穏やかな余生への第一歩
その日の夕方。
ヴィンセントは、学園の応接室に座っていた。
正面にはシャルロット。
右隣にはアリエ。
左隣にはリュシアン。
背後にはギリアム。
少し離れた椅子にはレオン。
まるで尋問の場だった。
ただし、テーブルの上に並んでいるのは、温かい紅茶と焼き菓子、そして大量の果物だった。
ヴィンセントは、目の前の皿を見つめる。
「……これは?」
「お食事です」
シャルロットが答える。
「僕は、何かの罪を告白する必要があるのかな?」
「ありません」
「では、なぜこんなに人がいるんだ?」
「あなたが逃げたからです」
「……」
ヴィンセントは、黙って紅茶を飲んだ。
アリエが、向かい側から身を乗り出す。
「ねえ、ヴィンセント」
「何?」
「あなたが悪役だと思っている原作って、どんな話なの?」
「……説明しても、信じてもらえないと思う」
「いいから教えて」
ヴィンセントは、少し考えた。
原作の筋書きを、できるだけ簡潔に説明する。
悪役貴族である自分が、聖女アリエを虐げる。
婚約者のシャルロットとともに、彼女を追い詰める。
リュシアンが正義のために立ち上がり、ヴィンセントと対立する。
最後には、ヴィンセントが罪を暴かれ、断罪される。
そこまで話したところで。
アリエは、ゆっくりと自分を指差した。
「私が、あなたに虐げられる?」
「原作では」
「でも、私はあなたに何かされた覚えがないわ」
「まだ起きていないだけかもしれない」
「……」
アリエは、隣のシャルロットを見た。
「シャルロット。私たち、ヴィンセントをいじめたことある?」
「ありませんわ」
「よね?」
「むしろ、あなたは彼を守るために街の壁を壊しましたわ」
「一度だけよ!」
「二度です」
ギリアムが淡々と訂正した。
「一度目は街壁。二度目は訓練場の防壁です」
「……二度だけよ!」
「誇るところではありません」
ヴィンセントは、紅茶を飲みながら考えた。
原作のアリエは、可憐で非力な聖女だった。
しかし、目の前のアリエは、壁を壊す。
シャルロットは、冷酷な悪役令嬢ではなく、膝枕をしてくる。
リュシアンは、敵対する主人公ではなく、友達になろうとしてくる。
ギリアムは、冷淡な教師ではなく、妻の治療を終えて自分を守ろうとしている。
レオンは、家督争いをする弟ではなく、自分のために家令へ相談している。
「……もしかして」
ヴィンセントは、慎重に口を開いた。
「原作のほうが間違っているのでは?」
部屋が静かになった。
全員が、ヴィンセントを見つめる。
シャルロットは、ゆっくりと微笑んだ。
「ようやく、その可能性に気づいてくださいましたのね」
「いや、でも……」
ヴィンセントは、すぐに付け加えた。
「原作が間違っているとしても、僕が最後に処刑される展開だけは変わらないかもしれない」
全員が、一斉に頭を抱えた。
「どうしてそこだけ信じるのよ!」
アリエの叫びが、応接室に響き渡った。
***
夜。
ヴィンセントは、自室の机に向かっていた。
朝に書いた「原作イベント回避状況」の紙を、もう一度広げる。
そして、最後の欄に新たな項目を書き加えた。
公開糾弾イベント:回避
告発者:捕縛
死亡フラグ:おそらく回避
周囲の好意:依然として要警戒
今後の方針:しばらく逃亡は控える
ヴィンセントは、ペンを置いた。
「……まあ、悪くない一日だった」
少なくとも、処刑はされなかった。
原作の強制力が働いたにもかかわらず、無事に生き延びた。
それどころか、告発者まで捕まっている。
ひとまず、危機は去ったと考えていいだろう。
彼は椅子の背もたれに寄りかかり、窓の外を見た。
月明かりが、銀色の髪を淡く照らす。
「このまま、何も起こらなければいいんだけど」
そのとき。
コンコン、と扉が叩かれた。
「兄上。入ってもよろしいですか?」
レオンの声だった。
「どうぞ」
扉が開く。
レオンは、小さな箱を抱えて入ってきた。
「これを」
「何だい?」
「兄上が逃げるときに持っていかなかったものです」
箱を開けると、中にはヴィンセントが普段使っている万年筆や、読みかけの本、手袋などが入っていた。
「……わざわざ持ってきてくれたのか?」
「はい」
レオンは、少し恥ずかしそうに頷いた。
「兄上が、またどこかへ行ってしまうかもしれないと思ったので」
ヴィンセントは、弟の顔を見た。
不安そうな青灰色の瞳。
それでも、兄を責めることはない。
ただ、そばにいてほしいと願っている。
「レオン」
「はい」
「僕は……しばらく、ここにいることにするよ」
レオンの顔が明るくなった。
「本当ですか?」
「ああ。少なくとも、今すぐ隣国へ逃げることはやめておく」
「よかった……」
レオンは、ほっとしたように息を吐いた。
ヴィンセントは、弟の頭に手を置く。
「心配をかけてすまなかったね」
「……兄上」
「何?」
「兄上は、僕たちが嫌いですか?」
ヴィンセントは、思わず目を見開いた。
「どうして、そう思うんだ?」
「だって、兄上はいつも、僕たちから離れようとするから」
その言葉に、ヴィンセントは答えられなかった。
自分は、ただ死にたくないだけだった。
周囲に迷惑をかけず、誰かを傷つけず、静かに生きたいだけ。
そのためには、人と距離を置く必要があると思っていた。
しかし、目の前の弟は、離れていくことそのものを恐れている。
「……嫌いではないよ」
ヴィンセントは、ゆっくりと答えた。
「むしろ、君たちは僕に優しすぎるから、どうしていいのかわからないんだ」
「優しくしてはいけませんか?」
「そういうわけじゃない」
ヴィンセントは、少し困ったように笑った。
「ただ、僕はそういう扱いに慣れていない」
レオンは、しばらく考えた。
それから、ヴィンセントの手を小さな両手で包み込んだ。
「では、慣れるまで、僕がそばにいます」
「……そうか」
「はい」
ヴィンセントは、弟の手を握り返した。
窓の外では、月が静かに輝いていた。
彼はまだ、自分が一度目の人生をやり直していることを知らない。
周囲の人々が、かつて彼に救われたことを知っていることも。
自分が処刑される未来が、すでに彼らによって幾重にも覆されていることも。
それでも。
今日、初めて。
ヴィンセントは、自分からひとつの選択をした。
逃げずに、ここにいる。
それが、彼にとっては小さな一歩だった。
翌朝。
王立魔法学園では、昨日の公開糾弾未遂事件について、さまざまな噂が飛び交っていた。
「アストレア公爵令息は、実は裏で王国を操っているらしい」
「いや、聖女様が彼を守るために犯人を殴り飛ばしたそうだ」
「ルヴェリエ大公令嬢が告発者を社交界から追放するらしい」
「聖騎士団長の息子が、アストレア家のために学園の警備を強化したとか」
「フェルディナンド先生が、告発者を5時間懺悔室に閉じ込めるらしい」
噂は、時間とともに大きくなっていく。
その一方で、当のヴィンセントは。
「……どうして、みんな僕を見るんだ?」
教室の中央で、困惑していた。
彼の左右には、シャルロットとアリエ。
少し後ろには、リュシアン。
教室の入り口には、ギリアム。
さらに廊下の向こうでは、レオンが家令から借りた帳簿を抱えて待っている。
ヴィンセントは、ゆっくりと目を閉じた。
(……これは、原作の展開とは違う)
彼は、ほんの少しだけ考える。
そして、いつものように結論を出した。
(だが、今はまだ油断できない)
シャルロットが、彼の肩にそっと手を置く。
「ヴィンセント様。今日の放課後は、私とご一緒くださいませ」
アリエがすぐに反応する。
「私も一緒に行くわ!」
「婚約者との時間です」
「友達との時間でもあるでしょう?」
リュシアンが笑いながら、ヴィンセントの肩を叩く。
「じゃあ、俺も参加する!」
ギリアムが、深くため息をついた。
「学園内で騒ぐな。授業が始まるぞ」
レオンが廊下から顔を覗かせる。
「兄上、お昼は一緒に食べましょう!」
四方八方から寄せられる声。
守られ、囲まれ、気遣われる。
かつて孤独の中で処刑台へ向かった少年は、今度の人生では、どこへ逃げても誰かに追いかけられる。
ヴィンセントは、しばらく黙っていた。
やがて、諦めたように小さく息を吐く。
「……わかったよ」
全員の表情が、ぱっと明るくなった。
「ただし」
ヴィンセントは、指を一本立てた。
「僕を処刑しないと約束してくれるなら」
沈黙。
次の瞬間。
「しません!」
「するわけないでしょう!」
「俺たちを何だと思ってるんだ!」
「兄上……」
教室中に、四人分の叫び声と、ひとりの深いため息が響き渡った。
ヴィンセントは、窓の外を見た。
空は青く、雲ひとつない。
原作の筋書きから外れた世界。
自分を守ろうとする人々。
そして、未だに彼らの好意を完全には信じられない自分。
けれど、少なくとも今日も生きている。
処刑台は、まだ遠い。
ならば、もう少しだけ。
この不可解で、騒がしくて、妙に優しい日々を続けてみてもいいのかもしれない。
ヴィンセント・アストレアは、そう思いながら席についた。
――悪役公爵令息の、穏やかな余生を目指す物語はこうして幕を閉じる。
ただし。
彼の周囲にいる者たちは、すでに次の段階へ進んでいた。
「どうすれば、ヴィンセントに自分たちの愛情を信じてもらえるのか」
その問題に、誰一人として正解を出せていない。




