2-3:無知は罪より罰に近い
「まず最初に。インターネット上で、Backroomsという都市伝説がある」
真剣そうな顔で、標識はつぶやく。
つぶやくと言っても、彼の素の声は大きいから、難なく全員聞き取れる程度の大きさだったが。
彼はそう言うと、パソコンの大きなモニターに何かを映す。
あの空間——薄く淡い黄色の壁が永遠に続き、学校によくあるような安っぽい蛍光灯が点滅する部屋——のどこか一部を切り取った、写真のように見えた。
「それって……」
「おん。あそこだ」
彼は深く頷く。それから今度は、英語で書かれている記事……いや、掲示板らしきウェブサイトを映した。
「先に言うと、この都市伝説のBackroomsは、おれたちの言うばっくるーむと酷似している。が、一致ではない」
「ただ便宜上、固有名詞はほぼそのまま使ってるけどね」
補足するように手繰さんが付け加える。
彼女は一口ピザを食べながら指を動かし、標識はそれを見て、海外製らしい何か怪しいホームページを開いた。
「まず、これがうちらがのーくりっぷしたら着く場所。黄色くていやーな湿気でお馴染みの空間、いや、部屋?これがれべるぜろって言われてまーす」
「……うん、そこはちょっと聞いた。めぐるさんと会ったのがれべるわん、って言ってたけど、れべるで分かれてるの?」
「あっ良い質問じゃん!」
きゃっきゃっ、と手繰さんが飛び跳ねた。
こうやって話していると、本当に普通だ。
少なくとも、この後思い出を忘れてしまう人間にはとても見えない。
「日本語訳だと階層って言われてるけど、うちらはれべるって呼んでるっ。階層というには階段上じゃ無いし、部屋って呼ぶには開放的だし?」
「なるほど」
「れべるぜろ、ろびー。そんな感じで名前付けられてるけど、長いのもありまくりだし。いっぱい名前覚えるより、数字の方がまだわかりやすいしー」
たしかに合理的だ。
いっぱい、と言われたということは、数十種類くらいれべるがあるのだろうか。
とりあえずれべるぜろとわんは覚えた方が良いな。
「れべるが違うとさ、部屋のかたちも、落ちてる物も、出てくる化け物の種類も、ぜーんぶ変わる。れべるごとに別の世界、って考えたほうがしっくりくるかも」
手繰さんはポテトの塩とピザの油がついた指を器用にペーパーで拭う。
それから、少し首を傾げた。
「酷似。そう、酷似しているから、行ったことないれべるも、探索ができていないれべるも、多少はわかるんだよね」
「居そうな化け物。のーくりっぷしそうな先。ありそうな危険。そんくらいは予想がつくって話」
今度は標識が補足する。
「れべるは数百種あるからな」
「……すっ……ひゃ……!?」
思わず声が裏返る。というか、ほとんど出なかった。
ノートの上で、ボールペンの先が小さく跳ねる。転がる。
全然、数十どころの話ではないだろ。正気か?
「ネット上で確認できてる範囲で千に近い数百種だ、実際はもっと……いや、無限にあるんじゃないか、とおれは予想してるけどな。——だから、全部覚えるなんて無理だ。おれたちだって行ったことある場所と、有名どころしか知らん」
「んー……うちは逆だと思ってるよ?」
「なにが」
「ネット上で確認出来るから、実際に増えてるんじゃないかなって」
手繰さんは、まるで明日の小テストの範囲について議論するかのような軽さでそんな事を言う。
恐ろしいことを言っている。
もし彼女の仮説通りなら、今この瞬間も、誰かの気まぐれな妄想や創作によって、あの地獄のバリエーションが増え続けているということになる。
それは、なんというか、悪意、に近しい想像だ。
「まー、いくつあるかとか確認できないことはいいし。置いておこ」
こんこん。
ローテーブルを彼女は指で叩く。音は変わりなく通る。
「話さんはさ、都市伝説のBackroomsと比べて、どこが異なってると思ってる?」
突然のクイズに、俺は動きかけたボールペンを止めた。
都市伝説のBackrooms。
それはつまり、ネットの海に転がっている、ただの創作群。いや、俺だってあまり詳しくは知らないけれど、今のところ話を聞いている限りそういう印象だ。
「なんだろう……酷似、なんだよね。じゃあ、れべるとか、あの化け物とかの対処法?」
「おっしい!」
ぶぶー。
残念!
手繰さんが指でバツを作る。
彼女は背に置いていたクッションを抱え直し、身を乗り出してきた。また、瞳の奥が細かく上下に痙攣する。
「残念って言うほどそこまで外れでも無いだろ」
「正解に近いってこと、かな」
俺がそう返せば、標識はニッと口角を上げた。
「動いてるんだよ、おれたちの知ってるばっくるーむはさ」
「動いてる?」
思わず鸚鵡返しに呟く。
標識の言葉の意図が掴めない。
「動いてる。うーん、生きている、のほうがうちは好き」
「へえ。生きている。確かにその方がニュアンスとしては近いかもな」
標識がキーボードを叩くと、ぱっとマップのような図が映し出される。
ルートのような赤い線。スポーン地点を指す印。扉のような四角形に丸が付いている。
「これが、最初期におれたち——厳密に言えばおれはいない初期メンだけど——が作ったマップ。れべるわんから、こっちに戻るルートだったらしい」
「俺が今日通ったルートってこと?」
「いや、話は同じ扉を潜った。ただ、ルートは違う」
どういう意味だ。
さっきからずっと、意がわからない。
俺が眉を顰めると、標識は小さく溜息をつき、画面の赤い線をトントンと人差し指で叩いた。
「例えば……そうだな、これ。れべるぜろかられべるわんへの落下地点の部屋の外壁。写真がある。なあ、そこはこんな風に落書きされてたか?」
ぱっとモニターに大きく表示されているのは、画質を悪く加工したように見える壁の写真だ。
一面コンクリートで隔離されたような——若しくは、薄汚れ寂れた広大な地下駐車場に似通っている。けれど、それだけで済ますにはどこかが異質だ。
水溜りの出来ている地面。微妙に霧っぽい薄白色。
なにより、書かれてる文字。
「へるぷ……」
真っ赤な色で、壁が埋まるほど書かれた『HELP』の文字。
こんなのホラーゲームじゃなければ許されないような、過度な恐怖演出だ。
一度見たら覚えてしまうだろう。
絶対にこれは見ていない。
「心臓に悪いだろ」
「だよねー! こんなのあったら流石にうちもトラウマ不可避!実際あったケド!」
標識は笑っていなかった。
けれど、手繰さんはポテトを口に放り込み、他人事のようにけらけらと笑う。
「都市伝説的Backroomsだと、れべるぜろのこの壁を抜ければれべるわん、この手順を踏めば脱出、みたいにルールが固定化されてる。攻略サイトがあるゲームみたいにさ」
「でも、うちらのばっくるーむはそう都合良くない。入口出口そのものは変わらないことが多いけど、そこに辿り着くまでのルートは変容する。書き変えられてるみたい。まるで、脱出できたのはバグで、想定していない挙動だったから修正したみたいに——ううん、これはうちの個人的な解釈だけど」
手繰さんはそう言って、抱えたクッションに顎を乗せ、それからまたポテトを食べる。
標識は呆れたようにコーラを飲んだだけで、何も言わなかった。
「でもね、一致してる部分もあるし。えんてぃてぃの概要とか、ドアtoドアの行き先出口とか。なんでかはわかんないけど、根本的に、仕様書みたいに変えられない部分もあるっぽい」
「あー、なるほどな。れべるぜろがれべるぜろ足り得る内容は変えられない、みたいなことを言いたいんだろ?」
「そゆこと、さすがひーくん。スタートもゴールも、敵の内容も変わらない。でも、そう、地形は生成型みたいな。……ま、少なくともうちらが見た限りではの話!今後大型アップデートが来るかもしれないし?」
冗談に聞こえなかった。
いや、彼女の口調はどこまでも冗談めいているのに、その瞳の奥の痙攣が、これが現実の、命懸けの話であると暗に伝えてくる。
「……大型アップデートって、そんなゲームみたいな言い方……」
否が応でも、伝わってくる。
俺の呟きは、ポテトの袋がガサリと鳴る音にかき消された。
「そんなアップデート、誰も望んでねえよ」
標識が心底嫌そうに顔を歪め、キーボードを叩いて画面を別の階層図へと切り替えた。
「ま、タグの言う通り、あっちの世界は生き物みたいに形を変える。だから、ネットの知識を過信した奴から順番に死ぬ。マップが役に立たないなら、頼れるのはその場の機転と、あとは——」
彼は自分の充血した目を指差し、それから二人仲良くピザやハンバーガーをつついて談笑している花屋敷さん、めぐるさんへと視線を巡らせた。
「おれたちの後遺症って訳だな」
後遺症。
生き残るための武器。
同時に、自分を削る呪い。病。
ノートを持つ手に、じわりと嫌な汗がにじむ。
自分の頭蓋骨の裏側が、また異物のように感じられてくる。
「深刻に考えすぎだし、話さん!」
手繰さんがローテーブルをごんと叩いて、おどけたように身を乗り出した。
「なっちゃったもんは仕方ない、 過去は戻んないよ!それより大事なのは、現時点でわかってる生きるうえでの原則。 メモって、テストに出すからっ!」
慌ててボールペンを握り直す。
手繰さんは指を一本ずつ立てながら、これまでとは打って変わって、一言一言を刻みつけるように言った。
「一つ。アーモンドウォーターがあったら、必ず確保すること。ばっくるーむで得られる貴重な精神安定剤で、水分補給。稀に変な薬品臭とか、色とかするのがあるからそこだけ気を付けてね」
めぐるさんがくれた、あの白い缶を思い出す。
「精神安定剤っていうのは?」
「正気度って言う……のかな。あんな異様な空間、誰だって摩耗して気が狂っちゃう!それを抑えるのが、アーモンドウォーターらしいっぽい。これも検証したわけじゃないんだけど、都市伝説的にはそうなんだって。ま、そうじゃなくても飲み物はゲットしておいたほうが良いし」
正気度。
なんだかいよいよゲームの攻略法を教わっているみたいだ。
あの時貰ったアーモンドウォーターを思い出す。白い以外にはほとんど特徴のない缶。あれが生命線らしい。
ノートに書き殴る。
「二つ目。これが一番大事。えんてぃてぃとの遭遇時は、絶対に逃げること。交渉とか、ましてや戦うなんて論外!」
その表情には、情報の海で溺れかけながらも、生き残ってきた者の冷徹なまでのリアリティがあった。
「Backroomsでは、特定のアイテムを見せると友好的になったり、なにか弱点があるえんてぃてぃも居るらしいけど。うちらはそんな奴見たこと無い。戦って勝てる相手でもないしね。……ま、話さんの後遺症が戦闘系だったらわかんないけど」
標識が画面を操作して、複数の禍々しいスケッチを表示させる。
どれもこれも、見ているだけで吐き気がするような、生物を歪めたようなシルエットばかりだ。
「こんなんと戦いたくねえだろ?ま、接近しないのが一番ってこと」
「そう、だね」
俺は這いずるような金属音と、あの圧倒的な捕食者の気配を思い出して身震いした。
鉄則を書こうとした文字が、手の震えで少し歪む。
戦うなんて選択肢、あの這いずる金属音を聞いた時点で最初から俺の頭の中にはなかった。
「で、三つ目」
手繰さんは立てた三本目の指を、俺のノートの白い紙面へと突きつけるように向けた。
「絶対に感覚を信じないで」
「感覚を、信じない……?」
思わずペンを握る手が止まる。
さっきまでの「逃げろ」とか「アーモンドウォーターを飲め」という明確な行動指針とは違い、あまりにも抽象的で、だからこそ酷く不気味な響きを持った言葉だった。
「目に見える景色も、耳に聞こえる音も、全部。ばっくるーむは、人間の感覚を狂わせるのがすっごく得意なんだから」
手繰さんはそう言って、自分の頭の横で指をくるくると回す。
「五感が狂うからこそ、うちらみたいな五感がバグった後遺症が、逆にレーダーになるんだし。正常な感覚が信じられないなら、異常な感覚を信じるしかないっていう、すてきな皮肉!」
「……皮肉、だな、本当に」
ノートの白ページに、ボールペンの黒いインクがじわりと染み込んでいく。
「アーモンドウォーター」「遭遇時は逃走」「感覚を疑う」。
書き並べられた三つの鉄則は、どれもこれも血の匂いがするほど生々しい。
「はーい、お勉強はここまで!」
手繰さんはパンと両手を叩いて、張り詰め始めていた空気を一瞬で霧散させた。
彼女はソファーの背もたれにぐにゃりと体を預け完全にオフの女子高生の顔に戻る。
「あー、頭使ったらお腹空いた!てか、ひーくん、ピザもう一枚焼いていい?」
「勝手にしろって」
手繰さんは浮足立ちながら冷蔵庫へと向かい、めぐるさんや花屋敷さんも付いて行く。
トリプルモニターの青白い光に照らされたリビング。
ジャンクフードの油の匂い。
ペンを握る俺の指先には、まだ微かな震えが残っている。
「……なぁ、標識」
俺はノートを閉じながら、ずっと胸の奥に引っかかっていた疑問を口にした。
「あのさ、なんでそこまでして、ばっくるーむのことを調べてんの? マップを作ったり、海外のフォーラムを漁ったりして……。ただ生き延びるため、だけじゃないだろ」
一日に二回も引きずり込まれた俺が言うのも変な話だけど。
普通なら、あんな恐怖の空間からは目を背けたくなるはずだ。
関わらないように、忘れてしまえるなら忘れて、現実の生活に閉じこもりたくなるのが人間だと思う。
標識はコーラのカップを持ったまま、動きを止めた。
モニターの青い光が、彼の充血した瞳の奥を冷たく照らしている。
「……生き延びるためだよ、話」
標識はキーボードを叩いて画面をスリープモードへと切り替えた。
部屋を支配していた青白い光は呆気なく消え、夕闇の入り混じったリビングの、少し薄暗い照明だけが残される。
「あいつらがどう思ってんのかは知らんけど。や、聞いてもいないけどさ。……情報があればこいつらを救えんなら、調べるしかないだろ」
「……そっか」
「そうだよ」
標識はぶっきらぼうにそう言うと、残りのコーラを一気に喉へと流し込み、プラスチックのカップをローテーブルに小さく叩きつけた。
「だから言ったろ。男友達が出来て良かったってさ——おい白!ピザ焦げてんぞ!」
「えっ嘘!?」
キッチンのトースターへと慌てて走っていくめぐるさんの足音。
ソファーでポテトを齧りながら、くすくすと笑っている手繰さん。
それから、フィッシュバーガーの包み紙を丁寧に畳んでいる花屋敷さん。
彼女たちの無邪気な笑い声が薄暗くなり始めたリビングに響いていて。ローテーブルの上のマックのゴミと、埋め尽くされ始めているノートを奇妙に照らし出していた。
世俗的なジャンクフードの匂いの中で、俺は確実に、世界の裏側の歩き方を学び始めている。




