恐ろしい人であるように見えてしまっているだけなんだ。だからこそ僕らは、もっと歩み寄ってお互いを知る必要がある。そのために僕は行くんだ」
そう言ってジェードは立ち上がり、アンバーのもとへと歩み寄っていった。
そして彼女の肩をそっと抱き寄せると、耳元で囁くように彼は続けた。
「まあ、言っても君はしてしまうだろうから、心配しないでくれなんて言わない。けれどその代わりに、信じてくれとは言わせてもらう。僕らは必ず、今のままのアルスアルテを守ってみせる。……必ず勝つから」
抱きしめられたアンバーは、胸の奥がじんと締め付けられ、目の奥がつんと刺されたような気がした。
涙が込み上げてくるのを堪えながら、アンバーはジェードの背中へと腕を回し、その覚悟をぎゅっと胸に受け止めた。
「ふふふ。信じてくれ、じゃと? 言われるまでもない。主様を信じてそれが間違いであったことなど、これまで一度もないのじゃからな!」
自信たっぷりにそう述べたアンバーの言葉は、ジェードにとってもこの上なく心強いものであった。
凛と輝く翡翠の瞳と、少し潤んだ快晴の瞳が見つめ合う。
なんて綺麗なんだと互いの瞳の美しさに見惚れながら、二人はその時間に酔いしれるようにしばし抱き合っていた。
「ありがとう、アンバー」
「気をつけての、主様」
ジェードが何か無茶をする度に、何度も交わしてきたお決まりの言葉。
だからこそ今回の一件も、これまでと何も変わらずうまくいくような予感がする。
二人は互いを見つめたまま優しく微笑み合うと、ゆっくりと目を閉じてそっと唇を重ねたのだった。