奮い立て
戸を叩き、応答を待つ。
冷え込む廊下で白い息を吐きながら、ジェードはアーロンが戻っていった部屋の前に立っていた。
「主様……?」
「アーロンさんともう一度話してみる。このままでいいはずがない」
すぐ後ろで声をかけてきたアンバーに、ジェードはそれだけ答えた。
いつまでも嘆いてばかりいられない。アルスアルテを守るために闘うと決めた以上、必要になるのはこの街の住民たちの協力だ。
そのためにジェードは、街で最も人望のあるこの男をまず立ち上がらせる必要があると考えていた。
しかし、いくら待ってもアーロンは出てこない。二度、三度と戸を叩いても、それは変わらなかった。
「……今は、アーロンほっとくのがいいって、さっき」
「うん。確かに僕はそう言った。だけど尾人の覚悟を聞いて、やっぱりそれじゃだめだって思ったんだよ、ハーティ」
尾人たちはこの事態に対処するために、自らの生活を捨てることすら考えている。
それなのに、人間らばかり下を向いてはいられない。
尾人が責められるいわれなど何もない。それなのに彼らは、人間たちの一方的な都合で存在すら否定されようとしている。
それを黙って受け入れることなど、ジェードにとっては何が何でも願い下げであった。
自分の無力さは自分が一番よく知っている。
故郷の森が焼かれるのを止められなかった。カピタラで魔猪を助けられずにアルスアルテに戻ってきた。他にも思い出せばきりがない。ジェードはいつだって自分の力不足を痛感しているのだ。
だからこそ誓う。次こそ守ってみせると。
何もできずに嘆くことしかできないのは、もう御免なのだ。
それなのに一向に部屋から姿を見せないアーロンに対し、ジェードは微かな苛立ちにも似た感情を抱き始めていた。
ならば仕方がない。相手は自分よりもずっと年長で強面で頑固で、おまけにこの街の町長であるが、たとえ自分が殴られてでも彼を一喝してやるのだと、ジェードは覚悟を決めて戸を開けた。
「アーロンさん。大事な話が――」
部屋に入った瞬間、ジェードは言葉を失った。彼の目に飛び込んできた光景は、予想していたものはまったく違っていたのである。
すっかり意気消沈した様子で部屋に戻っていき、戸を叩いても反応しないアーロン。
てっきり塞ぎ込んでいるとばかり思っていた彼は、部屋中にあらゆる資料や文書を散らかしながらそれらを読み漁り、唸り声をあげていた。
「んあ? 何してんだてめえら?」
少しの間を開けて、ようやくジェードの存在に気づいたアーロンが声をかけてくる。
しかしながら、思ったより沈んだ様子のないアーロンに対し、ジェードはなんだか拍子抜けしたように呆然としていた。
「……ええと、返事がないから勝手に入らせてもらったんだけれど……」
「あ? そうだったかあ。気づかなくて悪かったな」
老眼鏡を外して眉間を揉みほぐすアーロン。
ジェードは足元の紙を踏まないようよろめきながら部屋の奥へと足を進めた。
「何をしているんだい、こんなに散らかして?」
「ああ。昔集めた首都の資料とか、サリバンが立ち入り調査に来た時の議事録とか、そういうのを読み返してたんだ。カピタラの法や条例だって万能じゃねえ。絶対どっかに、あの馬鹿げた命令を取り下げにする抜け穴があるはずだ」
事態は思っていたほど深刻ではない。ジェードはそう感じてほっと息をつくことができた。
街の尾人たちは、カピタラの要求通り街を去るのが最善だと考えているかもしれない。
ところが街の奇人たちはそうは思っていなかったらしい。少なくとも指導者は、ジェードと同様に闘う姿勢を示しているのは間違いなかった。
「俺はアルスアルテの長としても、尾人の親としても失格だ」
アーロンはそう言って、戸の外から部屋を覗き込んでいる三人の妖狐たちを顎で指した。
ハーティはぶんぶんと首を振って否定し、ハンナは「アィーッ!」と元気な返事。
その様子を見てふんと鼻で笑ったアーロンは、再びジェードと凛と向き合い、話を続けた。
「だが、んなこたあもうどうだっていいんだよ。今この街を守るために必要なのは、長としての看板でも親としての威厳でもねえ。今まで逃げてきた分、どんだけみっともなくたって足掻いてみせる諦めの悪さだ。そだろお?」
そう言って笑うアーロンに、ジェードも深く頷いて答えた。
やはりこの街の奇人たちは自分と似ている。自分が美しいと思うものを守るためなら、どんな無理難題であろうと立ち向かう。
長である彼がそうなのだ。そんな彼の背中に続く住民たちも、きっと同じことを考えているだろう。
「この街の連中は俺の宝なんだよ。いくら立派な街だけあったって、中の宝がスッカスカなんじゃ拍子抜けじゃねえか。だから俺はサリバンの要求なんざ飲まねえ。街から尾人を追い出すくらいなら、街と一緒に死んでやるさあ」
「誰も死にはしないよ。アルスアルテは、勝つんだから」
ジェードの返答に、アーロンはニカッと歯を見せて笑った。
根拠など何もない。保証などどこにもない。手段など見当たらない。
――それでも、今度の闘いは一人ではない。
たったそれだけの事実が、ジェードの胸中にこの上ないほどの自信――いや、もはや確信ともいうべき思いを生んでいた。
「やっぱり、この街の長はアーロンさん以外にありえないよ」
「よせよせ。今の俺は、一人のアルスアルテの民に過ぎねえよお」
「なら、今は僕も民に加えてもらおうかな。僕も一緒に闘わせてくれ」
「今更なあに言ってんだあ。てめえもとっくに奇人たちの兄弟だろうがよお、ジェード」
そう言って、大きな手をジェードの前に差し出してきたアーロン。
互いの瞳には大きな覚悟を宿し、二人はがっちりとその手を握り合った。
未だ状況が把握できていないのか、部屋の外で困惑した様子のハーティがアンバーの方を見る。
それに対してアンバーは、ハーティを安心させようとするかのようにゆっくりと頷いてみせた。
「大丈夫じゃ。きっと何とかなる。主らの自慢の指導者と、わしの自慢の主様がまだ諦めておらぬのじゃ。ならば相手が誰であろうと敵ではない。そうは思わぬか?」
そう語るアンバーも、ジェードにつられて笑みを浮かべていた。
言い切る根拠としてはあまりにも薄いことなどわかっている。
それでもこの信頼は決して無謀からくるものなどではない。それがなんとなく伝わったのか、ハーティは表情を凛と引き締めると、アンバーに向けてゆっくりと頷き返した。
「アーロン、きっと負けない。ずっとこの街まもってた、つよい人だし」
「うむ。では共に支え、見届けようではないか。わしらの"英雄"が、この楽園を救うところをな!」
「アィーッ!」
「はははっ。よい返事じゃハンナ!」
何のことかわかっていないはずのハンナを、アンバーは目一杯撫で回して褒めてやった。
そう。闘うのは人間だけでも、尾人だけでもない。
二つの種族が手を取り合い、この困難に打ち勝つために、彼らはこうして今、立ち上がったのだった。