誓いの夜
部屋のベッドにぽつんと一人腰かけるアンバー。
彼女はジェードを待ちながら、チェルシーの様子をしばしば気にかけては子どもたちの部屋に顔を出していた。
しかしチェルシーは変わらず、誰に対してかもわからない謝罪を繰り返すばかり。誰も怒っていないからと声をかけても、ちっとも聞く耳を持とうとはしなかった。
気がつけば深夜。子どもたちが寝静まると、アンバーは自分の部屋に戻り、ベッドに腰かけてただ呆然としていた。
精神的に疲弊していたこともあって、気を抜くと瞼がひとりでに下りてくる。アンバーはそれを何度も持ち上げ、頭が揺れ動くのをなんとか支えながら、会議を終えたジェードが戻るのを待ち続けていた。
そのとき、誰かが階段を上がってくる音に耳が立ち上がった。
部屋の外に足音が二人分。微かに聞こえる話し声はジェードとアーロンのものだった。
「――それじゃあ、おやすみ。アーロンさん」
「ああ。また明日なあ」
部屋の戸を開けたジェードはそう挨拶してアーロンと別れ、アンバーの待つ部屋の中へ入ってきた。
ベッドに腰かけたアンバーの姿を見たジェードは、彼女が起きていたことに一瞬驚いていたが、すぐに優しく微笑んだ。
「お疲れ様じゃ、主様」
「ありがとうアン。先に寝ていてくれてよかったのに」
「いやあ、主様が頑張っておるのにわしだけ休むのも、なんだか申し訳なくての」
ジェードはアンバーの頭をぽんぽんと叩くと、彼女の隣に腰かけた。
どこかすっきりした表情に見えるジェードに、アンバーは「話し合いはどうじゃった?」と会議の進捗を尋ねた。
それに答えてジェードが語ったのは、明日の朝にアルスアルテの魔猪の住民が山に入り、野生の魔猪との接触を試みるということだった。
人の街で暮らす魔猪と山で暮らす魔猪――彼らは境遇は違えど同じ種族だ。事を荒立てずに接触するならこれが最善であるに違いない。
首都ではしばしば、野生の魔猪による住民への被害が報告されているという。
そのためこの接触により、野生の魔猪たちが街で暮らす人間に対して何を望んでいるのかを明らかにしようと考えているのだ。それができれば、今後はカピタラと魔猪のいざこざを避けるための材料になる。
うまく共存できる方法が見つかれば、魔猪たちによる首都への被害も減り、あの捕獲作戦も必要なくなる。そしてそのためにアルスアルテの尾人が一役買ったとなれば、カピタラも無下な命令は下せないはずだ。
「ふむ。うまくいくとよいのじゃが」
「そればかりは、明日にならないと何とも言えないね。山の魔猪たちが何を望んでいるのかで、きっと今後の方針も大きく変わってくるだろうし。……ああそうだ、チェルシーの様子はどうだい?」
思い出したようにジェードが尋ねる。
それに対してアンバーは、目を伏せて首をふるふると横に振ってみせた。
「相変わらずじゃ。子どもたちも心配なのじゃろうな、皆チェルシーの側から離れようとせぬ。今はもう全員眠っておるがの」
「そうかい……。早く元気になって欲しいところだけれど」
「あの様子では時間がかかるかもしれぬのう。チェルシーが負った傷は深い。身体もそうじゃが、それよりも心の方じゃ。あれだけのことをしたカピタラは、簡単に許されるものではないぞ」
珍しく憤りを表に出したアンバーの手を、ジェードはそっと握った。
アンバーはそんなジェードの手を弱々しく握り返すと、小さなため息を一つついた。
「君の気持ちもよくわかるよ。……だけど、怒りで立ち向かっても何も解決しない」
「わかっておる。他でもない主様の言うたことじゃ。それを疑うつもりはわしにはない。……じゃがそれでも、このやりきれぬ思いだけは、どうしてももどかしくて敵わぬのじゃ……」
「……」
アンバーにかけてやる言葉が見つからず、ジェードは彼女の頭を右手で胸元に抱き寄せた。
アンバーはそんなジェードの胸に顔を埋めると、すんと鼻をすすって彼の背に手を回した。
怒りで相手を否定するのではなく、歩み寄って相手を理解することでこの困難を乗り越える。
そう決めたはずであったが、だからといって傷ついた者らの中から怒りや悲しみが消えるわけではない。
アーロンの言っていた通り、あれだけの非情な行いを許すことなど、到底できはしない。
では、首都に向けてはならないそれらの感情は、一体どこへ向ければよいというのだろう。
その答えまでは、さすがにジェードにもわかりはしなかった。
「……人間をあんなにも恐ろしいと思ったのは久しぶりじゃった」
ジェードから離れて顔を上げたアンバーは、両手を自分の胸の前で握り合わせてそう呟いた。
「主様と二人で旅をして、その途中でわしらはたくさんの人間と出会った。皆優しかったから忘れかけておったが、カピタラの者らを見て思い出した。人間が尾人に対して抱く感情はこれが普通なのじゃと。そう思うとなんだか……とても悲しい」
アンバーは幼い頃、故郷の森での妖狐駆逐作戦を経験している。
あのとき彼女は、人間の恐ろしさを嫌というほど思い知ったはずだ。
以来アンバーにとって、人間は憧れの対象であると同時に、恐怖の対象にもなった。
それがジェードと出会い、旅をする中で少しずつ変わっていったというのに、彼女はこうしてまた人間の残酷な一面を目の当たりにして恐怖している。
尾人をひどく恐れ嫌悪する人々の心情は、ジェードからすればとても信じられない。
しかし、世間からすればアンバーの言うようにこれが普通で、ジェードやアルスアルテのような例の方がむしろ稀有で異質なのだ。
「……今はまだ、そうかもしれない」
意味深なジェードの物言いに、アンバーはふと彼の顔を見上げた。
ジェードの表情はアンバーと同じように、少しばかり悲しげに見える。それでも彼の翡翠色の瞳には、どこか遠くを見据えるような光が宿っていた。
「でもいつかは、アルスアルテのように人間も尾人も関係なく、肩を並べて対等に向き合える日がきっとくるさ。今回の作戦はそのきっかけにもなるはずだ。時間はかかるかもしれないけれど、きっと……!」
アンバーを励ましたかったのか、ジェードは整理もろくにできていない思いを吐き出した。
やはり今回も、そう言い切るだけの根拠はない。それでもアンバーは、自分が信じ抜くと決めた者の言葉に、深く深く頷いてみせたのだった。
するとアンバーは、ジェードの腕を胸に抱き寄せるようにしがみついてきた。
そしてそのままジェードの肩に頭をのせたアンバーは、ため息を一つついただけで何も言おうとしなかった。
きっと今の彼女は、ジェードの体温を感じて安心したいのだ。
忘れかけていた人間の恐ろしい一面を見てしまった不安を拭うために。人間の本性とはああいうものなのだと諦めてしまわないように。
「……主様よ」
「ん?」
「主様は、怖くはないか?」
ふと、ジェードの腕を抱き寄せる力をぎゅっと強めたアンバーが問いかけた。
それはあまりにも漠然とした問いであったが、彼女の言葉からは様々な意図が汲み取れる気がした。
「そうだね……。不安には思うけれど、怖くはないよ」
「そうか。強いのじゃな、主様は。……わしは怖い」
「……」
そう零した頬をジェードがそっと指で撫ぜると、アンバーはその体温をより強く感じ取ろうとするように目を閉じていた。
「……主様」
「なんだい」
再び自分を呼んだ声に、ジェードもまた丁寧に答えてみせる。
するとアンバーは顔を上げ、澄んだ快晴の空のような美しい瞳でジェードをじっと見据えた。
ジェードもまた、アンバーの視線を受けて輝きを増す宝石のような翡翠色の瞳で、決して目を逸らすことなく見つめ返す。
少しの間こうして沈黙が流れたあとで、アンバーは小さく息を吸い、口を開いた。
「……主様は、今のまま変わらずにおってくれ。この先人間と尾人の関係がどのように変わろうと変わるまいと、主様はどうか……そのままで……」
「当たり前だろう、アンバー」
ジェードはそう言ってアンバーの腕を解くと、今度は彼女を自分の腕の中に抱き寄せた。
そのまま琥珀色の後ろ髪を優しく撫でてやると、アンバーの小さな吐息の音が耳元で聞こえた。
「尾人である君が、人間である僕を愛し続けてくれることは、これからもずっと変わらないんだろう? だったら僕も変わらない。僕も同じくらい――いや、それ以上に君のことを想い続ける。絶対にだ。……だからきっと大丈夫だよ、アンバー」
それだけで今は、すべてが事足りるような気がした。
首都との衝突。捕らわれ傷つく尾人たち。先行きの見えない作戦。そして尾人に対する人間の意識。不安材料は挙げ始めればきりがない。
濃い霧の中で彷徨うようなそんな不安感の中にある、数少ない確かなもの。それをこうして感じていると、疲れ切った二人の心はじんわりと温まっていくように思えた。
ジェードの肩の上にのった顎でこくりと頷き、確かめられた思いに無言のまま答えるアンバー。
彼女はそのままさらなる熱を乞うように、細腕をジェードの背に回すとぎゅっと力を込めたのだった。