今度こそ
回想が終わり、本編へ戻ります。
事情を語り終えたアーロンは再び大きなため息をつき、視線をジェードの方へと持ち上げた。
ジェードはすぐ横にある椅子に腰かけることすら忘れて、ただアーロンの語る悲劇に耳を傾けていた。
嫌な予感が的中した。やはりジェードが帰路ですれ違った部隊はアルスアルテからやってきていたのだ。
それもチェルシーを拉致し、拷問し、尾人の存在を自白させた上で、この街を異端として粛清対象とするために、だ。
チェルシーを発見できたことは朗報だが、最悪に近い形での再会に胸が痛んで仕方がない。
手当は済んでいるようだが、ベッドに潜って小刻みに震えるチェルシーは「ごめんなさい……ごめんなさい……」と何度も繰り返す以外に何も口にしようとはしなかった。
「……見つかってからずっとこの調子なのじゃ。あの衛兵らに、よほど恐ろしい目にあわされたのじゃろう……」
耳をぺったりと寝かせてしまったアンバーは、必死に涙を堪えながらそう語った。
ジェードの袖をぎゅっと握っている彼女の手は震えている。彼女も人間の残酷な一面を見て恐怖したのだろうとわかった。
それでも辛うじて涙をとどめているのは、チェルシーの方がさらに恐ろしい経験をしたという事実と、子どもたちの前では強い大人であろうとする彼女の思いがあるからだろう。
何か言おうと喉を震わせてみる。しかし、この惨状を目の前に、ジェードはただの一言すら発することができずにいた。
誰も何も言っていないというのに、ひたすらに謝り続けるチェルシー。それは自身を苛む首都の魔の手から逃れようとする嘆願なのか、秘密を暴露したことで仲間に危機が及んでいることへの謝罪なのか。
それでもどうか、尾人が生に対する詫び言でないことを、ジェードは祈らずにはいられなかったのだった。
「……俺はずっと、守りに入ってたんだ」
言葉を失っているジェードに向け、唐突にアーロンが語り出した。
ジェードが彼の方へ目を向けると、アーロンは壁にもたれたまま右手で顔を覆っていた。
「とんだ腰抜けなんだよ。俺は尾人の存在を隠し通そうとするばかりで、尾人が世間に認められるための努力なんか何一つしてこなかった。平和な現状を悪化させんのが怖くて、行動を起こしても無駄だって最初っから決めつけて……ただただ、守りに入ってたんだ」
そう語るアーロンは、昨日までより数段老けて見えるほどやつれていた。
へへっ、と自身を嘲笑したアーロンは、もたれていた壁から離れると、静かに部屋の外へと向かった。
「その結果がこれだ。俺は失格だな。アルスアルテの長としても、尾人の親としても……」
それだけ言い残して、アーロンは部屋の戸を開け放ったまま去っていった。
隣の部屋の戸の音がしたあたり、自室に戻ったのだろうということはわかるが、今のアーロンを追って何と声をかければいいかわからず、ジェードの足は動かなかった。
ふと、アンバーの手が袖ではなく、ジェードの指を握ってきた。
彼女はそのままジェードの肩に額を当ててきて、溢れそうになる涙を堪えていた。
そんなアンバーを安心させようと、ジェードは細い肩にそっと手を添える。しかし、まさにどん底とも言える現状を前にしては、この程度のことは気休めにすらならなかった。
そのとき、アンバーの大きな耳がピンと立ち上がった。
何か聞き取った様子の彼女に、ジェードは「アン?」と一言声をかけた。
「……下の酒場に、誰か来たようじゃ」
アンバーの答えを聞き、部屋の外へと視線を移すジェード。
ここからでは酒場の様子は見えないが、このようなときに一体誰が何の要件だろうか。
ジェードはアンバーの肩をぽんぽんと叩くと、一階の酒場の様子を見に歩き出した。
アンバーは目に溜まった涙を袖でごしごし拭ったあとで、ジェードのあとに続いた。
*****
酒場の階段を下りる途中で、ジェードにも第三者の存在が感じ取れた。
というのも、一階からは子どものものであるらしい声が聞こえていたのだ。
何か言っているようだが、まるで聞き取ることができない。というより、その声は言語の形すらとっていないように思われた。
「あれ、君たちは――」
「――ジドエドーッ! ミーィッ!」
随分と崩れた名前で呼ばれた気がするジェードは、思いがけない来客に目を丸くした。
酒場に下りたジェードの前に現れたのは、アンバーと同じ妖狐の姉妹――ハーティとハンナだった。
「ジェード、ごめんくだい。おじゃま、しにきてる」
そう挨拶したのは、大きな灰色の耳をしゅんと寝かせた姉のハーティだった。
彼女は自分と対照的に元気いっぱいな妹のハンナを「しずかに。ちょっとおとなしく、ね」と宥めている。この二人の様子を見た限りでは、ハーティだけが街の現状を把握しているのだろうとわかった。
「ハーティに、ハンナか? どうしたのじゃ?」
「うん、ちょっと。アーロン、いる?」
アンバーの問いをハーティがさらに問いで返すと、ハンナは「アバババーッ!」と声を上げてアンバーに飛びついた。
またも名前が崩れていることに苦笑しながらも、アンバーはハンナの頭を撫でて相手をしていた。
「アーロンさんに用事かい? 悪いんだけれど、今はそっとしておいてあげて欲しいかな。僕らでよければ、代わりに要件を聞くよ。アーロンさんにもあとで伝えておくから」
ジェードはなんとなく、今のアーロンの姿を姉妹に見せたくないと思った。
街の長があれほどまでに塞ぎ込んでしまっている姿など、住民たちが見たいと思うはずがない。
アーロンは自責の念に駆られているのだ。自分が何の行動も起こさなかったがために、この惨劇を招いたのだと。
彼が長として背負っているものを支えてあげられればよいのだが、今の彼には整理の時間も必要だろう。
ジェードの話を聞いたハーティはなんとなく空気を読むべきだと判断したのか、こくりと頷くと要件を話し始めた。
「話、きいた。朝きた、カピタラのひとのこと」
「そうかい。僕もさっき、アーロンさんから聞いたところだよ」
あまり明るいとは言えない性格のハーティだが、今の彼女はいつも以上にしおらしく見える。
街であのような悲劇が起きたあとだ。何も知らずにアンバーとじゃれて笑っているハンナと違い、ハーティもまた現状を嘆いているのは痛いほどよくわかった。
「わたし、思うことあって。それアーロンに言いたくてきた」
「なんだい、それは?」
「……カピタラのいうこと、聞くのがいい思うよ、わたし」
ハーティの発言にジェードは耳を疑った。
彼女の言っていることはつまり、尾人たちがカピタラの要求を飲み、一人残らずこの街を去るということだ。
ハンナの相手をしていたアンバーですら、耳も尻尾もピンと立てて驚きを隠せずにいた。
「何を言うておるのじゃハーティ!? なぜ尾人らがこの街を去らねばならぬ? 尾人らは何もしておらぬではないか! 出ていく理由など――」
「――でもほかにやりかた、ない。尾人いたら、尾人じゃない人間まで捕まるしれないでしょ。チェルシーみたいなこと、もういやだし」
「しかしそれでは、尾人らは……」
アンバーはハーティにかける言葉を必死に探しているようだった。
しかしハーティの言っていることも納得できてしまう。
首都の生誕祭が終わるまでに尾人の退去が完了しなければ、アルスアルテの住民たちは異端者として粛清対象にされてしまう。
その粛清がどの程度のものかはわからないが、可能性としては最悪処刑、そうでなくとも首都での禁固刑くらいは想像できる。また、どれだけ運が良かったとしても、首都近郊からの追放を免れることはできないだろう。
アルスアルテの尾人たちはもともと自然の中で暮らしていた者も多いため、突然街を追い出されたとしても、それなりに生きていくことは可能だ。
しかし、人間らしい暮らしを求めてアルスアルテにやってきた彼らから、ようやく手に入れた華やかな生活を奪うような選択をしたくはない。
それでも、選ばなければならない。街ごと首都に消されるか、尾人が身を引いて人間の暮らしだけでも守るか。道は二つに一つなのだ。
「尾人いなくなれば、ひどいこともうされないのでしょ。それでぜんぶ大丈夫なるなら、わたしもハンナもこの街出ていける。きっと尾人同じと思う」
ハーティの覚悟を聞いたアンバーは、納得はしていないようであったが、その考えを認めてはいた。
尾人が退去命令に応じれば、少なくともアルスアルテの人間たちは街で暮らし続けることができる。
尾人たちも、野生に戻って生きることは十分に可能であるはずだ。
今の暮らしは間違いなく失われてしまうが、この選択ならば誰も粛清対象とならずに済む。
アルスアルテがとるべき選択として、これが最善であることは考えるまでもなく明らかだった。
しかし――
「……だめだ」
沈黙を破ってそう呟いたのは、ジェードだった。
「そんなの絶対だめだ。それが正しい選択なはずがない。きっとあるはずだよ。人間も尾人も、これまでと変わらずに暮らし続けられる方法が、何か……!」
「主様……」
勢いでそう口にしたジェードだったが、そう言い切れる根拠など何もなかった。
それでも彼は、諦めることだけはしたくなかった。かつてプラムの森を――アンバーの故郷を守れずに旅立った苦い経験をもう一度繰り返すなど、絶対に納得できなかったのだ。
「……闘おう」
表情を引き締め、ジェードはハーティにそう告げた。
ハンナの相手をすることすらすっかり忘れて呆然とするアンバーは、彼の凛とした横顔にただじっと見入っていたのだった。
「この街を愛する全員の手で守るんだ。奇人と尾人の――僕らの唯一無二の楽園を……今度こそ……!」
「主様!? どこへ行くのじゃ!?」
アンバーの問いかけにも答えず、ジェードは踵を返すと酒場の階段を上り始めた。
状況もよくわからないままに、三人の妖狐が彼の背中に続く。
何も知らないハンナは相変わらず楽しげにはしゃいでいて、ハーティは対照的に不安そうな表情を浮かべている。
そしてアンバーはというと、どういうわけか自分でも不思議に思うくらいに、胸の奥がほっとしたように感じていた。
彼があのような顔をするのは随分久し振りだ。
そしてこういうとき、彼はいつも決まってとんでもない行動を起こすことを彼女は知っている。
しかし、このときばかりはそんな彼がこの上なく心強く感じられた。
これまでの旅で経験してきた困難と同じように、彼はきっと壁を乗り越える手段を見つけ出してくれる。
そう感じさせる背中を見ているうちに、やれやれと口元が少しほころんでいたことには、アンバーは自分で気がついていなかったのだった。