1-4:とおぼえのようないかりもある
「こんばんは、生きてる?」
声が聞こえる。
女性の声だ。
なんだか柔らかくて、図書館のようで、眠くなってしまいそうな、そんな声。
「……生きてます」
「ん、知ってる」
目を開ける。
どうやら倒れていたらしい。
声の主は仰向けになって転がっている俺を覗き込んでいた。
人間だ。どこから、どう見ても。
「ありがとう……まって、スマホは!?」
「あるよ、ここ。電話切っちゃったけど良いよね?ひーくんが死にかけてたし」
はい、とスマホを手渡される。
ひーくん?誰のことだろうか。というか、電話が繋がっていたことに対して気を留めなかったのは、もしかして。
「花屋敷さんの知り合い……ですか?あのメンバーの?」
「そうだよー。聞いてない?ないか、下手だもんね、さろんは説明するのが」
こてん、と首を傾げる女性。いや、少女?
花屋敷さんと同じくらいの年齢に見える。
猫耳が付いた分厚いニット帽に、少しだぼっとしたダメージジーンズ。それから厚底の黒いスニーカー。歩きにくそうだが、ここは安全なのだろうか?
「どこまで聞いた?わたしのことは知ってる?」
「いや……むしろ、なんで俺のことを知っているんだ、というか……」
「おっけーおっけー、なんも聞いてないね」
すとん、と彼女は地面に座った。
俺も起き上がって、そのまま座って待つ。
コンクリートのような、冷たい地面だ。さっきまでいた黄色い部屋とは違って床も壁も固い。
「ここは安全地帯だよ。れべるとしては脅威もあるけど、少なくとも今いる場所は安全」
首に掲げているヘッドホンは、有線で彼女のスマホに繋がっていた。
「ああ……無線だと有線より電波が悪いんだ。のーくりっぷした時に便利だよ、身につけておくといい」
白いヘッドホンは、グレーが主体の古着レイヤードのような彼女の服装によく似合っている。ただのオシャレと思っていたけれど、なにか意味があるらしい。
「えっと……のーくりっぷ、っていうのは?」
「……さろんは本当に説明が下手なんだね」
眉を八の字に曲げて、彼女は苦く笑う。
それから、近くにある缶を徐に空けた。
かしゅっ、と音がする。
「わたしは白黒めぐる。さろんの友達だよ。はい、これ。ここの飲み物だけど美味しいよ」
手渡されたそれは、白色の缶。
振るとちゃぽんちゃぽんと水音がする。匂いを嗅いでも、少しアーモンドっぽい匂いがするだけだ。
「喉乾いてないの?」
「や、乾いてる、んですけど……」
「美味しいよ」
彼女はもうひとつ缶を取り、自分で飲んだ。安全だ、と身をもって証明してくれたのだろう。
「じゃあ、いただきます……」
恐る恐る口付ける。
口に広がるのは、薄らと甘い……ただの水だ。
「君が話くんでしょ?さろんがツーショ送って来たから、顔は知ってるよ」
「あ、あぁー……たしかに」
「暗めの茶髪。ばっくるーむを逃げ回る体力と運はあるけど、若干気弱そう。地味なのでなにか目印になる帽子や服装をさせたい——って、さろんが言ってたし」
若干悪口じゃないか。そう言いたいのをぐっと堪える。
「あ、そうだ。わたしもタメで話すから、敬語は無しね。背中を預けることになるだろうし、仲良くしてね?」
背中を預けることになる。
命を預けることになる、という意味で間違いないのだろう。
「うん、……よろしく。白黒さん」
「さん付け?めぐるにして」
「……よろしく、めぐるさん」
えー、と嫌そうな顔をされるが。一旦そこは無視をする。
話しながら思ったが、この空間はさっきの黄色い部屋と比べて静かだ。
椅子と机があって、飲み物もある。ワンルーム程度の大きさで、扉にも鍵がかかる。窓はないが、ほんとうに安全そうに見えるし感じる。
「うーん、何から話そうか?ひーくんが落ち着くまできっとまだかかるし、時間は沢山あるからね」
「じゃあ、えっと……ひーくんっていうのは誰?なんで時間が……?」
「ひーくんはねえ、さっき話してなかった?大きい声の男の子。時間があるのは……追々説明するね。自己紹介チャット、見る暇無かったのかぁ」
すいすい、と彼女は自身のスマホでそのチャットを見せつけた。簡素な内容だ。
【標識 東】【電波が繋げるっぽい】
たったそれだけの自己紹介文。
「ひょうしき ひがし、だからひーくんって呼んでるんだー。みんな各々好き勝手呼んでるけどね。とりあえずメンバーの紹介しようか?」
「じゃあ……お願いしてもいい?」
「まかせて」
そういうと彼女は立ち上がって、かと思えば机の引き出しを空け、クレヨンを取り出した。
「先ず、リーダーのさろんについては別に良いよね?」
そう言いながら、赤いクレヨンで壁に図を描き始めた。
リーダー。花屋敷さろん。
「あの、落書き……」
「後で移動するからいーの」
そう言われてしまうと困ってしまうが。
別に誰のものでも無い空間だから良いのだろうか?
楽しそうに丸を描く彼女を見ると、止める理由もないならば好きにさせても良いか、と思ってしまった。
「さろんは基本的に、総合指揮とか、安全なのーくりっぷとかを確認して貰ってる。わたしたちの頭脳みたいなかんじかなー」
「のーくりっぷ、は?」
「話くんは落ちるタイプらしいけど。兎に角、こう……こっちの世界?ばっくるーむに入ったり、移動したりするための手段、っていうか……うーん、説明が難しいなあ」
ああ、なんとなくわかったかもしれない。
体が覚えている。
あの、コンビニの帰りに足元がすっと軽くなって、壁をすり抜けるようにして奈落へ落ちていった、あの感覚。
その事象が「のーくりっぷ」というやつなのだろう。
「あの壁抜けみたいなやつ……だよね?」
俺の言葉に、めぐるさんはクレヨンを動かす手をぴたりと止めて、嬉しそうに笑った。
「そう、それ! 理解が早くて助かる。さろんはそれができる隙間?狭間?ともかく、そーいう場所を見つけるのが得意なの」
彼女は赤い丸の中に、目、と器用に書き足す。
それから今度は青いクレヨンを手に取って、さろんを表す赤丸の横に並べるように新しい丸を描いた。
「次。ひーくん行こっか。さっきも言ったよね、標識東って名前の男の子。通話でちょっと話したしね。さっきまで電話できてたのも、ばっくるーむ内で情報共有が出来るのも、ぜーんぶひーくんのおかげ」
めぐるさんは誇らしげに胸を張る。けれど、その後に続く声は、どこか切なげにトーンを落とした。
「ひーくんの後遺症は便利だから、つい頼り過ぎちゃうし、実際ひーくんも手を差し伸べてくれるんだけど。その分、辛いことをさせてるから、ね」
「その……映像とか音が、自分に流れこんでくる、ってやつ?」
「うん。別に確証がある訳じゃないけど、多分、ひーくんは意識か脳か、そういうものを薄くばっくるーむにのーくりっぷさせてるんだと思う。彼が受信した内容を、彼を通じて電波に乗っけてる、っていうか……」
少し考える素振り。それからすぐに彼女は悲しそうに笑う。
「だからね、気味の悪い映像も、化け物の声も、全部が見えて聞こえちゃうから、自分の声すら聞こえなくなって、いつもあんな爆音で怒鳴るの。チャンネルを開きすぎると、脳が焼けちゃって……」
彼女はそこで黙った。
青いクレヨンを握る指先が、ほんの少しだけ白くなっている。
静かになった部屋に、蛍光灯とは違う、コンクリート特有のひんやりとした無音が満ちていく。
さっきまで俺の耳元で怒鳴っていたあのうるさいくらいの声の主が、今まさに現実世界かどこかで脳を焼かれながら鼻血を出していたり、酷い頭痛に苛まれているのかもしれないのだと思うと、急に手元の白い缶が重く感じられた。
「湿っぽいのなし!ごめんね、次いこっか」
彼女はぶんぶんと頭を振って、それから別の色のクレヨンを取る。
一度ピンクを取ってから、少し迷って、黄色に変えた。
ずっと星型が描かれる。
「二人が頭脳と裏方だったら、彼女は前線。名前は……あ、まって、いっぱい人の名前覚えられる?」
めぐるさんは黄色いクレヨンを持ったまま、顔をこちらに向けた。
ウルフカットの灰色が揺れる。
「いや、ちょっと自信ないかも。一気に言われると、誰が誰だか混ざる」
正直に答えると、めぐるさんは「だよねー」と親しみやすい笑みを浮かべ、黄色い星マークの横に『特攻・かわいい』と器用に書き足した。
「名前は後回しね!この子はデコラっぽい格好してて、独特のセンスがあるっていうか……話くん、デコラってわかる?」
「うーんと……原宿とかそっちの方の……顔にシール貼ってるファッションだよね?」
「だいたいあってるからそれで良いか。もしかしたらパッと見少年に見えるかもだけど、可愛いもの好きの女の子だよ。それでね……」
彼女はぐりぐりと何回も黄色い星型をなぞる。ぐちゃぐちゃになったクレヨンで。
「れべるふぁん、っていう、パーティーみたいなとこによく居るんだ。今日も居る」
「ふぁん……?」
「ふぁん」
星の少し先に、FUNと書かれた。
fun。英語で、楽しい、だろうか。
「楽しいの?」
「全然楽しくないよ。えんてぃてぃ……化け物のことね。最凶最悪のえんてぃてぃがうじゃうじゃいる場所だ」
淡々とした口調の裏に、冷徹な現実が張り付いている。そんな場所に、自分と同じくらいの、派手で可愛いものが好きなだけの女の子が、今この瞬間も滞在している。
「……なんで、そんな場所に」
「あそこがKAWAIIから、なんだって。……後遺症の後遺症たる部分だよね、その辺は」
だから、ひーくんにも負担がかかってしまってるし……。
小さな声で彼女が付け加えた。
めぐるさんは黄色いクレヨンを机に戻すと、今度はきちんとピンクのクレヨンを手に取った。
次の人の話をする、というよりかは、これ以上は前線の話を踏み荒らさないという意思表示のようにも見える行動。
壁に残されたぐちゃぐちゃの星マークと、『FUN』の三文字が、どこか不気味に浮かび上がっている。
「次……最後かな?情報整理担当ね」
ハートの形だ。
それから、シャープ……いや、ハッシュタグか。記号が書かれた。
「インスタが好きなのかな。普通の可愛い女の子だよ、彼女も。わたしたち全員そうなんだけどさ。ええっとだから——後遺症は、タグ付けって言えば伝わる?」
彼女がハッシュタグの記号にくるりと丸をつけた。
タグ付け。ツイッターのようなあれを指しているのだろうか。
「見たもの、聞いた異常現象に、脳内で自動的にタグ付けができる……や、される、って言った方が良いか。情報収集と整理が得意なの。話くんは、インターネットでここが噂されてるのは知ってる?」
「そういえば、花屋敷さんが少し言っていたような……?」
「うん、噂されてるの。多くは違ってる部分もあるけど、概要としてはかなーり参考にはなるんだ。そういうのも集めて貰ってる。すごいんだよ、あの子、生きとし生けるデータベースなんだ」
めぐるさんはカラカラと笑った。
けれど、そのピンク色のハートマークを、彼女は少しだけ爪の先で引っ掻くようにして見つめた。
「でもね、その代わり。ほとんど、情報をデータとしてしか覚えられなくなっちゃったんだ」
「データとして?」
「うん。長くて感情的な記憶は、脳がどんどん忘れちゃうの。SNSの短い投稿みたいにしか、過去を記憶できない。だから、彼女はもう、私たちが昔どんな風に笑い合ってたかとか、そういうの、忘れつつあるんだ……」
——できること一つ、壊れていること一つ。
さっきから、彼女が口にするチームのメンバー全員が、等しくその不条理な呪いを身に宿している。
ここへ送られた代償として、若しくは逃れた代償として。
誰もが何か決定的なものを壊されているのだ。
「めぐるさんも、もしかして」
「めぐる、ね」
「……めぐるも、そういう後遺症ってやつが?」
「あるよー」
めぐるさんはクレヨンを机に戻すと、猫耳の帽子をきゅっと深く被り直した。
「リーダー、通信、前衛に情報。良くも悪くもバランス良い、ってやつだよね。――わたしはみんなと比べて、ちょっとだけ鼻が利くんだ。安心安全の防衛地帯の発見、かな?」
つん、と彼女は自分の鼻を叩く。
若干ドヤ顔。
「例えば、そうだなー……。この部屋は無味無臭だから安全!でも、その扉を開けると、ちょっとネオンっぽい匂いがする。特に、右前の方から。そっちにえんてぃてぃが居るんだと思う。みたいな?」
「すごいね」
「すごいんだよ」
話を聞くに彼女には、この狂った迷宮に漂うえんてぃてぃの感情や、遭難者の恐怖などが、嗅ぎ分けられる、らしい。だから彼女は迷わない。無限に生成される不可思議で不愉快な世界において、彼女こそが唯一無二の防衛基地でコンパスだった。
「さて。話くん。今回はラッキーだよ。いや、前回もラッキーなんだっけ?兎にも角にも、今日はひーくんが復活すれば、ほぼ確定で帰宅できる」
「えっ……?でも、前回は」
そう。前回は、逃げ回って落ちて、また逃げ回った先で花屋敷さんに出会った。
そこから、あちらこちらを行ったり来たり――厳密に言えば戻ってはいないのかもしれないけれど、区別がつかない――して、ひどく歩き回っていた記憶があるのだ。
「ここはれべるわん。犬じゃなくて数字の、わん。わたしたちがよく利用する中継地点で、君は偶々わたしの匂いの届くところに落ちてきて、さろんが見つけた安全にのーくりっぷして現実に行き来出来る隙間がある。ちょっと歩くけど、それもひーくんのナビゲートとわたしの嗅ぎ分けがあれば危険なことはそうそう無い」
わおん。
なんちゃって。
彼女は猫耳部分を持ち上げた。どう見ても猫だが、本人的には犬の認識なのだろうか?
どちらにせよ、そのちょっと抜けたおどけ方が、重くなりかけた部屋の空気をいくらか和らげてくれた。
「さて、話くん。ちょっと待っててね」
めぐるはヘッドホンを耳に当てると、スマホの画面をタップした。有線のコードが彼女の指先で小さく揺れる。
しばらく、彼女は目を閉じてじっと音を聴いているようだった。
「もしもーし。さろん?どう?行けそう?あ……そう。うん、彼は無事。おっけおっけ、わかった」
ヘッドホンを首にかけ直しためぐるが、俺を見て満足そうに頷く。
「ひーくんはちょっとまだダメそうだけど、さろんが隙間を見てくれてるみたい。走るかもしれないけど大丈夫?」
「まあ、それくらいなら。……隙間を見てくれている、っていうのは?」
「入口があれば出口もあるでしょ?どっちかを肉眼で認識できれば、どちらも認識出来るんだって」
わかったような、わからないような。全て理解できたわけではないけれど、彼女の言葉には確かな信頼感があった。
「電話、切るね。てかひーくんと一緒にいるなら電波切っちゃっていいよ。じゃあ、そういうことで——よし、出発しよっか」
缶は置いていっていいからね、と彼女は笑った。
壁には色とりどりのクレヨンで描かれた、不揃いな記号たちが並んでいる。
目、電波、ぐちゃぐちゃの星、ハッシュタグ。
この痕跡も消えてしまうのだろうか?それとも、辿り着くのが困難なだけで残りはするのか?
「右側はなんか、嫌な感じがするから、出来るだけ静かに行こうね。左で大回りしたらゴールだよ。明かりは安心する匂いがするから、出来るだけ持っておこう。はい、懐中電灯」
「あ、ありがとう。準備が良いんだね」
「準備が悪いと死んじゃうからねー」
手渡された懐中電灯は、ちかちかとたまに点滅はするものの、問題なく使えるものだ。ストラップが付いていて、彼女を真似するように自分の手首へ付ける。
明かりは安心する匂いがする。
化け物……えんてぃてぃ?とやらが近寄り難くなるのだろうか。そうだったなら良いんだけれど。
「開けるけど……出来ればわたしの後ろをそのまま付いてきてくれると良いよ。たまに床の強度がバグってて、踏んだだけで下のれべるに強制のーくりっぷ、なんてトラップがあるからね」
「……怖いな」
「怖いから、わたしの鼻が利くんだよ。ほら、行こっか」
めぐるさんは問答無用でドアを開けた。
開閉音もせず、ぼんやりと薄暗い霧と、コンクリートの壁に囲まれている。なんだか、閉鎖感がすごい。
彼女は一歩外へ踏み出す。俺もそれに続いた。
部屋の外は、どこまでも続くコンクリートの回廊だった。天井は高く、むき出しの配管がいくつも這い回っている。たまに水溜りがあるが、すべてめぐるさんはそれを避けて歩く。人工物の中の不自然な自然は、のーくりっぷの隙間なのだろうか?
躇なく右へ左へと曲がっていく足取りに続きながら、きょろきょろと見回しつつ、ライトを振る。
どのくらい歩いただろうか。不意に、めぐるさんは足を止めた。
「たぶん、この配管の合間」
彼女は壁に沿って設置されている——生えている、と言った方が適切かもしれない——パルプとパルプの間を指した。
どこからどう見ても、俺にはただの壁に見えるそこ。
それでも彼女は、絶対的な確信がある素振りをしていた。
「飛び込んだら、リアルに戻れる、はず」
「はず……」
「絶対は無いけど、ほぼ絶対」
むき出しの灰色の配管と、煤けたコンクリート。
どう見てもただの行き止まり。全力でぶつかったら、間違いなく額が割れて痛い思いをするだろう。
これが常時なら。
けれど、俺の身体は知っている。あの、アスファルトをすり抜けて底の抜けた世界へ落ちていった瞬間を。内臓がひっくり返るような浮遊感を。吐き気のする風切り音を。
「……怖い?見本見せてあげる。わたしが行ったら、ちゃんと来るんだよ」
めぐるさんは振り返り、猫耳の帽子を抑えてにっと笑う。
そして躊躇うことなく、その固い壁に向かって一歩を踏み出した。
絶対に激突する、と思った。
しかし彼女の身体は、まるで水面に飛び込んだかのように、けれど波紋のひとつも立てず、音もなく壁の向こう側へと吸い込まれて消えた。
残されたのは、コンクリートの不気味な無音と、手元でちかちかと頼りなく点滅する懐中電灯の明かりだけ。
……怖い。怖いと、思った。
一人でここに取り残された瞬間、恐怖と悪意と、闇が襲いかかってくるような感覚。
ここに残れば死ぬ。
確信がある。
「……」
俺は懐中電灯を強く握り締め、めぐるの消えた配管の隙間——本当にただの壁に向かって、全力で身体を投げ出した。
落ちる、落ちる、落ちる!
どさ、と情けない音がして、俺は硬い床に転がった。
デジャブ感のある光景だ。
「床に寝るのは行儀が悪いのです」
花屋敷さろんが、真っ赤な目を少し細めて俺を見下ろしていた。
ジャズっぽい音楽が鳴っている。観葉植物とレコードと小説に囲まれた机にアイスティーが三つ乗っている。
花屋敷さんの隣には、アイスティーを避けてコーヒーを頼むめぐるさんの姿もあった。
「お疲れ様、ちゃーんと戻ってこられたね」
現実だ。
地面がちゃんと固い。固くて柔らかくて、本物の太陽で。
涙が出そうだ。
「二人とも無事で良かった。飢えも乾きもあるでしょう、……お茶にするのですよ」
花屋敷さんは俺に手を差し伸べる。
多方、未だに転がったまま起き上がれない俺を見かねての行動だろうが、その手の温かさに酷く安心した。
窓から射し込む太陽光が眩しい。
招かれるまま、彼女らの対面に座る。
この現実に居ることを確かめるように、一口、溶けかけたアイスティーを飲み込んだ。




