"地獄"
「いらっしゃい。おや、旅の人かいお客さん?」
「大当たり。産まれて初めて首都にやってきたような田舎者さ」
「ははは、そうかそうか。俺は産まれも育ちもカピタラだから、聞きたいことがあったら何でも言ってくれ」
特に隠しているつもりもないが、酒場の主人と思しき髭の男性にもすぐに旅人だと気づかれてしまった。
この男も靴屋の青年同様、カピタラの外からやってきたジェードに対してとても気さくで感じがよい印象だ。
まだ昼間であるためか、酒場に客はほとんど入っていない。男の正面のカウンター席についたジェードは、男に何か飲み物を勧められたため、とりあえず水を頼んでおいたのだった。
物価の高いこの街で酒なんか頼もうものなら、一体何日分の旅費が消えるだろうか。考えただけでも恐ろしい。
「それにしてもびっくりしたよ。首都だから人も多くて賑わっているんだろうとは思っていたけれど、まさかこんなにも華やかでいい雰囲気だなんて思っていなかったから。物の値段は高めだけれど……」
「だが値が張る分、一級品も多いぞ。それにカピタラには富裕層や貴族の生まれも多いから、そんなことは大した問題にならないしな」
ジェードが青ざめるような高価な品々が大した問題にならないとは、きっとこの街の富豪たちは湯水のように金を使うのだろう。
僕なんかとは住む世界が違う、とジェードは心の中でこっそり呟いておいたのだった。
「おたくは、どこの出身だい?」
「僕は商人の街から来たんだ。あそこもかなり人の多い街だけれど、首都はもっと多いもんだから本当に驚いたよ」
「まあそうだろうなあ。もうすぐ"生誕祭"もあるから、あちこちから人が集まってきてるし」
「"生誕祭"? 誰のだい?」
耳に新しい言葉がふと会話の中に現れ、ジェードはつい聞き返してしまった。
男はその問いにふふんと得意げに笑うと、水のグラスをジェードに差し出しながら口を開いた。
「それはもちろん、首都の指導者ディーノ様の生誕祭さ。カピタラでは毎年指導者の誕生日を街全体で祝う風習があるんだが、ディーノ様はとても慕われているから、今年は特に盛大だろうな」
「へえ。この街にはそんなお祭りがあるのかあ」
「生誕祭は楽しいぞ? 宴で飲んだり騒いだりできるのはもちろんだが、旅人のおたくには昼の競り市と夜の舞踏会は特におすすめだ。競り市には誰でも何でも出展できてな。誰が一番の掘り出し物を競り落とせるかって、毎年たいそう盛り上がるんだ。夜の舞踏会では、男女が街の広場で朝まで踊り明かすのが伝統だな。出会いの場だったり商売の交渉の場だったり、まあ楽しみ方は人それぞれだ」
男の話を聞けば聞くほど、ジェードも胸の高ぶりを抑えきれなくなりそうだった。
首都での祭りは、これまでジェードが訪れてきたどの街のそれよりも盛大で豪快に行われるに違いない。アンバーなんかはきっと大はしゃぎするだろう。
アンバーを連れてくるのは危険かもしれないと一人でやってきたが、街の明るさは素直に好印象。
カピタラの不穏な噂はただの風評被害に過ぎないのではないかと、ジェードは考えを改め始めていた。
「そうかあ。そんな風に祝ってもらえるなんて、この街の指導者は本当にみんなに好かれているんだね」
「そうとも。ディーノ様はまだカピタラの指導者になって間もないのに、住民たちから絶大な人気を誇ってるんだ。ちょっとした英雄みたいな扱いをされることもあるくらいにな」
「英雄かあ……。彼は一体何をしたんだい? そんなに慕われるくらいだ。きっとこの街のために何かすごいことをしてみせたんだろう?」
そうジェードが問うと、男は待ってましたと言わんばかりの笑みを浮かべてみせた。
街の住民がこんなにも誇っているような人物だ。自分のような田舎者には想像もできないような大偉業を成し遂げたに違いないと、これから語られるであろう英雄譚にジェードも胸が騒ぐようだった。
「聞いて驚け。ディーノ様は長年この街が悩まされてきた問題に、今まで誰も思いつかなかったような前代未聞の方法で対処しようとお考えなのさ。今はまだ試験的に行われているだけの政策だが、徐々に成果も上がってきてるし、問題解決までそんなに時間はかからないだろうよ」
「それでそれで、彼は一体、何をどんな方法で解決しようとしているんだい?」
「ディーノ様が住民のためにしようとしていること――それは、カピタラ周辺の野山に住み着いた魔猪の駆除計画の実行さ」
ジェードは男の言葉に耳を疑った。
うきうきと胸を躍らせながら待っていた答えは、あまりにも予想外のもので相槌すら打つことができなかった。
「魔猪の……駆除計画……?」
「そう。このあたりには昔から魔猪が住み着いててな。襲われる住民も時々いたりして、正直困ってたんだ。ディーノ様は本当にカピタラの民のことをわかってくれてる。しかもその計画もまた独特で驚かされたもんだ」
男が口にする言葉の一つ一つが胸に刺さる。アーロンの酒場で保護されている魔猪の子――リュカとユーリの顔が脳裏に浮かぶ。
自分らとは種族こそ異なっているが、あの二人も他の子と何も変わらない、無邪気で優しい子どもに過ぎないのだ。
そんな子どもたちの同胞を手にかけるなど――しかもそのようなおぞましいことを平然と言ってのけるなど、ジェードには目の前の男の感覚がまったく理解できなかった。
ジェードは故郷で繰り返された、妖狐駆逐作戦という悲劇を知っている。
まさかあれと同じようなことが、カピタラでも行われているというのだろうか。これほど活気に溢れた華やかな街で、そのような残忍な計画が進んでいるなど、できれば信じたくないとジェードは思った。
「……その計画って……どういった風なものなんだい?」
聞けば後悔するかもしれない。知れば嘆くことになるかもしれない。
それでもジェードはなぜだか、この件に対してだけは逃げ出すわけにはいかないと感じ、思い切って男にそう尋ねたのだった。
「今までは魔猪との接触そのものをできる限り避けるのが常識だった。物の怪と関わると不幸になるって噂もあるくらいだからな。武器で脅して追い払うくらいで済ませてたんだ――」
少しばかり口調が弱々しくなったジェードだったが、男はそのようなことに気づく様子もなく、どこか誇らしげに意気揚々と語り始めた。
「――だがディーノ様のお考えはまるで違った。あの方は魔猪を追い払うんじゃなく捕獲して、あろうことかカピタラまで移送してきたんだ。そしてその魔猪を手懐けて労働力にするとまで仰った。最初はみんな度肝を抜かれたもんだよ」
「労働力……? 魔猪を雇って仕事を与えた、ということかい?」
「ははは、まさか。相手は害獣だぞ? 牛や馬みたいに荷を運ばせたり、車を引かせたりするんだと。だが、物の怪は普通の動物よりもちょこっと頭がいいらしいから、もう少し難しい仕事をさせられるかもしれないって話も聞いたな」
ジェードは握り締めたまま力を緩めることができなくなった手を必死に隠しながらも、なんとか表情を変えずに男の話に耳を傾けていた。
この街は、魔猪を奴隷として利用するつもりなのだ。
アルスアルテのように職や人権が保証されるのではない。
この街の指導者は、魔猪たちを捕縛してカピタラへ連行し、雇用契約ではなく主従関係によって支配しようとしている。人間に従わせ、思うままに使役できる家畜にしようとしているのだ。
そのようなことが許されていいはずがない――しかしそれはあくまでも尾人との相互理解を果たしたジェードの思いだ。
何の罪悪感も感じられない口調でのうのうと語るこの男を始め、カピタラの住民たちにこの感覚は理解できないだろう。
彼らにとって尾人は害獣であり、不幸の象徴だ。今まで散々遠ざけてきた尾人が人間の役に立つかもしれないという事実は、まさに青天の霹靂であったに違いない。
「おっ? 外が騒がしいな。てことは多分、帰ってきたんだな?」
不意に酒場の外から住民たちのざわめきが聞こえ始め、男がそう口にした。
ジェードが説明を求めて首を傾げると、男はまたもや得意げな表情を浮かべて語り出したのだった。
「今朝から魔猪の捕獲作戦に行ってた、街の衛兵部隊さ。おたくは運がいいな。この街が誇る部隊の凱旋を目の当たりにできるんだからよ。ほら、ここを通り過ぎる前に見てくるといい」
男に促されたジェードが席を立ち、酒場の外へ出る。
すると目の前の大通りの両側は人で埋め尽くされていて、その間には列を成した衛兵部隊が悠々と歩いていた。
衛兵たちは皆銀色の鎧を着ていて、手には槍を持っている。
彼らの行進を見守る住民たちは、拍手を送っていたり指笛を鳴らして称賛していたり、随分と盛り上がっている様子だ。
しかし、そんな住民たちの表情がみるみる曇っていくのをジェードは感じた。その理由はおそらく、衛兵部隊の列の途中に、馬車に引かれて進む大きな檻が見えたからだろう。
少し遠くてよく見えないが、住民たちの反応から想像がつく――檻の中には、今日捕縛された魔猪がいるのだ。
直感的にそう思ったジェードは、胸の奥から湧き上がる憤りを抑えきれなくなった。
そして気が付くと彼は目の前の人混みをかき分け、大通りを進む檻の馬車の前に飛び出していたのだった。
「おい、何をしている? 通行の邪魔だぞ」
馬を引く兵が苛立ちの声を投げかけてくる。
しかしジェードはその言葉を無視し、視線の先にある檻の中を見つめた。
そこには二匹の猪と、一人の裸の女性の姿があった。
おそらくこの全員が魔猪なのだろう。二匹の猪は普通の猪と比べて一回り大きいように思える上、人の姿をしている女性の方に関しては、腰のあたりに渦を巻いた細い尻尾が見えた。
「彼女らをどうするつもりなんだい」
「ふん、貴様この街の者ではないな」
突然立ちふさがったジェードに、衛兵たちは手にしている槍を一斉に向けた。
大通りの脇に集まった住民たちも、一体何事だと困惑している。
まさに孤立無援。しかし、ジェードにもここで怯むわけにはいかない理由がある。
頬から汗が流れるのを感じながらも、ジェードは一切後ずさることなく衛兵部隊と向き合った。
「どうするつもりだ、と聞いたな。そんなの殺処分に決まっているだろう。まあ、大人しくて利口な個体だけは利用価値があるから、もしかしたら生かしておくかもしれないが」
先頭にいた若い兵が、ジェードを睨みつけながら冷たく言い放った。
よく見ると、部隊の全員がジェードとあまり変わらないくらいの歳であるように思える。
カピタラの衛兵部隊はこんなにも若い者だけで構成されているのだろうかと疑問も湧いたジェードだったが、ひとまず今はそのことについては後回しだ。
腹の底が煮えくり返りそうな思いだが、必死にそれを押し殺してジェードも兵士を睨み返した。
「そこの魔猪たちを山へ帰すんだ。今すぐ」
「なぜ貴様にそのような指図をされなければならない?」
「こんなことは絶対に間違っているからさ。そうは思わないのかい、君たちはッ!!」
聞く耳を持ちそうにない衛兵の代わりに、ジェードは見物の衆に向けて訴えかけた。
しかし見物人たちは皆ジェードと目が合うと視線を逸らし、関わらぬが吉といった風に顔を伏せる。
ジェードの思いを汲もうとする者など、この場にはただの一人もいなかったのだった。
すると不意に、ジェードは背中に強い衝撃を受けて地面に転がった。
慌てて首を上げると、どうやらいつの間にか回り込んでいた兵士に背中を蹴り倒されたようだということがわかった。
そして響き渡る「かかれ!」の合図。咄嗟に起き上がろうとしたジェードだったが、訓練された複数人の兵士を相手に太刀打ちできるはずもなかった。
そして部隊は再び進み始める。
地面に組み伏せられたジェードは、檻の中からじっとこちらを見つめる魔猪たちが移送されていく姿に向けて、届かぬ腕を伸ばし続けることしかできなかった。