第13話『不穏な噂』
バイコーンの脚は、今日も軽快だった。
山道だろうが獣道だろうが、まるで整えられた街道を走っているみたいに駆け抜けていく。
これでも人目がある場所ではかなり速度を落としているのだが、それでも普通の馬とは比べものにならない。
「もう俺、この子無しで旅出来る気がしないな……」
『依存するのが早いのう』
肩に止まった赤い小鳥――フェニックスがコロコロと笑いながら羽を揺らす。
前に座るステラは、膝の上に小さな鞄を乗せている。
中には薬草や小瓶、すり鉢などが詰まっている。道中で見付けた薬草を集めては、薬草学の本にあった記述と照らし合わせているのだ。
今も、摘んだ葉を一枚取り出しては、じっと眺めている。
「ステラ、落ちないようにな」
「はい。ご主人様」
返事はいつもの通り淡々としている。
けれど、薬草を扱う指先だけは、どこか慎重で丁寧だった。
そんな時だった。
前方の街道の脇で、何人かの冒険者が休んでいるのが見えた。
「なあ、兄ちゃん冒険者か? この先に行くなら気を付けな」
俺達が近付くと、その中の一人が声を掛けてきた。
「何かあるんですか?」
「すぐそこに新しいダンジョンが出たんだよ。難易度は初級。出てくるモンスターも大したことねえ。だがな、クリア率がやけに低いらしい」
「初級なのに?」
「ああ。ボス部屋まで行くのは簡単だという。だが、問題はボスだ。挑んだ奴らが揃ってボロボロになって帰ってくる。中には戻らねえ奴もいる」
男はそう言って、苦々しく顔を歪めた。
「俺達も覗いたが、途中で引き返した。嫌な気配がするんだよ、あそこは」
「なるほど……」
俺は曖昧に頷いた。
(クリア率が低いダンジョン……か)
普通なら近付かない。
初級に見えて罠があるなんて、いかにも危ない話だ。
だが、すぐそこにあると言われると少し気になる。
ケルベロスがポケットの中から鼻先を出した。
『行くか』
「……え? 危険だって言ってるのにわざわざ?」
『初級ごときに怯えてどうする』
「怯えもするよ。俺は戦闘スキルもない普通の人間なんだから」
『普通の人間はケルベロスとフェニックスを連れて旅などせぬ』
「まあ……それはそう」
言い返せなかった。
結局、俺達は冒険者達に場所を聞き、そのダンジョンへ向かうことにした。
彼らは本気で止めたそうな顔をしていたが、俺の肩に止まる小鳥と、ポケットから顔を出す子猫を見て、何か言う気を失くしたようだった。
ダンジョンの入口は、街道から少し外れた林の中にあった。
石でできた古い門のようなゲートだ。
見たところ、そこまで危険そうには見えない。
「ステラ、手を繋いでおいてくれ。変な扉とか宝箱とか、勝手に開いたら困るから」
「はい」
ステラの細い手が、俺の手を握る。
これで少なくとも『解錠』のスキルが暴走することはない。
ダンジョンの中は、冒険者が言っていた通り典型的な初級のそれだった。
薄暗い石造りの通路。たまに現れる小型のモンスター。
コウモリのようなものや、拳ほどの大きさの虫型モンスターが襲ってきたが、ケルベロスが大きくなるまでもなく、フェニックスが羽ばたいた時に散った小さな火の粉だけで逃げていった。
「……本当に初級だな」
『退屈じゃのう』
フェニックスが欠伸をするように小さなくちばしを開けた。
ステラはそんな道中でも、壁際に生えた苔のような薬草を見付けては足を止めている。
「それも薬になるのか?」
「はい。乾燥させると止血薬の材料になるようです」
「へえ……」
本当に、よく覚えている。
俺なら本を開いた時点で眠くなっているところだ。
やがて、俺達は最深部らしき場所に辿り着いた。
重たい石の扉がある。
手を翳す必要もなく、近付くだけでゆっくりと開いた。
「……ボス部屋だな」
『ようやく本命か』
ステラの手を離し、彼女には少し後ろへ下がってもらう。
前に出るのは俺とケルベロス。フェニックスはステラの肩に止まったまま、静かに様子を見ていた。
中は、不思議な部屋だった。
壁も床も黒い石で作られているのに、正面にだけ大きな鏡が立っている。
人の背丈の何倍もある、やけに立派な鏡だ。
鏡面は水のように揺らいでいて、こちらの姿を歪めて映している。
「……ボスはどこだ?」
そう呟いた直後だった。
鏡の中で、黒い影が蠢いた。
水面から這い出るように、何かが鏡の奥から姿を現す。
それは影のように真っ黒な獣だった。
三つの頭。しなやかな体躯。毒を滴らせる牙。
「なっ……ケルベロス!?」
俺の足元で、子猫だったケルベロスが低く唸った。
次の瞬間、その体は豹ほどの大きさに膨れ上がる。
戦闘時の姿だ。
『鏡ごときが我の姿を真似るとは、不遜な』
鏡から出てきた影のケルベロスも、同じように三つの頭で唸った。
だが声はない。
ただ真っ黒な体を低く沈め、こちらを殺すためだけに構えている。
「なるほど……そういう仕組みか」
冒険者達が苦戦する理由が分かった。
ボスは、挑んだ者と同じ姿をした影を生み出すのだ。
それなら実力は互角。
だが、相手が影なら疲労を知らない。痛みも、恐怖もない。
戦えば戦うほど、生きているこちらだけが消耗していく。
「厄介すぎるだろ、それ……!」
『下がっていろ』
ケルベロスがそう言った直後、二匹の獣が同時に地を蹴った。
速い。
目で追うのがやっとだった。
三つの頭が互いの喉を狙い、毒の牙が噛み合い、硬い爪が床を削る。
黒い毛皮同士がぶつかる度に、岩を打ったような鈍い音が響いた。
ケルベロスが影の首筋に噛み付く。
だが影も同じようにケルベロスの肩へ牙を立てた。
毒の液体が飛び散り、床を焼く。
どちらの毒も、どちらにも効かない。
互いに硬い毛皮を持ち、互いに同じ牙を持っている。
「ケルベロス……!」
思わず声が出る。
ケルベロスに痛がる様子はない。
けれど、肩の毛皮が裂けているのは分かった。黒い毛の間から、赤い血が滲んでいる。
「ご主人様」
背後でステラの声がした。
振り返ると、彼女は鞄に手を入れていた。薬を取り出そうとしているのだろう。
「まだ来るな! 危ない!」
「……はい」
ステラは命令を守り、その場で止まった。
けれど、その目はずっとケルベロスを見ている。
無表情に近いはずなのに、不安そうに見えた。
ケルベロスと影は、互角だった。
いや、少しずつこちらが押されている。
影は傷を負っても動きが鈍らない。息も乱れない。
ケルベロスは戦い慣れている。だが、生きている以上、疲労はある。
『小癪な……!』
ケルベロスが影の前脚を噛み砕いた。
だが、影の脚は黒い霧のように揺らいだ後、すぐに元の形へ戻ってしまう。
「再生までするのかよ……!」
影の牙が、今度はケルベロスの腹を掠めた。
血が飛んだ。
その瞬間、胸の奥が熱くなった。
ずっと俺を守ってくれた。
ステラを守ってくれた。
文句ばかり言いながら、それでもいつも前に出てくれた。
そのケルベロスが、目の前で傷付いている。
(守らないと)
声にならない声が、喉の奥で震えた。
(俺が、守らせなきゃいけない。俺たちを。ステラを。フェニックスを。ケルベロス自身を――!)
バチン、と。
空気が弾けるような音がした。
ケルベロスの体が、一気に膨れ上がった。
豹ほどだった体躯が、大型の熊のように、いやそれより更に一回りほど大きくなる。
三つの頭はさらに獰猛さを増し、床に落ちた影さえ濃くなったように見えた。
「……で、でかくなった」
『やれば出来るではないか』
ケルベロスは低く言った。
どこか楽しそうでもあった。
影が地を蹴って飛び掛かる。
しかし、今度は勝負にならなかった。
大きくなった前脚が、影の体を床へ叩き付ける。
そのまま三つの口が同時に食らい付いた。
首を。
腹を。
脚を。
影の体が黒い霧になって崩れる。
それでも再生しようと蠢く中心に、ケルベロスの真ん中の頭が牙を突き立てた。
何かが砕ける音がした。
次の瞬間、鏡に大きな亀裂が走った。
黒い影が悲鳴のような音を立てながら吸い込まれていき、やがて鏡は粉々に砕け散る。
広い空間に、静寂が戻った。
「……勝った、のか?」
『当然だ』
ケルベロスはそう言いながら、少しだけ息を吐いた。
その肩や腹には、確かに傷が残っている。
「ケルベロス、怪我してる」
『この程度、怪我の内に入らぬ』
「いや、血が出てるって」
駆け寄ろうとした俺より早く、フェニックスがステラの肩から飛び立った。
赤い小鳥は空中で大きくなり、翼を広げる。
すると、神々しい炎を纏う翼から柔らかな炎が零れた。
『ほれ、じっとしておれ。妾の炎を受けるがよい』
『要らぬ』
『要る要らぬの話ではない。愛らしいステラが不安そうな顔をしておる』
『……ふん』
ケルベロスは不満そうに鼻を鳴らしたが、それ以上は抵抗しなかった。
フェニックスの炎が、ケルベロスの傷を包む。
熱そうに見えるのに、空気は穏やかだった。
燃えるというより、温かな光に包まれているようだ。
裂けた毛皮の下にあった傷が、少しずつ塞がっていく。
血が止まり、赤く滲んでいた場所が何事もなかったように戻っていった。
「……すごい、本当に傷が治るんだ」
『妾を誰だと思っておる。伝説の神獣、フェニックスじゃぞ』
「さっきまでチュンって鳴いてたから……」
『それはそれ、これはこれじゃ』
フェニックスは得意げに胸を張った。
ケルベロスの体はすぐに縮まった。
熊より大きかった獣は、あっという間に三つ頭の子猫へと戻ってしまった。
「みゃう」
「その姿でさっきの威厳を出すの、無理があるな……」
俺は小さく笑って、ケルベロスを抱き上げた。
ステラがそっと近付いてくる。
その手には、途中まで取り出していたらしい薬瓶が握られていた。
「ステラも心配してくれてたんだな」
「……はい。治療が必要だと判断しました」
「そっか」
ケルベロスはそっぽを向いていたが、嫌がる様子はなかった。
もしかすると、少しだけ嬉しかったのかもしれない。
砕けた鏡のあった場所には、小さな宝箱が現れていた。
中身は銀貨と、透明な石が一つ。
何に使うものかは分からないが、少なくとも売れば多少の金にはなりそうだ。
「初級ダンジョンにしては、随分と面倒なボスだったな……」
『相手が悪かっただけじゃろう』
フェニックスが言う。
俺は苦笑しながら宝箱の中身を鞄にしまい、ステラと手を繋ぎ直した。
「よし、ダンジョンクリアだ。近くの冒険者ギルドでこの素材も売って、なんか飯でも買おうか」
肩の上ではフェニックスが小さく羽を揺らし、隣ではステラが静かに歩いている。
その手の温度を感じながら、俺達はダンジョンの出口へ向かった。
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