番外編1.脳ある悪魔は、優しく微笑む
今から三か月ほど前の、四月。
新学期が始まって、いくつかの週が過ぎた頃の話だ。
* * *
通りがかりの中古リユースショップ。
その正面に貼り出された『新生活応援セール!!』の文字が、
開催期間の終わりを告げているのに気づき。
俺はふと、時間の流れを意識させられた。
硝子扉に映った自分の姿が目に入る。
なんとなく、制服の襟を正す。
小学生として過ごした六年間は、
やけに長く感じられた。
もしかすると俺はネバーランドに迷い込んでいて、
この世界では永遠に子供のままなのではないか――
そんな錯覚を覚えたほどだ。
あれほど一日一日が重く、
のろまな足取りだった時間が、今ではどうだ。
瞬きをする間に、一日が終わる。
なんてスピードだ。
例えるなら――
ショッピングモールの屋上で、
百円を入れて動くパンダの乗り物にまたがっていたはずなのに、
気づけばそれが、エンジン音を轟かせるスポーツカーに変わっていた。
そんな感覚だ。
時の速度違反を取り締まる者はいない。
何をしようが、何もしなかろうが、
大人へ向かう片道切符は、生まれた瞬間から懐にねじ込まれている。
子供の精神のまま、大人の身体で羽目を外せば――
いつか大怪我をする。
いや。
させてしまう、か。
俺の乗る“人生”という名のスポーツカーが。
いつの間にか霊柩車にすり替わっていないよう、
日々、自分を戒めておかねばならない。
そんなことを考えているうちに、学校に着いた。
俺は新たな決意を胸に刻み込み、
今日も元カノ――恋花へと、愛の挨拶を投げかける。
「おはよう、恋花。
今日も可愛いな」
「……ない。
おかしいな、昨日は鞄に入れてたはずなのに」
「ないってのはあれか、俺の存在感か。
まさか俺の身体は既に霊柩車にインした霊体で――
おはようのひとつも返してもらえないあまり、未練タラタラの地縛霊にでもなってしまったってわけか……!」
わざとらしいジェスチャーで絶望を表すと――
恋花は鞄の中を無造作に漁りながら、視線だけを寄越した。
「ああ、権現坂君。
来てたんだ、おはよ」
「誰だよ。
この学校に在籍してたかすら怪しい名前だろ。
前みたいに名前呼びしてくれとは言わんから、せめて名字は間違えないでくれ」
本気で絶望した。
知らないうちにクラス内で、
「あんな奴いたっけ」枠として――通称、権現坂。
そんな扱いを受けていたらどうしよう。
俺は深い悲しみを背負い、席へと腰を下ろした。
「それで?
何か探し物か? 教科書や筆記用具くらいなら貸すぞ」
「うーん……汐森君から借りるくらいなら、廊下に立ってた方がマシかも。
たぶん、みんな声を揃えて言うと思う」
「世紀末クラスかよ。
俺の筆記用具、どんな呪物扱いなんだ。
ほとんどいじめじゃねえか」
何という言い草だろう。
人の善意を、敵意や殺意で返す人間がどこにいる。
恋花は、こんなことを言う奴じゃなかったはずなのに。
「お前、なんか意地張ってないか?」
「意地? 誰が、誰に?」
「もう、俺のことを好きじゃなくなったのは分かった。
でもせめて、良い友達でいてくれてもいいだろ。
今からそんな調子じゃ、この一年、身が持たないぞ?」
――主に、俺の身と心が持たないのだが。
一年で自己肯定感がガタ落ちして、
気付けば『何でも買います、売ります』。
中古リユースショップみたいな人生を歩む羽目になりそうだ。
恋花は探し物を諦めたのか、
手をぴたりと止め、鞄を机の脇に引っ掛けて微笑んだ。
「そ。ここまで言わないと、
あなたのことだから、いつまでも私があなたを好いてると誤解するんじゃないかと思って」
「まあ確かに。
それは間違いないな」
「でしょー?」
――わあ、すごい。
これで僕たち和解できたね。
世界平和の第一歩は、
自分がサンドバッグになることを容認することだったんだ。
就職活動で長所を聞かれたら、
『世界で一番包容力があります』って答えよう。
エリート敗北者が過ぎて、
いずれ“負け犬のドーベルマン”なんて、ちぐはぐなあだ名が付きそうだ。
――それは置いといて。
「結局、何を探してたんだ?
失せ物なら手伝うぞ。
物だけでも分かれば、見つけ次第連絡できるし」
「……ありがと。
部活で使う物だったけど、多分落としたわけじゃないと思う。
昨日、鞄に入れっぱなしだったから、家に出したままなんだと思う」
「そっか。
大事な物じゃなさそうなら、よかった」
そう言うと。
恋花はふとこちらに視線を向け、
まじまじと俺の顔を見つめてきた。
そこそこ長い付き合いだ。
何を言いたいのかくらい、察しはつく。
ならば――勝手にアテレコしてやろう。
「相変わらずお人好しで、ハンサムナイスガイね。
地球が回っているのも、月と太陽が清継君を取り合っているからに違いないわ」
「ねえ、変な薬とかやってないでしょうね?
地球が自転するのは、あなたが転ぶ姿を世界が望んでいるからよ。
ナルシストの突発発作、やめて」
「失礼な。
お前がそんな目で見てくるからだろ」
「そんな目って何。
別に、何でもないから」
一拍。
「――見てたのは、それ」
恋花の指差す先へ、視線を落とす。
俺の鞄……いや、違う。
「そのキーホルダー。
去年どころか、中学の頃も付けてたよね。
……弟君から貰ったんだっけ?」
「ああ、これか。
もうずっと付けてるからな。
無いと、パンツ履き忘れて学校に来たみたいな気分になる」
「実体験あるみたいな言い方やめてよ……。
手作りなんでしょ? その……人形?」
「人形」という言葉に、わずかに迷いが混じる。
それも無理はない。
恋花の言う通り、それは昔――
中学一年に上がる少し前だったか。
弟から貰ったものだ。
家庭科の授業で作ったらしい。
裁縫なんて一度もしたことのなかったあいつが、
どうにか“人の形”を模そうとして、縫い上げた代物。
モデルは――なぜか、俺だった。
あいつには、俺が一体どんなモンスターに見えていたのだろう。
ただでさえ不格好だったそれは、
年月と共に輪郭を失い、汚れで黒ずみ。
今では人形と呼んでいいのかすら怪しい代物になっている。
見る人によっては、呪いの品に見えるかもしれない。
それでも――
俺にとっては、家族からの贈り物だ。
鞄に付いていないと、
何か大事なものを落とした気がして、どうにも落ち着かない。
「それだけ大事にしてるんだから、失くしたりしないようにね」
「……え」
意外だった。
今の恋花なら、
俺の大事なものなんて、まとめて廃棄物扱いすると思っていた。
不意を突かれて、言葉が少し遅れる。
「あ、ああ……気をつける」
もう少し気の利いた返しができた気もするが、
それを考える間もなく、前方から軽い足音が近づいてきた。
「よ! 清継、はよーす」
圭吾だった。
朝だというのに、
制服の波の中で一人だけサッカーユニフォーム姿。
白いズボンには泥と芝の跡が残っていて、
それが妙に、こいつの日常の輪郭を際立たせている。
だが今は――
恋花との、わずかな会話の余韻を味わっていたい時間だ。
「おはよ。
用が済んだら帰れ」
「どこのわがままプリンスだよ、お前は!
最期は、信頼してる家臣に背後から刺されて死ぬ未来が見えるぞ」
「姫君との会話を邪魔した罪だ。
万死に値する」
「命の価値感、狂ってるだろ。
お前の住む城は民衆の骨でできてんのかって。
それに姫様を見てみろ。もうイヤホンしちまってるぞ」
視線を向ける。
確かに、彼女は既に一人の世界に入り込んでしまっていた。
俺たちの会話など、小鳥のさえずりどころか、
醜いゴブリンの呻き声にしか聞こえていないのだろう。
悲しきかな。
圭吾は続ける。
「これでもちゃんとタイミングを見計らって来たんだぞ。
会話が途切れて、気まずくなりそうな頃合いを――な」
「まあ……確かに、良いタイミングではあったかもしれんな。
もうネタが尽きて、いよいよ服を脱ぐしかないと思っていたところだった」
「売れない芸人のリーサルウェポンやめろ。
つか、別に俺も清継と朝のお喋りを楽しみたくて来たんじゃねえよ」
ほう。
何か用があったとな。
しかし、用が無ければ話し掛けられないみたいな言い方をされてしまうと、
それはそれで悲しいと思う俺はメンヘラかな。メンヘラだよ。
用といっても、どうせ大したことではないのだろう。
眉を吊り上げ、
平手を差し出して用件を促す。
圭吾はその態度に不服そうな顔をしながら、ようやく話を始めた。
「清継、俺のスパイク知らね?」
「スパイス? 今夜はカレーか」
「ちげえよ、スパイク!
部活で使うシューズだよ。朝練終わって履き替えてから、どっか行っちまってさ。
教室にあると思うんだけど」
「クラスの誰かが、
自分の内履きと間違えて履いて歩いてるとか」
「違和感の職務放棄かよ。
歩きづらすぎて普通気付くだろ。床に恨みでもあるのか」
やかましい奴め。
あくまで可能性の話だと言うのに。
「じゃあ、同じサッカー部の誰かが持っていったんだろ。
落とし物だと思って、気を利かせたんじゃないのか。
あとで聞いてみろよ」
妥当な推論を示すと、
圭吾は肩をすとんと落とした。
「やっぱそれかなあ。
結構ボロいやつだったからさ……捨てられてなきゃいいけど。
とりあえず清継は見てないんだな。サンキュー……」
消え入りそうな声を残し、圭吾は去っていった。
――しかし、また失せ物か。
恋花も、ついさっき似たようなことを言っていた。
部活で使う物が見当たらない、と。
いや、単なる偶然だろう。
私物をわざわざ欲しがる、
そんな気の毒な人間がいるとは思えない。
放課後までには見つかるはずだ。
恋花の物もきっと自宅に置き忘れているだけで、
明日にはその報告が聞けるだろう。
今から話のネタが出来て、何よりじゃないか。
――そう思っていた。
この日、俺の鞄から、
弟がくれた大切なキーホルダーが失われる。
本当に、大切な物だ。
もしこれが、誰か人の手による、ふざけた悪戯だったのだとしたら――
極論、
俺はその人間を、
殺してもいいとさえ思うだろう。
番外編1
脳ある悪魔は、優しく微笑む
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