悪夢の予感
まるでゴミでも放るかのように、ジェードは硬い土の上に雑に転がされた。
その際に胸を強く打ったようで、ズキズキと痛む肺から咳が込み上げてくる。
そんなジェードが息を整えながら睨みつけた頭上には、軽蔑の視線で彼を見下ろす二人の若い衛兵が突きつける槍が光っていた。
「あんなこと言い出すなんてイカれてるぞお前。本来なら異端審問にかけて相応の処罰を与えるところだが、今は生誕祭前でなにかと忙しいんでな。今回だけは特別に見逃してやる。せいぜい悪運に感謝しろ」
そう吐き捨てた衛兵は、街の門の外にジェードを置き去りにして戻っていった。
痛みで立ち上がることができない。取り押さえられたり投げ捨てられたりしたこともそうだが、連行される魔猪たちを助けられなかったことが一番苦しい。
今すぐ衛兵たちを追って説得したいが、ジェードを追い出したあとで街の門は閉められてしまった。
中に入ることはもうできない。いや、例え入ることができたとしても、次に衛兵に捕まれば二度目の慈悲はないだろう。異端審問にかけられ、留置されるのがいいところだ。
「……また……僕は……ッ!」
何もできなかった。故郷の森を守れなかった、あのときと同じだ。
自分の無力さが情けない。一時の感情で冷静さを欠き、飛び出して足掻いてみるものの、いつも最後はこの有様だ。
土埃にまみれた手のひらを血が滲むほどに握りしめると、ジェードはやり場のない憤りを硬い地面にぶつけたのだった。
*****
とぼとぼと力なく歩く山道。
いつまでもカピタラの門の前に佇んでいても埒が明かないと判断したジェードは、一言「すまない……」とつぶやいてアルスアルテへの帰路を歩み出したのだった。
このまま帰っていいはずがない。わざわざアーロンを騙してカピタラまでやってきたというのに、行方不明になっているチェルシーの情報は何も掴めていない上、連行される魔猪を救ってもいない。
本当に何もしていないのだ。にもかかわらず自分はと言えば、身の安全を考えてカピタラを去ろうとしている。
これから魔猪たちが殺されるかもしれないとわかっていながら、結局のところ自分の身の方が大事なのだ。
街に入れないから。二度目はないから。一人では何も変えられないからと言い訳をして逃げようとする自分自身が、ジェードは憎たらしく思えて仕様がなかった。
手ぶらでアルスアルテに戻って、アンバーやアーロンにどんな顔で会えばいいのだろう。そう考えると自然と足取りも重くなる。
こうなることがわかっていたから、アーロンはカピタラの近況について言葉を濁したのだろうか。そんなことを考えながら、ジェードは足元に向けて大きなため息を一つ吐いたのだった。
するとそのとき、ジェードは前方からこちらに近づいてくる複数の足音に気づいた。
数はかなり多い。具体的な人数はわからないが、どうやら数人程度ではなさそうだ。
さらに言えば、足音に混じってカチャカチャと金属が擦れるような音が聞こえる。先程の衛兵団の行進を彷彿とさせる雰囲気を感じ取り、ジェードは反射的に山道脇の茂みの裏へと身を隠したのだった。
程なくして、その足音はジェードが隠れる茂みの横までやってきた。
恐る恐る覗くと、そこにはジェードの予想した通り、カピタラの衛兵部隊と思われる鎧の集団が列を成して歩いていたのだった。
ただ一つ予想と違ったことと言えば、カピタラの街で遭遇した部隊は若者ばかりだったのに対し、この部隊のほとんどは熟練した兵士で構成されていることだった。
別の任務に出ていたにしても、戦力の分散が極端すぎるのではないだろうか。そのようなことを考えながら全員が通り過ぎるのを確かめたジェードは、妙な胸騒ぎを感じて部隊がやってきた方角を見据えた。
今の衛兵部隊はカピタラへ帰還する途中であったのだろう。
では、彼らは一体どこから戻ってきたのだろうか? アルスアルテに向かう自分とすれ違ったということは――
背中にぞっと悪寒が走った。
ジェードは自身の脳裏に過った推測を整理する間すら惜しむように、アルスアルテへ続く山道を全力で駆け出したのだった。
*****
ジェードがアルスアルテに戻る頃には、西の空はすっかり茜色に染まっていた。
アーロンにもらった許可証を見せなければとポケットから取り出したが、街の関所はどういうわけか蛻の殻であった。
嫌な予感がする。やはり何かあったに違いない。
ジェードは再び駆け出して街へと入ると、真っ直ぐにアーロンの酒場を目指した。
走りながら気にかかったのは、街の中の住民たちの姿が異様に少ないことだった。
振り返って関所の塔を確認すると、夕日に照らされた赤い旗が見えた。これは目的不明の部外者が街へ入った合図だ。ジェードが最初にやってきたときと同じように、尾人たちは屋内に身を隠しているものと思われた。
アーロンの酒場に辿り着き、戸を開けて中へ入る。
人影のない一階を通り過ぎ、ジェードはそのまま階段を上がって二階へと向かった。
アンバーと二人で泊まっている部屋を覗くも、誰もいない。
次にアーロンの部屋を開けるが、またも誰もいない。
そのあとにアーロンが保護している子どもたちの部屋を開けると、そこでようやくアーロンやアンバーの姿を確かめることができたのだった。
「主様……!」
駆け寄ってくるアンバーにただいまの挨拶もせぬまま、ジェードは荒れた息を肩で整える。
どういうわけか部屋には子どもたちまで全員集まっていて、すすり泣く声が絶え間なく聞こえてくる。
そっと肩を抱いたアンバーの空色の瞳も、涙が溜まっているのかゆらゆらと光を反射していた。
そしてジェードは目の前の光景に息を呑んだ。
子どもたちが群がっているベッドには、顔の半分を包帯で覆われたチェルシーが横たわっていたのだ。
「チェルシー……?」
「ああ。見つかったのはよかったが、この通りだ」
だらりと項垂れて床に座り込むアーロンが、ジェードの言葉に弱々しく答えた。
ジェードが視線を向けると、アーロンは眉間にしわを寄せた顔を一度持ち上げたが、光が消えたような無気力な目をすぐに床へと落としてしまった。
痛々しく包帯が巻かれた顔のチェルシーはベッドの上で布団を被っていて、小刻みに震えているようにも見える。
ジェードが呼びかけても、その声に反応する様子はまるで見せない。
そんなチェルシーは、ジェードがすぐ横まで耳を寄せてようやく聞き取れるほどの小さな声で、「ごめんなさい……ごめんなさい……」とひたすら呟き続けていた。
「一体何があったんだい……? 関所の塔に、赤旗が上がっていたけれど……」
「ああ、そうかあ。まだ上げっ放しになってんのか。……だがいいんだ。旗にはもう、何の意味もなくなっちまった」
「どういう、ことだい……?」
行方不明だったチェルシーが見つかったことに安堵する暇もなく、彼女の変わり果てた姿に胸が痛んだ。
ジェードは、どこか苦しそうに語るアーロンからアンバーへと視線を移すと、自分がカピタラへ行っている間の出来事の説明を求めた。
しかしアンバーは耳をしゅんと寝かせて俯いてしまい、何も語ろうとはしない。
チェルシーが重傷であることに加え、あれほど朗らかなアーロンが塞ぎ込んでしまうような事態だ。余程の災難に見舞われたことは、何も知らないジェードからしても、火を見るより明らかだった。
「座れ、兄ちゃん。俺から話す」
ジェードの問いに答えたのはアンバーではなく、床に座り込んでいるアーロンだった。
彼は嘘をついてカピタラへ向かったジェードを咎めようともせず、のっそりと立ち上がると真後ろの壁にもたれかかって顔を持ち上げた。
そして、チェルシーのベッドの横に呆然と立ち尽くすジェードに椅子をすすめると、大きなため息の後にゆっくりと語り始めたのだった。